太鼓台文化・研究ノート ~太鼓台文化圏に生きる~

<探求テーマ>①伝統文化・太鼓台の謎を解明すること。②人口減少&超高齢者社会下での太鼓台文化の活用について考えること。

制作年代がほぼ特定できた蒲団部たち(総集編)

2020年09月25日 | 研究

蒲団型太鼓台の蒲団部の形状や発展段階を追跡・理解するため、各地に伝承されている蒲団型太鼓台の蒲団部について、現時点に私自身がほぼ制作年代を特定したものを、古い時代順に紹介する。そして別途稿を替え、本稿で紹介した太鼓台蒲団部の画像等を通じ、各地の太鼓台同士のつながりや蒲団部の発達経緯を論じてみたい。下図は、太鼓台発展過程における蒲団型太鼓台の位置づけ。図中「蒲団型」の部分が該当する。

「蒲団型」部分の解説

①本物蒲団型は、その名の通り本物の蒲団を積む。②鉢巻蒲団型は、蒲団の縁(へり)の部分を鉢巻状に拵えて外観を蒲団に擬して見せている。③枠蒲団型は、鉢巻型では装飾的に縷々難点があるため、鉢巻部分を形態安定する枠に変化・発展させたもの。枠蒲団型の最初は鉢巻蒲団型の形態を踏襲して、(a)各辺分解枠型のものが誕生したと考えられる。次に各辺の分解では組立が煩さとなるため、(b)蒲団の1畳分を連結して一枠(一段)としたものに変化・発展する。現今の大型蒲団型太鼓台は、ほとんどが(b)の各段分解枠型となっている。一体枠型(c)は、中型や小型の蒲団型太鼓台に多く、積み重ねられた枠蒲団を分解出来ないようにひとかたまりに固定しているもの。以上が一般的な蒲団部発展の順序であるが、太鼓台が流布している地域の特性(盛んな地方かそうでないか、他との交流があまりない単独の流布地域かその逆か、大型か小型か等々)によっては、現時点に実見できる蒲団部構造には以上の発展順序に適合しない場合もある。また欄外は、蒲団型太鼓台の天部外観が、平ら(平蒲団型)か、それとも反っている(反り蒲団型)かの違いを示している。

1.香川県観音寺市伊吹島の東部「ちょうさ」 文化2年(1805)

観音寺市沖の伊吹島には西部・東部・南部の3台のちょうさ(太鼓台)がある。3台は江戸末期の大坂から直結の太鼓台で、島には幕末期の大坂関連の遺産が伝えられている。その誕生順は、上若(西部)・下若(東部)・中若(南部)の順であると伝わる。西部には「太皷寄録帳」(文化5年1808)、南部には「太鼓帳」(天保4年1833)と「太皷水引箱」(文政6年1823)が伝えられている。ただ東部には、蒲団部に関係する遺産として「太皷寄録帳」よりも早い段階で、文化2年(1805)の「蒲団枠箱」と、実際に使われていた当時の蒲団枠が伝えられている。

2.三重県熊野市「よいや」 文政~天保期頃(1818~1844)

過去に「よいや」を拵え直した記録の、「屋臺改造記念記」(大正7(1918)年1月16日謹記)が伝えられている。記載によると、明治7年(1874)にそれまであった屋台が、古くなり痛みも出てきたので、大正7年に拵え直した経緯が書かれている。更にそれ以前、明治7年より以前に屋台があったことも記載されている。仮に、明治7年から大正7年の経過年数の44年を、明治7年以前に当てはめると1830年頃となり、文政~天保期(1818~1844)頃には既に「よいや」が存在していたものと思われる。

3.広島県大崎下島・沖友「櫓」 文政3年(1820)

水引幕を巻いて保管する箱の蓋に「維時文政三年(1820)」や「三井納」などとあることから、太鼓台の来歴が想像できる。

4.岡山県倉敷市下津井松島「千載楽」(せんざいろく) 文政8年(1825)

下津井港沖の小島で、人家も無人化し、現在は2,3人しか住んでいない。千載楽(太鼓台)は島の高台の純友神社に保管されている。ただ、神社そのものも荒れ放題となっており、残念だが千載楽もいずれは朽ちるものと思われる。千載楽に積まれていた太鼓-皮がやぶれていた-の胴内に、「文政8年(1825)大坂渡辺村北之町 太皷屋長兵衛」と墨書されていたため、千載楽の制作年代にほぼ間違いないものと推定した。

