太鼓台文化・研究ノート ~太鼓台文化圏に生きる~

<探求テーマ>①伝統文化・太鼓台の謎を解明すること。②人口減少&超高齢者社会下での太鼓台文化の活用について考えること。

大野原太鼓台の歴史

2021年09月18日 | 研究

◎近隣各地の太鼓台記録

香川県観音寺市大野原町(旧・三豊郡大野原町)の太鼓台は、寛政元年(1789)には既に登場している。大野原八幡神神社「御神事行烈入用覚帳」(享和2年1802)の中で、「一 ちょうさ太皷 小山 寛政元酉年始 同七卯年ゟ(より)同九年迄休 同十午年出来 十一十二休 又享和元酉年(1801)始ル」とあり、寛政元年に新たに奉納行列に参加した〝ちようさ太皷〟は、最初の12年間では大雨や干ばつなどの自然災害のためか、奉納と休止を繰り返していたようである。

大野原のこの記録は、太鼓台が盛んな西讃・東予地方では伊予三島の〝神輿太皷〟新造と同年の記録(「神輿太皷扣覚帳」寛政元年、上画像右端)で、これまでに知られている近隣各地の古記録等の中でも、最も早い時代のものである。以下、現時点までに確認されているこの地方の太鼓台初見記録を年代順に記す。

・寛政元年(1879)①伊予三島〝神輿太皷〟①大野原〝ちようさ太皷〟

・文化2年(1805)③伊吹島・東部〝太皷〟(蒲団枠の保管箱)

・文化3年(1806)④川之江〝神輿太皷〟5台

・文化5年(1808)⑤伊吹島・西部「太皷寄録帳」 (伊吹島で最初にできたと伝わるので、これは拵え直し。従って実際の登場は、更に一世代は遡るものと考えられる)

・文化6年(1809)⑥観音寺〝ちようさ太皷〟(大人用と子供用)

・文化10年(1813)⑦琴平〝輿太皷〟4台

・文政5年(1822)⑧新居浜〝神輿太皷〟

・天保4年(1833)⑨新居大島「太皷入用帳」

・天保6年(1835)⑩西条祭の絵巻物に描かれた4台の〝みこし〟(太鼓台の様に蒲団を積む、大きな車輪付きの〝だんじり〟)

・弘化2年(1845)⑪山本町・西側「割帳」記載の〝太皷〟(拵え直しと思われる)

等であるが、これらの初見記録以外にも、私たちの目には触れられず記録にも残されなかった太鼓台も、当然多くあったものと推測している。以上から、西讃から東予地方の燧灘沿岸地域では、①の伊予三島・大野原で18世紀後期には初見記録が確認されている。また、⑤の伊吹島・西部(上若)太鼓台の誕生推測からは、この地方では、それより40年程度前の18世紀半ばには、太鼓台の新規登場がほゞ確実であったと思われる。

西讃・東予地方に点在して新規登場した太鼓台は、その威勢の良さや美しさなどで人々の心を虜にし、太鼓台がそれぞれの地域で〝無くてはならない、象徴・宝物・よすが〟として存在感を増し、人々の心に深く根付いて行くこととなる。このように、18世紀後半の登場からわずか数十年の間に、当初は〝点の存在〟でしか過ぎなかった数カ所の太鼓台は、人々に大いに受け入れられ、各地の奉納太鼓台として〝一気爆発的〟に広まって行ったことが偲ばれる。

◎大野原太鼓台の今昔

(1)阿波池田・馬路太鼓台と大野原・辻太鼓台

 三好市池田町馬路の境宮神社に奉納されている馬路太鼓台は、昔の曼陀峠を越えて、大野原・辻地区から買われていった太鼓台である。馬路地区には、「天保六乙未年(1835) 衣装水引・天蒲団入 箱 八月吉祥日 辻若中」と墨書された道具箱と、「干時 天保六年 高欄掛廻●(不明)入箱 乙未八月吉辰日」と書かれた箱蓋が伝えられている。また、〝海女の玉取〟図柄の年代物の水引幕が、修復を重ねて今も現役で使用されている。この水引幕は確かに古いものではあるが、それでは天保6年の保管箱に収められていたものかというと、恐らくは〝そうではない〟となる。箱の形状からして、厚みのある刺繍付水引幕を収納するには、浅くて小さ過ぎる。辻太鼓台での天保6年当時の〝衣装水引〟とは、恐らくは、当時の近隣各地で記録されている〝刺繍の無い、羅紗・無地の幕〟であったと思われる。〝天蒲団〟も同様に、畳んで収納できる羅紗地のものであったと考える。

左は「衣装水引・天蒲団入 箱」。次は、高欄(欄干)に掛け廻していた幕の「収納箱」の蓋書きで、上記不明箇所の文字は〝幕〟だと想像している。両方とも大野原・辻地区からのものと思われる。

従って、伝えられている海女の玉取図柄の水引幕は、辻地区で天保6年に新調されたものではなく、上記の羅紗・無地の水引幕より一世代 (40~50年)程度後年に作り替えられたものであると考えられる。刺繍付海女の玉取幕は、恐らく明治20年前後に辻地区で新調され、その後明治末年頃まで同地区で使用され、大野原辻地区から太鼓台売却時に天保6年の道具箱を添え、馬路地区へもたらされたものではないかと推測する。なお、この幕は、各地に遺されている年代物の古刺繍と丁寧に比較したところ、琴平の縫屋(刺繡工房)〝松里庵・髙木家〟が手掛けた年代物の作品の表現法と酷似しているため、恐らくは松里庵・髙木工房にて制作されたものであると推測している。(松里庵・髙木工房は、明治23年の時点では観音寺に工房を構えていた形跡があり、その時代は、ちょうどこの地方の太鼓台刺繍が絢爛豪華に舵切りをしたターニングポイントに当たっている) 西山太鼓台の項を参照。(この地方を代表する縫師の髙木定七縫師と山下茂太郎縫師の登場によって、その後の西讃・東予各地の太鼓台刺繍が大きく且つ豪華に変貌を遂げていくことになる)

