太鼓台文化・研究ノート ~太鼓台文化圏に生きる~

<探求テーマ>①伝統文化・太鼓台の謎を解明すること。②人口減少&超高齢者社会下での太鼓台文化の活用について考えること。

種子島・鉄砲祭の〝太鼓山〟

2021年03月10日 | 見学・取材等

初めに

種子島へは平成 13(2001)年、真夏の鉄砲祭で訪れた。地元への事前聞き取りでご教示いただいた、掛声に郷里四国瀬戸内の太鼓台の掛声と同様な〝ちょうさ〟(よく聞くと、現地では「チョッサー」と言っている)を用いていたことがまず一つ。それと、四本柱上部の格天井の上に、紅白の大きな〝輪〟を積むカタチ(この形態は珍しい)であったこと。この大きな輪は、一体何を意味するのだろうか。ぜひとも実見しなければならない。西之表市西町で明治初年から奉納が続いている太鼓山。この〝ちょうさ&輪〟を通じ、遠く離れた南の太鼓台が、西日本の文化圏各地と〝どのように繋がるのか〟が知りたかった。種子島の太鼓台〝太鼓山〟(又はちょうさ、ちょっさーと呼称)は、今に至るまで日本最南端の太鼓台である。

関連画像の紹介

下画像は左から、太鼓山の全容・海と川からの上陸風景(Webから)、太鼓山の骨組み、椎の木や杉の枝及び竹笹(常緑の木々)・日の丸の旗を飾る太鼓山、大きな輪と詰められた藁縄の様子。(輪の凡そのサイズは、全体の直径が180cm・輪断面の直径が21cm、その一回りは70~75cm)。太鼓山の規模に関しては訪問時に「近年になり全体が一回り大型になった」と聞いた。なお当時の聞き取りメモには、輪は「毎年新しく作り替え、使用後は廃棄する。その理由は、海水や打ち水で長期の保存ができないから。一時期、大きなタイヤ・チューブを代用していたこともあったが、元の藁巻きに戻した」とあった。

運行所作の共通性について‥各地の関連画像紹介

種子島の太鼓山と文化圏各地の太鼓台との大きな共通点は、〝横倒しの所作であると思う。種子島では「180度を行なう」と称して、横棒の端を地面につけて、太鼓山を左右に倒す。種子島とほぼ同じ所作を行なう太鼓台は、各地を歩いていると、意外にも多いことが判った。以下の画像で紹介するように、簡素・小型の太鼓台から豪華・大型の太鼓台まで、各地に万遍なく広まっている。この荒々しい所作の共通性こそが、太鼓台が各地へ伝播されて行った当時の、「共通する太鼓台の担ぎ方・奉納所作の名残り」ではないか、と強く感じた。以下に各地の横倒し画像を紹介しながら、所作面からの文化圏の共通性を眺めたい。

最初は種子島・太鼓山の横倒し〝180度の様子。続いて簡素と思われる太鼓台の順に、隠岐島・西郷のだんじり舞→高松市女木島・太鼓→大阪天神祭・催し太鼓(枕太鼓、寝屋川市のF・S氏提供)→吹田市千里佐井寺・太鼓→尼崎・辰巳太鼓→淡路島・遣いだんじり(2ケ所)→丹後半島・此代のだんじり→倉敷・児島の千載楽→呉市倉橋島・鹿老渡のだんじり→さぬき市志度の太鼓→呉市大崎下島・御手洗の櫓(昼と夜、2枚)→同・沖友の櫓→愛媛県上島町・魚島のだんじり→小豆島・内海の太鼓→同・池田祭の絵馬(文化9年1812、画面右下で“返し”を行っている。既にこの時代に、太鼓台の横倒しは行われていた)。最後の2枚は、太鼓台の分布概要図と発展の想定図。

掛声〝チョッサー〟等について

種子島・太鼓山の掛声については、明治初期頃の伝播当時から多少の変遷があったものと思うが、訪問時点では、「チョウサ・チョッサ-・ヨイヨイ・サセ・トウザイナ、トウザイナ」が確認できた。このうち、「トウザイナ、トウザイナ」に関しては、太鼓山が祭の行列の先頭を行くことから、「東西・東西」と〝露払い的に発しているものと思われる。また「ヨイヨイ」は、各地の太鼓台でごく普通に使われている掛声である。勿論「チョウサ・チョッサ-」は、最も数多く発せられる太鼓台文化圏の代表的な掛声である。

