太鼓台文化・研究ノート ~太鼓台文化圏に生きる~

<探求テーマ>①伝統文化・太鼓台の謎を解明すること。②人口減少&超高齢者社会下での太鼓台文化の活用について考えること。

徳島県側の太鼓台等の見学について-②

2021年04月30日 | 見学・取材等

前回の徳島県側太鼓台①で紹介した太鼓台たちは、昔の曼陀峠(佐野~大野原)や境目峠(佐野~川之江)などを通って、讃岐や伊予方面から伝播してきたものでした。しかも伝えられた太鼓台は、現在は盛んとなっている西讃岐や東伊予の二世代以上、実に100年以上も前のものもあります。西讃や東予地方と昔から経済的・文化的な交流が盛んであった徳島県側には、その両地ではもう既に過去のものとなってしまった年代物の魅力的な太鼓台たちが、世代を超えて大切に伝承されていたのです。両地から見学や調査に参加された人々は、失われた自分たち太鼓台の〝過去の姿・カタチ〟を、ほとんど理解できないでいます。隣接する徳島県側に残されている太鼓台たちを、その〝祖先・かけがえのない遺産〟として、見学・調査では熱い想いで接していたのです。それは、だだ単に〝過去の見えざる遺産を追体験する〟というだけではなく、この目で直に過去の遺産と対面して、少しでも〝正確・公平に理解し、後世へ伝えたい〟と願っているようでした。前回や今回の情報発信につながる大掛かりな太鼓台文化の見学・調査・発信活動を可能にしたのは、大勢の、地元の皆様や太鼓台文化を探求する友人たちの、伝統文化に対する真摯な向き合いがあったればこそなのです。(下左から、2012.9.9三好市池田町イタノ、同日池田町西山、同日池田町ウマバ、2014.9.7三好市山城町光兼にて)

 

ただ、私たちが実見した徳島県西部の太鼓台も、現在では伝播当時の華やかさは全く失われてしまい、間違いなく衰退・消滅の方向へと突き進んでいます。さまざまな発展途上の太鼓台を数多く見ることが出来た、約20年ほど前の瀬戸内の島々がそうであったように、訪れた県西部でも超々が付くほどの少子・高齢化と、恒常的な人口減少の荒波に翻弄され、残念ながら太鼓台廃絶の流れをくい止められないでいます。古いもの・過去の遺産・無形の伝承等々、私たちが喉から手が出るほど知りたい手だての〝歴史を語れる客観的な太鼓台文化遺産〟が、残念ながら既に廃絶した地区も多いため、今や〝万事休す〟の瀬戸際にあると言っても過言ではありません。遺っていてくれさえすれば、まだまだ解明の余地があるはずの私たちの伝統文化は、現在では、その正確な歴史さえ理解できない〝存続の最大危機にある〟と言っても決して過言ではありません。

太鼓台文化圏の各地では、地域を象徴する太鼓台の消滅だけではなく、太鼓台の伝承を通じて支えあってきた地域コミュニティさえも、継承者の高齢化や若者不足が深刻で、間違いなく衰退・消滅の危機にあります。私は、太鼓台文化圏各地の置かれている厳しい立ち位置を、改めて問いかけたいと思います。

ところで、四国への太鼓台(この場合には、蒲団型の太鼓台だけに限らす、多種多様の形態をした太鼓台をさす)の伝播については、その経路として〝上方→淡路島→吉野川(船便)→阿波池田→西讃岐or東伊予〟を唱える説があります。果たして、そうなのでしょうか。未だこの説に納得できる客観的な史料にお目にかかれていませんので、私はその説には同調していません。私の見聞きする限り、客観的な徳島県下の太鼓台事情は次のとおりであることを、関連画像を添えて発信しておきたいと思います。

淡路は〝阿波路〟という言い方もあることから(江戸時代に阿波藩であったので)、ここでは淡路島全域を徳島県の関連地として紹介します。上方に近いこともあり、現在はその影響でかなり大型になった蒲団型の太鼓台(だんじり)が各集落にあります。同時に、過去においては、今よりもずっと規模が小さかったことや、曲芸的な所作をする比較的小型・簡素な太鼓台(遣いだんじり)も存在しているのも事実です。