5.愛媛県八幡浜市保内町雨井「四ツ太鼓」 文政8年(1825)

雨井の郷土史家である故・米澤利光氏によると、四ツ太鼓は嘉永元年(1848)の地元・布袋屋(船主兼商人)の古文書に「御神輿様」として表記され、播磨の明石湊から積み下ったものと伝えられている。四本柱上部の蒲団部を密封する格天井に「時世乙酉(きのととり)秋八月」と書かれていることから、蒲団部を含む四ツ太鼓の制作は、文政8年(1825)または60年後の明治18年(1885)のことと推定される。当然ながら、四ツ太鼓は文政8年に明石で制作された太鼓台の可能性が大である。四ツ太鼓の格天井が、雨井に伝播した後に明治18年に修理等で新たに交換等されたとしても、四ツ太鼓に積まれた特徴的な鉢巻型の蒲団部は、文政8年からの旧来のカタチを継承していると考えてよい。

6.広島県三原市幸崎能地・四丁目「ふとんだんじり」(太鼓台) 天保年代か。1840年頃

この太鼓台は、同県大崎下島の大長・宇津神社(現・呉市豊町大長)で奉納されていた2台の太鼓台の内の1台で、元々2台の太鼓台は愛媛県新居浜市で神事に奉納されていた。大長では毎年の祭りで2台の太鼓台(大長では「櫓」と呼称)が激しく喧嘩をするので、村内融和を図るため、已む無く1台を明治時代に能地へ売却した。能地及び大長の太鼓台については『太鼓台文化の歴史』(2013.3 観音寺太鼓台研究グループ・刊)の55・56Pに画像と共に紹介しているが、その中で私は、新居浜側で制作されたのは幕末から明治初年頃と推定している。(他の方々の研究では、制作年は時代的に更に後年へずれ込んでいる)比較的新しい(明治3年1870頃の太鼓台)1台がそのまま大長に遺され、古い1台(幕末1840年頃の太鼓台)が能地へ売却されたと考えている。

7.香川県観音寺市大野原町田野々(たのの)「旧・ちょうさ」 安政五年(1858)

観音寺市豊浜町関谷地区から購入した太鼓台とみられる。伝わる道具箱には「安政五年」の箱書きがあった。この地方の当時の蒲団枠がどのようであったのかが良く分かる。

8.徳島県三好市山城町大月の「ちょうさ」 安政五年(1858)

蒲団部最上段(8段目)に飾る雲形刺繍-奇数の蒲団を積み重ねることが一般的であるが、何故か8畳ある。愛媛県西条市には8畳蒲団の太鼓台がある。私は、8段目は蒲団押えが発展・変化したものではないかと考えているーが遺されてきた。これには「安政五年(1858)」の墨書がある。

9.愛媛県松山市津和地島「ダンジリ」 明治7年(1874)

津和地島で最も早く出来た東小路ダンジリの「保里物箱」に、明治7年(1874)の記録がある。太鼓台自体も同年に新調されたものと思われる。

10.香川県三豊市詫間町箱浦「屋台」 明治8年(1875)

この太鼓台の四本柱の揺るぎを防止する「平桁」という部材に「明治八年」と書かれており、製作年が判明している。大型で豪華な太鼓台の多いこの地方では、明治時代の「基準太鼓台」として存在感を示している。現在は、香川県立ミュージアムに寄贈されている。

11.香川県三豊市山本町河内上「ちょうさ」 明治26年(1893)

この太鼓台は、伝わる道具箱の箱書きから明治26年に愛媛県四国中央市(伊予三島)で奉納されていたことが分かっている。現在の愛媛県東部から香川県西部にかけての太鼓台と比べても、それほど変わらない規模や装飾が施されている。