太鼓台の蒲団部は、どのように誕生・変化・発展してきたか

太鼓山に用いられている掛声については、各地太鼓台との共通性が強く確認できた。更には、太鼓台を〝横倒し〟する所作も、各地の太鼓台と共通し、種子島が各地と強く結ばれていることが想像できた。ならば、太鼓山・形態の最大特徴とも言える天井部分に積む大きな輪についても、各地と関連し、太鼓台文化の客観的解明につながるヒントが秘められているのではないか、と私は考えた。果たして、この大きな藁巻きの輪は、一体何を意味し、どう各地の太鼓台へと繋がっていくのだろうか。以下に示した図は、蒲団型太鼓台の範疇において、「蒲団部が、どのような経緯で今日のポピュラーな姿になったのか」を、誕生から現在の大型且つ豪華となった蒲団部について、私感を交え想定したものである。下図は、上掲末尾画像の「太鼓台発展の想定図」の「蒲団型」部分の、〝変化・発展〟の具体的解明である。

太鼓山に積まれた大きな藁巻きの輪は、太鼓台発展想定図における〝鉢巻型太鼓台〟の鉢巻である。太鼓台の蒲団部は、最初は下の①の1枚物の薄い毛布のような〝1畳蒲団であったが、その改良型として、枚数を増やした同②の〝3畳蒲団となり、或いは1本型や3~5本型の鉢巻型〟に変化・発展していく。平らな本物蒲団型から鉢巻蒲団型へと改良されていくのは、外観の見立てであって、即ち真横から眺めた場合、本物蒲団も鉢巻も同じように〝厚みと外縁の丸み〟が満たされれば、より簡便で美しい形態へと変化・改良されていくのはごく自然の成り行きではないか。それが、本物蒲団型から鉢巻蒲団型へと変化した改良理由であったと思う。種子島の外で鉢巻蒲団型太鼓台に改良された太鼓台が、明治初期頃に種子島へもたらされる。導入された太鼓山の〝鉢巻〟をはじめカタチそのものも、少なくとも、かっては今よりも小規模であり、それが段々と大きくなり、今日の規模に発展したものと思う。種子島の場合には、近くに影響を与え合う太鼓台がないことから、導入した明治初期頃以降、島独自の〝大型化〟を繰り返してきたものと想う。

関連画像の一部紹介(左から)

上表①の毛布状の1枚蒲団を積む南予各地の太鼓台(愛南町柏・日振島・宇和島市小倉の各四つ太鼓) 上表④の、本物蒲団を3畳積む愛南町深浦の四つ太鼓 同じく本物3畳蒲団の沖友・櫓 同じく上表④関連、最上部の蒲団が本物の変形型・鉢巻蒲団となっている熊野市のよいや(2枚) 最後の2枚は、山口県周南市須々万の揉み山(2枚) 元々は、上表③の種子島・太鼓山のように一本の輪・鉢巻状であったが、組立の容易さ優先から、現在では四辺に分割して飾っていた。(本件は、地元古老からの聞き取りで判明した)

2022.10.15追記)

鉢巻型蒲団型太鼓台の外観と、変化・発展を繰り返して今日の枠蒲団型となった太鼓台との決定的相違点は、一体どこにあるのだろうか。それは、鉢巻蒲団型の外観が「円形」であるのに対し、枠蒲団型の外観が四角の「方形」をしていることではなかろうか。この相違点について、私的には「鉢巻蒲団=円形=円座=座る」であり、「枠蒲団=方形=大蒲団(掛蒲団)=寝る」であると考えている。(両者とも外枠だけが存在し、座り或いは寝る中央部は空洞)即ち、太鼓台への蒲団部の採用目的が❶「座るか、寝る」の用途目的の違いにあり、それは➋「蒲団」という語の使用用途が「座るから寝るに変化していった」ことと深く関連している。即ち➌「寝る蒲団よりも、座る蒲団が古い時代から在った」からではないか、と考えている。この間の考察に関しては「フトン(型)太鼓台の「フトン」表記は、「蒲団」なのか、それとも「布団」なのか」(2019.7.11)や、「蒲団型太鼓台の〝蒲団部誕生〟について考える‥(2)」(2022.2.11)で示した〝寝具の「蒲団」と「蒲団型太鼓台」との関連〟表や、森岡貴志氏論文<「蒲団」の研究—漢語の「蒲団」と寝具の「蒲団」>を参照していただきたい。

(終)

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