左から、かっての規模を偲ばせている旧・南淡町沼島、写真裏にS14.4.10の記入があった旧・西淡町伊加利本村のだんじりと保管蔵及び収納断片・計5枚、旧・西淡町伊加利山口のだんじりと蒲団内部、旧・南淡町阿万上町、旧・津名町志筑、旧・南淡町福良備前町、同五分一、旧・北淡町斗ノ内浜の水引幕、旧・南淡町阿万塩屋町の水引幕、旧・南淡町阿万吹上町の水引幕、五色町都志長林寺のつかいだんじり2枚、旧・三原町上田八幡のつかいだんじり2枚、旧・一宮町高山のつかいだんじり2枚。

        

◆鳴門市・徳島市・小松島市の、紀伊水道の海岸沿いの地方及び吉野川下流域の地方。

淡路島に近いことから蒲団型の太鼓台が分布しているものと思われがちだが、そうではなく、小型の屋根型太鼓台(さっせぃ・あばれ)が伝承されている。

左から、鳴門市瀬戸町明神・2枚、徳島市勝占町・2枚。

◆吉野川中流域

やや大型の屋根型太鼓台が分布する。阿波市土成町御所神社の勇み屋台(高橋普一氏「阿波市の祭りと民俗芸能」を参考させていただきました)のうち1台は、小太鼓を四方に積み、太鼓叩きの乗り子は外向きに座って打つ形態。旧・麻植郡山川町の勇み屋台(斜めに太鼓を積み、お囃子も乗る。舁棒は前後で長さが異なる)は勇壮に石段を登る。美馬市脇町には、愛媛県東予や香川県西讃と同様の蒲団型太鼓台(よいやしょ)がある。

左から、土成町の勇み屋台3枚。山川町の勇み屋台2枚。

 

脇町・脇人神社の太鼓台

脇町の太鼓台は、地元では「よいやしょ」(掛声からの名称)とも称している。形態や装飾の状況からは、東伊予や西讃岐からの伝播が考えられる。残念ながら、年号記載の道具箱等は確認できていない。装飾刺繍や太鼓台規模に古い時代性を秘めているが、年代特定は不明である。結び方や下に垂れるとんぼのカタチからは、明治初年頃に新居浜から広島県大崎下島大長(現・呉市豊町)へ渡った〝大長・櫓〟の当該部位によく似ている。恐らく、東予方面から中古購入した太鼓台ではないかと思う。水引幕は力強く相当に痛みが激しいが、こちらも創建当時からほぼ手が加えられてないように思う。この幕は、上部の乳・縁(へり)の紋印や、幕全体の波頭のカタチ及び海女の足裏表現等から、松里庵・髙木工房につながる縫師の流儀であると考えられる。精細で厚みの少ない蒲団〆の表側と裏側からは、卓越した縫師の息吹が感じられるようだ。蒲団は7畳蒲団で、内側の閂は2カ所である。

左から、水引幕は新しいものを付けていたよいやしょ。元々この太鼓台に飾られていた幕の画像は後ろにある。カラーは大崎下島の大長の櫓で、とんぼorくくりがよく似ている。〝海女の珠取〟の海女にも龍にも、琴平の松里庵・髙木家の特徴が見られる)最後は蒲団〆の表と裏側。刺繍針の細やかな痕跡からは、昔の職人の手を抜かない丁寧さが認められる。

 

◆吉野川上流域(三好市池田町~同市山城町には前回①の蒲団型太鼓台が分布している)

今回の太鼓台探訪では、明治初期前後の今から凡そ150年程前、讃岐と東伊予に爆発的に広まった刺繡型太鼓台の影響を受けた、脇町-池田-山城の太鼓台の分布状況について紹介する。

三好市池田町公民館に保存されていた太鼓台の掛蒲団

30年ほど前に民俗資料室の壁面に展示されていたが、近年問い合わせたけれども行方は分からなかった。

三好市池田町イタノの太鼓台

建替え前の八幡神社拝殿をバックに撮影している。蒲団〆は鯉の瀧上りで、かっての坂出市の内濱太鼓台にも採用されていた。カラーは坂出・内濱のもので、坂出市・T.T氏所有、西条市・O.T氏等撮影。現在の西讃・東予地方では鯉の瀧上り図柄は珍しいが、かっては存在していた。なお内濱の裏地補強部分から、「大正3・1914年1月22日木曜日」付け大阪朝日新聞の断片が出てきた。

三好市池田町中西の太鼓台

JR三繩駅近くの一宮神社に奉納されている。太鼓台は、讃岐や伊予方面から伝播したものが数組、大切に保管されている。阿波・讃岐・伊予一帯の旧態を偲ぶには、甚だ貴重な遺産であると思う。