12.京都市木津川市小寺「御輿太鼓」(太鼓台) 明治31年(1898)頃

以前の稿で「奥田 久兵衛」に関係するとして引用・紹介した『住吉大佐「地車受取帳」と彫刻』(H17.8.30兵庫地車研究会・刊)に、小寺の太鼓台(御輿太鼓)が記載されていたのである。蒲団部の四隅が反り上がっている反り蒲団型太鼓台(蒲団型太鼓台の一種)を集中的に見学をしていた頃の平成18年(2006.10)の木津祭りに、偶然にも組立途中の小寺太鼓台に出会うことができた。当時は勿論この太鼓台の来歴等について全く知る由もなかった。後に、この本の中で、小寺太鼓台が明治31~34年頃に住吉大佐から購入された(らしい)ことが記されている。同書の32・74・83Pに「山城国相楽郡木津小寺 」とある。このことから、小寺太鼓台は大阪住吉大佐で明治31年(1898)頃に制作されたことが判る。当然、反りを持つ蒲団部もこの頃大阪で作られた可能性が極めて高い。

(終)

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蒲団部構造に関する考察(3)

2020年09月22日 | 研究

奈良市・南北三条太鼓台(奈良市三条大路)の蒲団部構造

丸亀市出身で豊中市在住のK・S氏に案内していただき、太鼓台保存会世話役の方々のご配慮で、神社の蔵に収められていた南北・三条太鼓台の、主として蒲団部を見学させていただいた。ただ、見学当初の目的は明治のものと思われる水引幕や彫刻類を拝見させていただくことであった。

ところが考察(2)で述べたように、それまでに明石市・穂蓼八幡の太鼓台(太鼓屋台)をたまたま実見していたため、思いもかけず酷似している蒲団部構造にたどり着いた感となった。それは、保存会のM・S氏から提示していただいた写真が、全ての事の始まりであった。

写真のように、太鼓台の蒲団部の一部が通常ではない穂蓼八幡の屋台のような不揃いな段差があったので、水引幕や彫刻類の見学はそこそこにして、蒲団部構造見学へと梶切りをした。そして蒲団部の各部材から、遠隔地の明石市・穂蓼八幡神社屋台の蒲団部構造と酷似していることが判った。以下は、南北・三条太鼓台と穂蓼八幡屋台との蒲団部構造の各部比較である。

構造の共通点

縁(ヘリ=蒲団の外周)となる棒状の枠

南北・三条太鼓台は、大阪に近いことから大阪辺りで造られたものらしく、上写真のように豪華で大型である。ところが蒲団部に関しては、不思議と古い形態を遺している前近代的な構造となっていた。4本の蒲団の縁となる棒状は、中心に剛性のある葦、その周りを柔らかい藁で包む作りで、これは明石・穂蓼八幡屋台のものとほぼ同じ構造であった。先端部分が隣り合う棒状の面同士が合うように、斜めに面取りしているのも穂蓼八幡屋台と同様であった。

構造の相違点

縁を安定させる中箱(木枠)や固定用具(輪)

穂蓼八幡屋台の蒲団構造にない物として、積み重ねられた棒状の蒲団縁の型崩れを防ぐ天地の抜けた中箱(木枠)と、天の部分に固定用具の輪を採用していた。この輪は、ここを通して四方八方に蒲団部全体を固定するのに適している。

V字型蒲団締め

冒頭写真に見られるV字型蒲団締めは、かなりの地方の太鼓台でも確認できる。ただ、各地太鼓台では豪華刺繍の施された蒲団締めの存在と同様、蒲団締め本来の役割を示すことなく様式化・形式化されたものが多い。そのような中、南北・三条太鼓台では中箱・輪・V字型の蒲団締めが一体となり、蒲団枠(縁)を中箱に締めつけ、蒲団部全体の安定化を図っている。

※V字型の蒲団締めを採用している主な太鼓台

上から、丹後半島のだんじり、たつの市新宮町千本の屋台、倉敷市児島の千載楽、木津市の太鼓

広く分布する蒲団型太鼓台の蒲団部構造が、如何に本物の蒲団に見えるように工夫されて来たかが、多少なりともご理解いただけたものと思う。前回(2)と今回(3)で紹介した明石市の穂蓼八幡神社屋台と奈良市の南北・三条太鼓台の蒲団部構造には、蒲団部に共通して葦や藁を用いた"蒲団枠"が採用されていた。この形態を有する太鼓台がまだまだ数多くあるように思う。今は<点>でしかないが、明石と奈良が<線>で結ばれ、それが各地の読者からの情報提供により<面>となることを期待したい。

(終)

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蒲団部構造に関する考察(2)