 

現在の近隣太鼓台でも、物語性がある〝海女の玉取図柄の水引幕〟は人気も高く、数多く使用されている。一般に、水引幕は作り替える度に豪華になっている一方で、〝古い時代からの変遷〟がよく分からないのが実情である。従って、馬路地区へ比較的早い段階で伝えられ、同地区で大切にされてきた刺繍付の玉取図柄水引幕は、西讃・東予地方の太鼓台刺繍の発展・変革期に登場したと思われるものであり、私たちが直接に装飾刺繡の発展過程を追体験できる、大変貴重な存在である。(以上ご協力、馬路自治会並びに馬路太鼓台保存会)

古い太鼓台の部品(蒲団枠を含む唐木・幅の狭い龍の蒲団〆・道具箱)が、昭和60年(1985)頃まで田野々地区の農協倉庫で保管されていた。

(2)関谷太鼓台(観音寺市豊浜町)から田野々地区へ伝えられた〝安政5年の太鼓台〟

豊浜町関谷地区から安政5年(1858)の道具箱と共に、田野々地区へ〝ちょうさ〟が伝えられている。関谷地区から田野々地区への太鼓台伝搬にあたっては、旧幕時代の地域統治の影響があったのかも知れない。田野々地区は大野原・中姫大庄屋の管轄ではあったが、中姫地区から地理的な遠隔が背景にあったためか、豊浜・和田大庄屋の預かり地となっていた。関谷地区から太鼓台を受け入れるにあたっては、このような豊浜側との関係性の深さがあったのかも知れない。

古い太鼓台の部品(蒲団枠を含む唐木・幅の狭い龍の蒲団〆・道具箱)が昭和60年頃まで、田野々地区の農協倉庫で保管されていた。道具箱には「安政五年 午十月之求 関谷若中」と墨書され、その当時の制作と思われる〝幅の狭い龍の蒲団〆〟(6筋が2枚の掛蒲団に改変されて3筋ずつ掛蒲団に縫われ、昭和60年当時の太鼓台に使用されていた)及び唐木一式(蒲団枠を含む)が遺されていた。唐木と蒲団枠は、半ば放置状態であった。

上記(1)の馬路太鼓台の項でも縷々述べているが、古い道具箱に書かれた年代と、その中身の年代とが必ずしも一致していないとみるのが、伝統文化探求に携わる基本的な姿勢である。即ち、太鼓台伝承地区では〝それまでの古い道具箱を、新しく装飾品を作り替えた際の道具箱として、再利用する〟場合がよくある。そして、他地域が絡む〝中古太鼓台の売却〟の場合には、そのような事例がかなりの数で表面化しており、必ずしも〝道具箱記載の年代イコール中身の制作年〟と、直接結びつけることはできない。

従って、田野々太鼓台の場合、道具箱の中身が関谷地区太鼓台の〝安政5年のものではなく、安政5年より後の時代のもの〟である可能性が疑われる。ただ、田野々地区の長老からの聞き取りや、制作年代が客観的に確定できている近郷他地区の太鼓台との比較検討の結果、農協倉庫に保管されていた昭和60年当時では、150年以上経過した面影を随所に感じることができたので、唐木(蒲団枠を含む)・龍の蒲団〆は、いずれもが旧・関谷太鼓台の安政5年のものであると推定した。(蒲団枠を補修した張り紙には、明らかに近代の記録も見られるが、枠の傷み具合や大きさから、安政期のものと推定した)

以下は、田野々太鼓台(旧・関谷太鼓台)の計測を行い、凡そ150年前の太鼓台規模を推測したものである。この地方の現在の太鼓台(全高≒4.2m内外。トンボは除く)よりも、1m近く低く、従って重量的にもかなり軽量であったことが推測されてくる。

田野々太鼓台(旧豊浜町・関谷太鼓台)の規模等

・太鼓台の全高≒335cm(地面から蒲団の最上部まで。トンボ飾りは除く)

・蒲団部高(七畳)≒95cm、蒲団部下部~乗り子座部≒130cm、座部~地面≒110cm

・蒲団枠の大きさ(最上部の一辺≒157cm、最下段の一辺≒137cm)※いずれも外⇔外の長さ。

・蒲団枠の厚み(一畳)≒13.5cm

・閂(カンヌキ) 中央に1か所(現今の太鼓台では2か所が一般的)

・四本柱の間隔≒72cm(柱の芯⇔芯、内径≒64cm。現今の太鼓台と比べるとかなり狭い)

・高欄部の一辺≒131cm(欄干で囲まれた太鼓叩きの乗り子が座る部分。欄干より少しはみ出た座板の幅)

・台幅(台足の外側~台足の外側)≒97cm

・舁き棒を通す鉄製の輪≒内径17cm(直径のかなり細い舁き棒が使われていた)

(3)下木屋太鼓台の古文書に見る〝借料〟

下木屋地区の太鼓台関連古記録として、「嘉永二年(1849)始まりの古文書」(下の画像)・「安政四年(1857)始まりの古文書」等が伝えられている。この内、嘉永2年からの古文書は、平成19年(2007)までの158年間も書き続けられている。(安政4年の文書は、年次毎の「樽入」‥若連中への新規加入‥等の記録であるため、詳細省略)