左から、中西太鼓台及び組立風景と蒲団部の構造。蒲団構造は阿・讃・予地方の少し前の標準的な形態である。古風漂う虎の蒲団〆の中身は、古綿かと思いきや、燈心が詰められていた。水引幕も年代物である。モノクロの幕の乳部分には、かろうじて紋の〝組合角〟が確認できる。この紋は松里庵・髙木工房の刺繍に多い。一宮神社にはだんじりも奉納されている。道具保管箱も複数あった。

三好市池田町川崎の太鼓台

太鼓台は廃絶していた。神社社務所の民俗資料室に、四本柱を飾る虹梁が遺されていた。

三好市山城町光兼の太鼓台

山間地であり、残念ながら人口減少から太鼓台は廃絶していた。水引幕の上段が光兼太鼓台で使用されていたもの。下段は明治13年1880製の三豊市山本町・大辻太鼓台で使われていた松里庵・髙木製の幕で、坂出市のT.T氏が復元し所有。蒲団〆は、銀色のものが光兼太鼓台のもの。少し太めのものは観音寺市大野原町・辻太鼓台所有のもの。辻の蒲団〆は制作年代は不明であるが、同町のS.T氏により松里庵・髙木製であることが確認されている。両氏には見学日当日に持参していただき、光兼地区に遺る古刺繍と参考比較させていただいた。

三好市山城町大月の太鼓台

大月地区の太鼓台は、別稿「四国山地の太鼓台」にて紹介しているので、そちらをご参考いただきたい。往時の盛大さ・華やかさには及ばないものの、四所神社のお膝元の同地区の太鼓台がまだまだ現役である。

(終)

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徳島県側の太鼓台等の見学について-①

2021年04月20日 | 見学・取材等

徳島県三好市の吉野川・池田ダム湖の北東岸から、徳島・香川両県境に連なる阿讃山脈の急坂を車でしばらく登ると、西山地区に着く。そこから西の山腹に沿った道路は、洞草(ほらくさ)-馬場(うまば)の集落へと続き、その先のT字に分かれた右方は、四国霊場66番札所・雲辺寺へと登り道が伸びている。西山と馬場には太鼓台、洞草にはだんじりが伝えられている。そのT字を左方に曲がると、井ノ久保集落の三社神社の横を通って雲辺寺への登り道入口に降りていく。そこから川之江方面への国道192号線沿いの、馬路・佐野地区にも太鼓台が伝えられている。

西山(西山本名)太鼓台

このうち、装飾刺繍を明治23、24年(1890-91)の両年に新調した西山太鼓台は、香川県の中讃から西讃・愛媛県東予・徳島県西阿地方の一帯に広がる巨大な〝刺繍太鼓台〟の発展に大きな功績のあった、松里庵・髙木縫師と、髙木縫師に続いて興った山下縫師(西山地区は山下縫師の故郷で、旧姓は川人氏。見学・調査に訪れた2012年9月、初めて知った)との、珍しい両師共同での〝コラボ制作の太鼓台〟である。西山太鼓台に関する情報発信としては、本ブログの昼提灯余話(2)や、冊子『太鼓台文化の歴史』(2013.3観音寺太鼓台研究グループ/刊の75㌻)等にて紹介している。そのうちの昼提灯余話(2)では、髙木・山下両縫師のそれぞれ初代と目される髙木定七師・山下茂太郎師について、以下の比較表のように、方や伝統の技・髙木縫師、方や新進気鋭の技・山下縫師として、互いの密接な関係性を述べている。しかし山下縫師の出身地である現在の西山地区は、急激な過疎化の進行により誕生から約130年を経た今、倉庫の中で半ば放置状態となっている。四国北岸地方の刺繍型太鼓台発展の礎を確かなものとした〝西山・コラボ太鼓台〟の盛衰は、真に悔しい限りである。

以下の写真は、上段が地元出身の山下(旧姓・川人)縫師の、蒲団締及び昼雪洞関連の品々。下段は髙木縫師関連の掛蒲団と水引幕に関する品々。これ以降の両縫師の工房は、互いを信頼しあった切磋琢磨が続き、この地方の太鼓台の大型化・豪華絢爛化など、太鼓台の巨大・均一化へと突き進むこととなった。

洞草(ほらくさ)だんじり

西山地区から西へ進むと畑の中に川人家庄屋屋敷がある。その辺りが洞草集落で、だんじりの装飾刺繍は山下茂太郎工房の作である。

 