嘉永2年の文書の中には、年毎の秋祭り時に、「そんりょう・損料・そん両」(上の右画像)などと、下木屋と他地区との間で、物品の相互貸し借り(有料)を匂わす記載がある。具体的な記述をみると、下木屋地区との間に貸借があるのは、祭礼日の異なる①出在池・和田・中姫・和田浜・和田浜中若・中姫東村(以上、記載のまま)の各地区である。損料と銀高とだけを書いて、地区名や品物名が書かれてないものも多い。貸借の対象物としては、②かきふとん・とんぼ・房・水引・金縄・角縄・太鼓・八つ房・舁棒が記載されている。また、損料が記載された年代としては、③嘉永2年の記録当初から、明治10年(1877)頃までの複数地区太鼓台との間には、毎年のように相互の貸借がある。それ以降は損料の記載がまばらとなり、太平洋戦争以降では全く記録に現れなくなる。

この状況からは、次のようなことが客観的に見えてくる。そもそも太鼓台に飾られる高額装飾品は、全ての太鼓台で、誕生当初から必ずしも一様に備わっていた訳ではなかったのではないか。その当時では中古太鼓台の流通も多かったと考えられ、全ての太鼓台が、今日の様に完璧に装飾品を保有していた訳ではなかったものと思われる。そのような事情の元、祭礼日の異なる近隣太鼓台との間で、かなり常態的に〝貸し借り〟が行われていて、下木屋古記録にみる〝損料対応〟が登場したものと思われる。大野原や豊浜という豪華太鼓台の密集した地域では、太鼓台を有した地区同士が、寛容に、しかも頻繁にそれら装飾品の貸し借りを行っていたことが、古記録からは理解できる。

太鼓台保有地区同士の〝対抗心や競争心〟が、太鼓台発展の大きな原動力になったことを否定するつもりは毛頭ないが、同時に、そのような高額装飾品を、やみくもに独り占めしようとせず、他地区との貸借を寛大に認め合うこの〝損料の存在〟こそが、この地方の現在に通じる〝豪華太鼓台の平準化〟を後押ししてきた、今一つの原動力であったのではないかと思う。当時ではなかなか手が届かなかった太鼓台の高額装飾品を、気心の知れた祭礼日の異なる複数の地区同士で〝最大限有効に使い合う〟ことを、この地域では当たり前にしてきたものと想像する。現在の西讃・東予地方において、太鼓台規模や装飾上の共通性が広く見られているのは、実はこのように〝損料を払い、豪華に飾り付ける寛大な風習〟があり、それが昂じて大型・絢爛豪華を成し遂げ、今に続いているのではなかろうか。(以上ご協力、下木屋自治会並びに下木屋太鼓台保存会)

(終)

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観音寺と太鼓台文化

2021年09月15日 | 随想

新型コロナウィルス禍の影響で、各地のお祭りが連続して執行できない、のっぴきならない状況となっている。日々悶々として、〝コロナ禍が沈静化したあとを見据え、何かアクションを起こせないものか〟と考えている。そのことが今回の、自分を育んでくれた〝ふるさとの過去の太鼓台祭りが、どのようなものであったか〟の一側面を深掘りすることにつながった。最も忌み嫌う我田引水を極力排除し、確かな史実に基づいた客観性を拠りどころに、より自然体で追体験してみたい。勿論、皆さんには〝それぞれの自分なりの郷里の懐かしいお祭り〟があるはずですので、そのご理解の上で、他郷である観音寺祭を知っていただけたらと思います。

1.昔の観音寺祭(琴弾八幡宮の秋季大祭)

香川県観音寺市の琴弾八幡宮に奉納されている太鼓台のうち、これまでに分かった最も古い記録は、下に記した今から210年余り前の文化6年のもので、現在の3号・酒太鼓台に相当する。同地区内には、大人用と子供用2台の〝ちょうさ太鼓〟があったことが記録から分かっている。以下にて、観音寺祭の古い歴史を眺めてみたい。(奉納太鼓台は次々と増え、長らく7台であったものが現在では9台となっている)

◎以下より以前の〝太鼓台・登場〟記録は、全く判明していない。ただ、古い太鼓台と一緒に観音寺から伝わって来たと伝承されている超・年代物の胴長太鼓が、三豊市内某所の神社の宮太鼓(※)として、今も現役で使われている。いずれ、宮太鼓の張替え時などの折、太鼓胴内の制作した年号等が明らかになれば、以下の歴史の一部が書き換えられるかも知れない。

[太鼓のサイズ] 鏡面の直径63.5㎝、胴回り283㎝、縦の長さ86.5~88㎝、最も太い胴部分で直径約90㎝位。この太鼓には〝観音寺太鼓台の歴史〟が封じ込められている予感がする。

(※2024.8.10追記)この太鼓は、豊中町上高野豊姫神社の宮太鼓‥取材した当時に宮総代を務められていた方からの聞き取りにより、福岡太鼓台が大野原町・中姫から購入した太鼓台(1910明治43年製の観音寺・本若太鼓台。この太鼓台に付属していた下記⑤の掛蒲団保管箱は、旧太鼓台の保管箱であった)に積まれていた太鼓であるとのこと。本若太鼓台の確実な歴史は、1879明治12年までは遡れる。(下記⑤参照) 観音寺・琴弾八幡への太鼓台奉納順等の祭に関する諸事情からは、明治12年よりも更に少なくとも一世代(50年前後、下記①の1809文化6年頃まで)程度は遡ることとなりそうである。それ故に、この太鼓の胴内記録が判明すれば、観音寺にとっても近隣を含む太鼓台文化圏全体にとっても、歴史の確実性が担保されてくる。因みに、観音寺本若太鼓台に関する確認できた歴史の一端を、何らかのご参考になればと念じ次に添付しました。

①1809年(文化6) ‥近年になり「ちょうさ太鼓」ができたことが記録に残る。(琴弾八幡宮への奉納太鼓台では、現時点の確実な最も古い記録。現在の奉納順3号酒太鼓=殿町太鼓台を比定している)

②1823年(文政6) ‥蒲団下の装飾材・雲板を収納した「雲板箱」が現存する。(箱の規模からして、四分割された雲板であったと思われる)

③1845年(弘化2) ‥金糸製の注連縄4本を収納していた「本金糸注連縄・四筋」保管箱が現存する。(大阪へ行き買い求めている)

④1872年(明治5)‥三郷(坂本郷・柞田郷・高屋郷)代表者の協議の結果、今後の御大祭は観音寺村氏子のみで執行することとなった。(観音寺村は坂本郷の内にあり、坂本郷は観音寺村・植田村・出柞村から成っていた)

⑤1879年(明治12)‥本若太鼓台で使われていた掛蒲団収納箱が、明治43年製の掛蒲団・蒲団〆・水引幕と一緒に、転々売先の豊中町(観音寺→大野原→豊中)で保管されていた。(箱の底に「明治拾弐年 卯旧八月吉日 本太皷 南本若」と記載)

⑥1885年(明治18)‥三架橋が三架の太鼓橋から平面橋へ架け替えられた。この頃から、太鼓台が三架橋を通り、十王堂(御旅所、神事場じんじば)への宮入及び宮出しをするようになった。それ以前は、旧暦8月15日の一日だけ、大潮の朝・夕の干潮時に、干上がった川の中を、太鼓台を担いで宮入・宮出しを行っていた。現在唄われている〝農兵節〟や特徴ある〝掛声・太鼓の叩き方〟は、古老より〝太鼓台が川を渡っていた時代の名残り〟と聞いた。(町側の川降り場所は今の裁判所の前辺りで、石畳が扇状に広がっていた。神事場への登り口は、手水舎下の海岸で、裁判所前と同様の石畳が敷かれていた。当時、煉瓦橋はまだ無かった‥下記⑪項参照‥ため、財田川を斜めに横切るように渡った)太鼓台の奉納は15日の一日だけで、14日は観音寺の町を東西に、各太鼓台は町勤めを行った。勿論この時代は、終日ゴマを付けずに太鼓台を担いで行き来していた。

下の写真は、観音寺祭の太鼓台と関連が深い三架橋の歴史を振り返った古写真群。(色々な展示の際に、ちゃっかり撮影させていただいた。著作権等の問題もあるとは思うが、どうかご容赦のほどを) 三架橋が平面橋になるまで、太鼓台は通行できなかった。現在の三架橋を進むのは、伊吹島・東部太鼓台で、観音寺市市政50周年ちょうさまつり(2005.3.27・H17)の折のもの。

下段の画像は、最初のモノクロが元禄11年(1698)頃の財田川河口付近で、現在の町並みの多くは海中にある。当然ながら、太鼓台は無かった。2枚目のカラーは、大正3年(1914)頃の商工案内図であり、煉瓦橋が大正元年(1912)に架かり、太鼓台は三架橋を通っていた。太鼓台が川渡りをしていた明治中期頃の適当な地図が見当たらなかったので、本図を参考添付した。なお、琴弾八幡・神事場への上り口の場所は、一番最初の図(大きな太鼓橋であった図)の左端下、堤防らしきが切れている箇所辺りと思われる。後日、付記 御旅所・十王堂への川からの太鼓台昇降場所については、最後の2枚の画像(1枚目・雪の三架橋、大鳥居が見えることから昭和5年~10年の間の写真)の、橋の左手に雪のなだらかな坂となっている辺り(『金毘羅参詣図会』では「梅腋(脇)ノ濱・2枚目」と書かれている)がそうではないかと思われる。この当時まで、明治18年頃の光景が見られていたのだろうか。2022.10.27追記 明治初期のものではないかと思われる財田川~琴弾公園の手書き土地利用図が出てきました。(残念ながら、いつ頃にどこが作成したものかは不明です。同時に画像が小さくて判読不明な文字等が多々あります。小さな画像で判りにくいと思いますが参考添付します)この略地図には、「梅腋(脇)ノ濱」と思われる三架橋西側の石垣の欠けた部分が描かれています。また、その浜から左斜め下へ、川中を何やら〝川中の道〟らしきものが描かれています。まさか、これが干潮時に〝太鼓台が通った道〟だとは思いませんが、いかがでしょうか?(最後の画像。どうやらこの道と思しき痕跡は、図面を貼り合わせたあとと思われます)

 

※太鼓台が川渡りをしていた旧暦8月15日は、今年は2021.9.21でした。参考までに観音寺港での潮汐表と、午後6時過ぎの写真(仲秋の満月は曇って見えませんでした)を添付します。(数日前の台風の影響で、水が濁り少し水量も多いと感じた)  

後日、付記 a.「琴弾宮旧記」(『琴弾八幡宮流記』362P)によれば、<御祭礼往古より八月十五日恒例に有之候處、明治7年(11874)より太陽暦十月六日規則となる>とあり、祭礼日の変更が為されたようである。今年の10月6日の潮時を見てみると、旧暦の8月15日とそれほど変わってはいない。(3枚目の画像) 観音寺祭の場合には、少なくとも三架橋が平面橋となる明治18年(1879)までは、染川(財田川)の川渡りで十王堂へ行ったので、果たして新暦で行ったのか、それとも旧暦をしばらく続けたのだろうか。わずか百年余り前のことが、この如く不明である。 

 

b.大正11年(1922)頃の観音寺町の航空写真(コマ撮りした画像を貼り合わせて1枚の集成写真としたもの)が、ふるさと学芸館(観音寺市大野原町・旧紀伊小学校跡)に展示されていましたので、コピーさせていただいたものを紹介します。