馬場(うまば)太鼓台

昭和60年(1985)に見学した馬場・四所神社秋祭りの太鼓台は、現在の東予・西讃岐の太鼓台に比べると一回り小振りであった。装飾類の痛みも既に相当に目立っていて、その何年か後に再訪問した時には、蒲団〆なども更に素人の手が加えられていた。馬場の隣集落の西山からは、川人茂太郎縫師(後の山下茂太郎縫師、山下縫師の初代)が出ている。山下縫師のお弟子さんとして、馬場からは、森本民蔵縫師(親族の方からは、山下工房の一番弟子と聞いた)や、後に淡路島で成功された梶内近一縫師を輩出している。四所神社には、若き森本縫師が大正3年(1914)に年季明けした際の、奉納刺繍絵馬(最後の画像)がある。森本縫師は不運にも若くして他界したと聞いた。

   

井ノ久保太鼓台

国道192号の阿波池田方面から四国霊場・雲辺寺への登り道を行くと、井ノ久保・三社神社があり、そこに太鼓台が受け継がれている。太鼓台の道具保管箱には明治中期から後期の年号記載があり、伊予方面で使われていたものであることが分かる。写真の金縄保管箱に書かれている〝東伊予三嶋村・上町若連中・町中持處、明治廿四年旧九月吉日〟からは、香川県三豊市山本町・河内上組太鼓台に伝えられた道具箱〝金大八ツ房并同小房入箱、明治廿六年秋、新拵東雲(上町/久保太鼓台の別名)〟との関連も見えてきそうに思う。蒲団枠は明治20年製、閂は中央に1カ所であった。太鼓叩きの乗り子は、顔の少し右手でバチを十字に組んでいた。この所作も各地で同様なものが見られている。なお現在の神社へは、太鼓台は平たんな道路から境内へ直に入れるが、道路整備がされていなかった頃には、境内を見上げる足場の悪い急坂を、地域総出にて宮入していたそうである。(最後の写真)

   

馬路太鼓台

雲辺寺方面から下ってくると国道192号へ出る。国道を伊予方面に走ると、右手に杉の大木が目に留まる。馬路地区の境宮神社である。ここにも太鼓台が現役で奉納されている。飾られている蒲団〆と水引幕では、制作した工房は異なっていると思う。水引幕は松里庵・髙木工房製の特徴がみられているが、蒲団〆の方はそうではないように思う。

遺されている道具箱の蓋書き等(最後の3枚の画像)からは、「干時天保六年(1835)・乙未八月吉□日〝高欄掛廻(幕) □入箱〟□(若連中)」(縦長い板のもの、□は不明文字)、「天保六(1835)乙未〝衣装水引・天蒲団入 箱〟八月吉祥日 辻若中」(辻は、曼陀峠下の讃岐大野原の辻地区である)、「安政二年(1855)〝 蜻蛉補従(とんぼ補充)入箱〟卯八月求之馬若連」(馬若連は馬路若連中のこと)が確認できる。なお、天蒲団と蜻蛉補充入箱については、「天保4年の伊吹島・南部太鼓台への見積書について」の、詳細解説のC(上蒲団)及びD(とんぼ結)を参照していただきたい。写真の蒲団〆も水引幕も、箱書きの時代よりもかなり後の時代のもので、水引幕の方がより古いと思う。

    

佐野太鼓台

馬路地区より更に伊予寄りの、ちょうど讃岐の曼陀峠(まんだ―)を下ってきた佐野集落にも、太鼓台が出されている。蒲団部の内部には閂穴がない。四本柱を下から支える〝せり上げ〟と称する部位がよく見える。台脚の四脚の外側から斜めに貫かれた部位(先端は補強のため鉄を被せている)が、それである。大阪府貝塚市や伊吹島などでは、普段は高いまま運行する太鼓台を、鳥居や随身門を通過する際に低く下げるための構造を〝せり上げ〟(実際は〝せり下げ〟であるが)と称している。太鼓台を上下する必要のない地域では、高さを一定したままで運行するため、佐野太鼓台のような構造となっている。西讃岐から東伊予・西阿波にかけての地方では、この部位を四本柱を支える構造としてとらえているため、〝せり上げ〟のことはほゞ話題にのぼることはない。ただ確かに、川之江地方では、今も〝せり上げ〟の語彙を使用していると聞いている。最後の3枚は、お祭り終了後の秋の夕刻、後片付け風景。

(終)

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