⑦太鼓台は祭礼の時だけでなく、紋日や祝祭日にも出されていた。特に明治天皇の時代には、かなり多く出されていた。(古老の談) そう言えば、上記の写真(伊吹島の太鼓台が三架橋を渡っている手前の昭和3年の御大典の折の写真)を拡大してみると、太鼓台の蒲団とトンボが写っているようにも見える。(手水舎の向こう側と、その左側)

⑧1890年(明治23)‥この頃、近隣太鼓台の豪華刺繍の発展に大きく寄与した琴平の縫屋工房〝松里庵・髙木家〟が、西讃・東予地方の太鼓台隆盛に伴い、海上交通の便が良い観音寺へ工房移転してきた。(これにより、更に西讃・東予地方太鼓台の豪華に拍車がかかった)

⑨1909年(明治42)‥観音寺祭で太鼓台のゴマ(台車)が初めて使われた。(当時を知る古老からの聞き取りによる) それまでは、全て人力で担ぎ、移動していた。(台車が使われ、長距離の移動を苦にしなくてよくなったため、これ以降は、太鼓台の大型化に拍車がかかる)

⑩1910年(明治43)‥上記⑤関連‥2号の本若太鼓台(本太鼓)が造り替えられた。先代明治12年製に比べ、大幅に大きく、刺繍も肉厚になった。明治43年の太鼓台は、その後、⑤のように各所へ伝えられ、昭和52年当時の太鼓台写真が遺されている。(前2枚の写真、S52.10撮影) 続く虎の蒲団〆と記念撮影の写真は昭和9年(1934)製のもので、明治43年製の太鼓台と見比べると、昭和9年の新調に立ち会った古老が語ってくれたように「前のちょうさと寸分の違いなく造られた」のがよく理解できる。(昭和9年時の蒲団〆では、虎につきものの竹は、転売時に取り除かれている)

なお件の古老からは、観音寺祭の太鼓台は、明治42年頃までは〝台車(ゴマ)を付けずに、全て肩で担いだ〟と伝えられているので、この明治43年の拵え直しの太鼓台は、それまでの小型から、大型に変化・発展した〝先駆け〟的存在であったのかも知れない。

⑪1912年(大正元)‥煉瓦会社への物資運搬のため、三架橋の下流に煉瓦橋が新たに架橋された。(小学生だった65年ほど前‥昭和32、3年1958‥頃には、まだ粘土を一杯積んだ馬車が煉瓦橋を通っていた。子供たちが、悪ふざけで後方にぶら下がり、よく叱られたのを思い出す)

⑫1913年(大正2) ‥ 神事場の造成が行われ、6台の太鼓台(酒・本・中・坂本・上若・柳)が、〝石一艘・石一舩〟を寄進した。(石碑が残る)

十王堂広場の南面石垣には、太鼓台名が彫られた石(西側から、酒・本、中、坂本・上若、柳の6台)が埋め込まれている。また、近年まで十王堂内に建っていた十王堂造成時の石碑は、現在は玉垣の外(手水舎の外側近く)に移されていて、碑文には「舟(周)旋人」「大正二年十月建之」と、神事場造成の年を記録している。これらの石碑等からは、今から百年余り前の大正2年(1913)時点では「太鼓台奉納は6台」であったことが知れる。その後、柳太皷台が消滅し(その面影の一部は残存している)、南太鼓台・上市太鼓台が奉納参加し、長らく〝七つ太鼓〟として観音寺祭を華やかにそして勇壮に彩ってきた。平成になって茂木と社家の太鼓台が新たに奉納参加し、現在は9台となっている。

⑬そ の 他     ‥ 3号・酒太鼓台で使用されていた古いゴマが現存している。(琴弾公園内の郷土資料館にて展示中)

2.四国各地の主な太鼓台記録等

①1789年(寛政元)‥[大野原]〝ちょうさ太鼓〟 [伊予三島]〝神輿太鼓〟(それぞれ、現時点では四国地方での最も古い記録)

②1795年(寛政7) ‥[徳島県美波町日和佐]〝みこしたいこ〟

③1805年(文化2) ‥[伊吹島・東部] 島の3台の太鼓台で、西部に次いで古い。「蒲団枠保管箱」が現存する。(蒲団枠は四分割型、箱には、大坂の〝永代濱〟が記載されている)

④1806年(文化3) ‥[川之江]〝神輿太鼓〟が5台、川之江八幡宮へ奉納された。

⑤1808年(文化5) ‥[伊吹島] 最初にできたと伝わる西部太鼓台の拵え直しがあった。(最初の太鼓台の誕生は、これよりも40~50年前か?)

⑥1809年(文化6) ‥[観音寺] 近年に登場していた〝ちょうさ太鼓〟が、子供ちょうさと共に初めて記録された。

⑦1812年(文化9) ‥[小豆島・池田祭] 奉納絵馬が伝えられている。色違いの薄い3畳蒲団の太鼓台が5台描かれている。

⑧1813年(文化10)‥[琴平]〝輿太鼓〟4台が奉納されている。

⑨1822年(文政5) ‥[新居浜]での、初めての太鼓台記録。

⑩1839年(天保4) ‥[新居大島]中之町太鼓台「太鼓入用帳」 [伊吹島]南部太鼓台「太鼓帳」、共に太鼓台新調の記録。

⑪1858年(安政5) ‥[三好市山城町]大月太鼓台の蒲団の最上部に雲形紋の刺繍があり、その裏に年号が記載されている。

⑫1835年(天保6頃)‥[西条] 西条祭を描いた絵巻物2巻が伝承されている。みこし4台(蒲団を積んだただんじり)と、だんじり等が多数描かれている。

⑬1875年(明治8) ‥[詫間]〝明治期の基準太鼓台〟と目される箱浦屋台(太鼓台)が、完全なカタチで県立ミュージアムへ寄贈されている。

3.小さかった〝昔の太鼓台〟

江戸時代後期から明治前期(1790年頃~1890年頃)にかけて、この地方の太鼓台は、現在の太鼓台と比べると高さで約1m以上も低く、かき棒も細く短かったため、当然重量も軽いものであった。明治10年(1877)前後に、新居浜から広島県大崎下島の大長へ伝えられた2台の太鼓台は、幕末から明治初期に四国で造られた太鼓台。(そこで用いられた刺繍は、縫工房〝松里庵・髙木家〟の技法に酷似していた。松里庵3代目の髙木一彦師は、大長へは昭和53年に同道にて調査され、能地の古刺繍は後日実見された) 後年、その内の1台が、三原市幸崎町能地へ転売されたが、〝能地で飾られていた龍の古い蒲団〆は、大正末期頃に和田先(和田or和田浜のことで、現在の観音寺市豊浜町に相当する)で使われなくなっていた古物であった〟と、能地・地元の『豊田郡佐江崎村誌』に書かれている。2台(能地と大長)の太鼓台の高さは3m弱で、西讃・東予地方の〝明治期の基準太鼓台〟といわれる明治8年の詫間町・箱浦屋台で約3.2mであった。全高4m(トンボを除く)を超す現在と比べると、一回り以上小さく、当然のことながら軽量であった。(写真は、造られた時代の早い順に、左から三原市幸崎町能地の〝ふとんだんじり〟・呉市豊町大長の〝櫓〟・詫間町箱浦の〝屋台〟)

観音寺祭でも、太鼓台が三架橋が通行できなくて財田川を渡っていた明治18年以前には、恐らくこれらと同様規模の太鼓台であったと思われる。箱浦屋台の中央の舁棒で、現在のこの地方一般の13.5mに比べ、約9mしかなく、近年の太鼓台大型化までは、どの太鼓台の舁棒ともかなり細かったので、総重量は現在に比べ、半分にも満たなかったのではないかと思う。(現在の大型の太鼓台重量≒2.8t~3.2t)

4.太鼓台の広がりと、太鼓台の種類及び発展について

「どのような太鼓台が、どこに、どのように分布しているのか」については、近年までほとんど知られていなかった。その理由は、太鼓台文化に関する情報量の絶対的な不足や、研究者の少なかったこと等が挙げられる。①太鼓台にはさまざまなカタチがあり、②地方毎に呼び名が異なり(ちょうさ・だんじり・やっさ・せんだいろく・四つ太鼓・やぐら・こっこでしょ等)、③各地それぞれが〝自地区の太鼓台が一番〟との排他性を持つことが多く、その結果として④太鼓台文化は〝各地が関連し合う一括りの同じ文化〟との理解や共通の認識が得られず、残念ながら、伝統文化・太鼓台全体としての歴史解明が遅れたものと考えられる。

太鼓台文化に関するこれまでの状況がこのようであったため、太鼓台にはどのようなカタチや種類があるのか、また各地同士の関連や、太鼓台が時代と共に発展してきた状況等に関しても、よく分からず、なかなか文化の全体像が理解できなかった。上図の分布概要や発展想定図は、私自身が各地の太鼓台を実見したり問い合わせする中でまとめたもので、決して我田引水とならないよう、特に客観性と公平性には留意して作成している。

5.人口減少・超高齢化社会の厳しい現実に、〝伝統文化・太鼓台は、立ち向かう〟ことができるのか

新調すれば1台が数千万円もする太鼓台を、120台近くも有している地方都市は、太鼓台文化圏の中でも観音寺市しかない。厳しい人口減少や超高齢化社会到来が間近に迫るこの時代に、私たちは、困難とも言える「地域社会の存続」と「伝統文化の継承・発展」の両方に立ち向かい、ふるさとを奮起させ、乗り越えて行く必要に迫られている。子供や若者が減り高齢者主体のコミュニティーとなっても、大切な地域と太鼓台文化とを、見事に後世へ申し送りたいと思う。その方策はあるのか、一緒に考えていかなければならない。

先人から受け継いできた太鼓台文化に誇りを持ち、この文化を通じて地域を活性化し、住みやすいコミュニティ作りを成し遂げること。他方で、広大な太鼓台文化圏のトップランナーとして、社会や文化圏全域に積極的な関わりや貢献をし、各地から多くのリピーターを得て、好感を寄せていただける観音寺市となること。このような広角的とも言える、内と外からの思考目線は、常に身近にあり誇りとしている伝統文化・太鼓台を抜きにしては、到底考えることはできない。

私たちの身近には、「いつも、太鼓台がある」のです。その意味するところは、太鼓台を支えている市内全域の多くの人々にとっては、〝太鼓台につながる努力や苦労であれば、少々困難が伴っても力を合わせ、案外容易に取り組むことができ、パワーも発揮できる〟という日常茶飯の体験を日頃から有し、太鼓台文化をきっかけにするのであれば、取り掛かり易いということを意味しています。即ち、太鼓台を通じてならば〝コミュニティを活性化することも可能であり、好感や尊敬が寄せられる観音寺に変身することも可能である〟という、私たちがこれまで殆ど気付かなかった〝伝統文化・太鼓台の活用〟を通して、「身近な太鼓台文化の効用」を、大きく感じることができるのです。(この間の具体的活用例については、[太鼓台文化を仲立ちとした、「貢献・信頼・交流」のキャッチボールを!]をご参照ください)

文化遺産として、先祖から大切に受け継がれている120台近くの太鼓台に対し、私たちは真剣に向き合っていくことが必要だと思います。コミュニティやふるさとの存続が〝どうにもならなくなってしまってからでは、遅い〟のです。お互いが、〝太鼓台とならば、私たちはここまで出来るのだ〟ということを信じあい、「私たちと太鼓台文化との関わり方のあるべき姿」に、もっともっと楽しく真剣に向き合いたいものです。

最後に、近隣各地の太鼓台分布状況を示しておきます。このグラフは、〝1台の大人用太鼓台を、男女を問わず赤ちゃんからお年寄りまで、何人が関わって維持・運営しているか〟を示しています。市域全体の平均では、1台の太鼓台を500人足らずで守り伝えていることになり、これは驚くべき数字です。以前から叫ばれている〝元気印の太鼓台(文化)を活性化の中心〟据え、今一度太鼓台文化を見直し、人口減少や超高齢化社会の厳しい時代到来の、市やコミュニティの活性化に、市民総出で取り組みたいものです。

(終)   

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第5回 琴平の祭り 獅子舞・太鼓台写真展

2021年09月14日 | 太鼓台文化の情報

琴平町の商店街にある〝ACTことひら〟にて標記の展示が開催中です。(10月2日㊏まで、9~17時、水曜日休館) 写真のほか、古い太鼓台の刺繍等が飾られています。今年も各地で、昨年に続き太鼓台や獅子舞の出るお祭りは、コロナの影響でほぼ中止のようです。そのような空気の中、展の実行委員の方々は、近場での展示史料集めにご苦労されていることが、展示されている写真や年代物のお宝の各地関連展示等でよく分かります。

写真上段‥2枚目(琴平町内の獅子舞と太鼓台の分布地図)‥神社と奉納地区名が示されていて、大変ありがたい史料です。

写真下段‥展示されていたカラー写真の先代の飾りが、後のモノクロ3枚である。このモノクロ写真の太鼓台は、元は琴平町の子供太鼓台であった由。(参考添付)

琴平町は、四国の太鼓台刺繍の世界では、余りにも著名な刺繡工房〝松里庵・髙木家〟のお膝元の町でした。元々は芝居衣装を広く手掛けていたと想像しますが、東予地方の太鼓台の隆盛を見て、明治中期頃に太鼓台装飾刺繡へ大きく舵切りをされています。各地には、数多くの松里庵関係の古刺繍が今なお、広範囲に広まっています。今回展示されている古刺繍にも松里庵製のものが多くありましたが、古くなったから直ぐに廃棄等してしまうのではなく、ぜひ何らかのカタチで後世へ伝えて欲しいと思います。遺していてさえすれば、解明できることが必ず出てきます。捨ててしまえば、何も遺りません。

(終)

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太鼓台文化、事始め

2021年09月04日 | 随想

最初は‥

1948年(昭23)生まれの私は、子供の頃から豪華な〝蒲団型太鼓台〟の中で育った。1973年(昭48)に転勤で郷里・観音寺から離れて、隣県の愛媛県松山市に移り住んだ。そこで初めて他地方の〝太鼓台たち〟を、あるイベント(1975.10愛媛のまつり)で見たことが、太鼓台文化と関わることにつながった。見た太鼓台たちとは、佐田岬半島・突端の西宇和郡三崎町の屋根型太鼓台・四つ太鼓、伊予灘に面した北宇和郡長浜町櫛生(くしゅう)の蒲団型太鼓台・四つ太鼓、燧灘の工業都市である新居浜市の蒲団型太鼓台・ちょうさの3台であった。新居浜のちょうさは、大きさといい豪華さといい、故郷・観音寺のちょうさとよく似ていた。三崎町の四つ太鼓と櫛生の四つ太鼓は、共に初めて目にするカタチであり、見慣れない簡素な外観に、強烈なカルチャーショックを受けたことを、今も鮮烈に思い出す。

〝これが、太鼓台なのか〟太鼓台と言っても、参加していた各地は三様で、台(中央の櫓組部分)に垂直に積み込まれた大きな長胴太鼓は三者同様であったが、その他は素人目にも規模や装飾の面で明らかに差があり異なっていた。イベントでは、最も大きく華やかだった新居浜のちょうさにはほとんど見向きもせず、簡素で小型の2台の四つ太鼓にくぎ付けとなり、その後ろを歩く羽目となった。その折の〝なぜ? これらが、太鼓台の仲間?〟という気持ちが、その後の「太鼓台のルーツを知りたい、自分たちの文化を深く理解したい」との、今に続くライフワークにつながったと思う。意のままに進まないことや幾度ものスランプも経験したが、ささやかにではあるが、何とか今日までこの道を継続することができた。

幸いなことに、愛媛県立図書館が勤め先の近くにあり、太鼓台に関する情報集めには〝最適〟であった。実は〝最適であった、はず〟の表現が最も的を得ていた。イベント見学後、憑りつかれたように愛媛県下の太鼓台に関する情報集めを試みたが、当時では、各市町村の民俗誌や郷土誌等を調べても、太鼓台に関する記述や写真等を、ほとんど目にすることは出来なかった。辛うじて目に留まった小さな記事に出会うと、すぐに電話や書面での問い合わせを行い、徐々に調査の手を広げて行った。最初は愛媛県下の情報集めから、それが四国の他の3県や中国・九州・近畿地方など、西日本・瀬戸内一円に広まって行った。

写真との縁

写真はイベント見学後に、初めて我流で始めた。それまではカメラや写真とは全く縁がなかった。上述の情報集めをする中で、〝これだけアンテナを張って太鼓台の写真を探したが、満足のいく写真には出会えなかった〟ことが、遅咲きの写真との関り理由であった。これからは〝視覚で伝える〟ことを、絶対に重視しなければならない。写真術の習得は、そのための自分に課せられた責務であると心に決め、取り組んで来たように思う。時代の流れで、写真はフィルムからデジタルへと完全に様変わりした。かってのように試行錯誤して現像をすることもなく、長時間暗室に籠っての引き延ばし作業も、A4までの小さな写真ならパソコン印刷がやってくれるようになった。若い頃には、いっぱしのカメラマンらしく、重い機材を大きなバックに詰め込んで出歩いたものだった。今は、軽量の小型デジカメがメインの取材カメラとなった。ただ、得たい瞬間を切り撮るスチール写真に思い入れが強く、動画撮影や近年のスマホでの撮影は自分の性に合わないのか、未だに未体験のままである。

見学した先々

各地太鼓台の実地見学は、イベントのあった75年頃からスタートした。最初は愛媛県下が主であった。宇和島から南の南予地方へは大いに通った。島嶼部にもよく通った。愛媛県下には実にさまざまな種類や規模の異なる太鼓台が伝承されていて、一通りの太鼓台分類(櫓型・四本柱型・平天井型・屋根型・蒲団型の太鼓台分類)が、自分の中で理解できるようになった。このことは後の各地見学の際にも大いに役立ち、〝分類の基準を持っている〟という自信めいたものが、各地見学の際にも物おじせず、〝より、深く探求したい〟姿勢を後押ししてくれたように思う。

太鼓台文化探求の分岐点となった太鼓台見学は、何カ所かある。これまでの自分の探求姿勢としては、簡素・素朴な太鼓台中心の〝数珠つなぎ的見学〟であったと思う。〝太鼓台分類の基準を持っている〟という小さな自信が、土地不慣れな見学地でも、不思議と平常心で接することができた。後の各地太鼓台に対しても、このささやかな太鼓台分類を通して〝各地の太鼓台は、その根っこは同じ。だから、同じ仲間同士〟へと変わっていった。太鼓台文化圏の各地同士が、単独ではなくそれぞれ関連しあって、近隣各地で影響し合い、広まり、発展していったことが確かな実感となっていった。次々と数珠つなぎ的に関連し合う太鼓台が待ち受けていたように思う。

分岐点となった見学太鼓台の例を挙げると、①南予地方の四つ太鼓ややぐら(様々なカタチに面食らった) ②佐田岬半島域の四つ太鼓(屋根型よりも蒲団型に出会ったことが大きかった) ③丹後半島域のだんじり ④種子島の太鼓山(鉢巻=蒲団?) ⑤隠岐の島のだんじり舞(ここにもあった!) ⑥紀伊半島・三重県熊野市のヨイヤ(枠蒲団型のルーツ?) ⑦長崎くんちのコッコデショ(間違いなく日本一!)、などが浮かんでくる。南予地方は、太鼓台文化探求のスタート点。佐田岬半島域は、鉢巻蒲団型太鼓台の宝庫。丹後半島域は日本海側分布の北限で、遠く佐田岬半島の太鼓台ともつながっている。種子島では、蒲団型太鼓台のルーツとも言える大きな鉢巻に接することができた。隠岐の島・宇屋のだんじり舞は、太鼓台の中でも簡素・素朴の最右翼で、太鼓台の誕生時を彷彿とさせてくれた。太鼓台文化圏の本州南端にある熊野市では、比較的発展した太鼓台でありながら、構造の面から各地との関連を大いに偲ぶことができた。椛島町コッコデショに接したときは、身震いするほどの感動に襲われた。伝統といい、担ぎといい、現時点では間違いなく〝太鼓台文化圏ナンバーワン〟の存在である。

太鼓台文化の現在位置

2枚目と3枚目の「太鼓台の発展概要図」の違いは、私自身の最近の見直しによるものであり、現在では3枚目の考え方へと移行している。即ち、従来は「平天井型」から、一つは「蒲団型」へ、もう一方は「屋根型」へ、ストレートに移行したものと考えていた。しかし、「平天井型」の次の段階には、平天井の上に〝布地よりも厚い、薄い座蒲団状〟を載せている太鼓台(1畳蒲団型)や、〝丸い鉢巻状の飾り〟を載せている太鼓台(1本鉢巻型)があり、これらの形態は、平天井型とも蒲団型とも分類できない中間的な形態で、次の「蒲団型へ発展する過渡期的形態ではないかと考えるに至った。そのため、「平天井型」と「蒲団型」との間に「前期蒲団型」として区分を設けたものである。(この項、2022.8.11追記)

〝体験人口2,300万人、分布地は西日本一円〟というのが、太鼓台と共に暮らす私たちの現在位置である。体験人口とは、太鼓台運行や見物する人々、更には各メディアからの情報を容易に得ることのできる〝太鼓台所在地の近隣又は同一府県〟を含んでいる。分布地の西日本一円というのは、その名の通り分布の濃淡はあるけれども、西日本の滋賀県~三重県を結ぶライン以西の西日本に分布している。(近代になって西日本の太鼓台が中部地方や北海道へ伝えられた例も、一・二例ある)

上記の広範囲な分布・体験状況に反し、我が国における太鼓台文化に対する認知度は、残念ながら甚だ低いと言わざるを得ない。各地の太鼓台文化を徐々に理解していく過程で、この文化には〝中央の研究者が少ない〟ことも朧げに分かってきた。伝統文化・太鼓台は、残念ながら単一の伝統文化としては〝認知されにくかった〟ことも、種類の多さ・太鼓台発展の幅の大きさ・分布域の広大さなどから、致し方が無かったのかな、とも思う。ただ文化圏の各地には、地道に研究や活動を続けられている多くの方々がいる。太鼓台文化の研究を一元的に集約し、その進展の道筋を客観的・合理的に指し示し、外に向かって発信していく〝太鼓台文化学会〟的な組織の必要性を、強く感じている。

上表は、私自身のこれまでの太鼓台文化遍歴を、➀研究スタート当初の目標 ➁その次の装飾刺繍の発展を学ぶこと 更に➂これからのしくなる時代を見据えた〝太鼓台文化と、どう向き合い、付き合っていくべきかを整理したものである。(この項、2022.8.13追記)

(終)

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