2020年09月18日 | 研究

明石市・穂蓼(ホタテ)八幡神社の太鼓屋台

写真は昭和30年(1955)頃のものと聞く。この屋台(太鼓台)の存在は、冊子『明石の布団太鼓』(H26・明石の布団太鼓プロジェクト刊)に掲載されていた写真(P20)で知った。蒲団部の不揃いなデコボコ状態にピーンと感じるものがあった。「この太鼓台、もしかして、これまでに見学してきた数の少ない本物蒲団型太鼓台(考察1の太鼓台の種類図参照)ではないか! 」一気に興味と期待が沸いた。「なぜ、波打つように不揃いな蒲団部なんだろうか?」特に蒲団部四隅の不揃いさが目立つ。これは何としてでもこの目で実見して、その状態を確かめる外はないと思い立ち、冊子発行元のプロジェクト・Y.F様に問い合わせ、地区の長老の方にもご足労頂き、神社境内の休眠中の屋台蔵を開けていただいた。

※「本物蒲団型太鼓台」 蒲団部が四角の本物蒲団を積み重ねた形状の太鼓台。現存する地方は少なく、実見しているのは愛媛県愛南町深浦の「やぐら」(下・左)と広島県呉市豊町沖友の「櫓」(下・右)しかない。蒲団型太鼓台の最も初期の段階に登場したもの若しくはその名残を残していると考えられる。

これがデコボコ蒲団の正体!

長い袋状の中は、主に藁や葦を束ねて詰め、外形を丸く古綿でカタチを整えていた。下写真のように経年変化で型崩れをし、決して安定しているとは言えない。なんと、これを蒲団に見せていたのだ。太鼓台は数十年も奉納したことはないらしい。実際の太鼓台では赤い蒲団に見せるため、この棒状に赤布を巻き付ける。手にしてみたが柔らかく、蒲団部として形作るには骨が折れたことと想像した。

太鼓台の蒲団部の拵え方を地区の古老の方々からご教示いただいたが、この棒状に赤布を巻き付け、蒲団台の上に4本ずつ四方へ並べ、それを5段重ねの五畳蒲団に組み上げる。各蒲団の赤布の縁(へり)の部分だけを見せ、蒲団の内部は空洞の拵え。柔らかい棒状の袋を5段積み上げ、その固定は龍の蒲団締めだけで行うので、相当にきつく型崩れの心配の無いように固定しなければならなかった。他地方のこのような蒲団部構造(鉢巻型蒲団太鼓台や初期の枠蒲団型太鼓台)では、その中央に四角の箱や竹籠を伏せて組み上げ、蒲団部全体の型崩れを防ぐ構造になっているが、この太鼓台では棒状の各辺を組んで積み上げているだけの構造であった。

※「鉢巻型蒲団太鼓台」 本物蒲団型太鼓台よりも、組み上がり状態がより均整の取れた蒲団部として登場したのが鉢巻型蒲団太鼓台であると考えられる。鉢巻型になるとかなり各地で散見されている。素朴な順に下写真の上から、愛媛県伊方町川之浜の「四ツ太鼓」、京都府京丹後市此代の「だんじり」、八幡浜市保内町雨井の「四ツ太鼓」、兵庫県たつの市新宮町千本の「屋台」などがある。

上の千本屋台になると、蒲団部の材質は古綿を詰めて拵え、組み上げる前から四角の輪状の枠に拵えられているので、次の蒲団部発展段階の「枠蒲団型太鼓台」に近い形態と考えられる。(枠蒲団型太鼓台については別の機会に紹介する)

また、以下の鹿児島県西之表市の「太鼓山=種子島ではチョッサと称す」や、山口県周南市須々万の「揉山=もみやま」も、鉢巻型太鼓台に分類できると思う。種子島の太鼓山は1本の紅白の輪(藁を束ね、藁縄でぐるぐる巻きに固定し、紅白の布を巻き、拵えている。先代のものより一回り大きくなったと聞く)を天井に載せている。須々万の揉山は、現在は4本の麦藁で作った棒状をしているが、元々は種子島の太鼓山のように輪状のカタチをしていた。輪状に拵えるのが煩雑であったため、いつの頃よりか4本の棒状に変化したと聞く。

 

かなりの大型であるにも関わらず、4本の棒状で蒲団1畳に見立てた明石市・穂蓼八幡神社の太鼓屋台と同様の蒲団部を持つ太鼓台が、その後、奈良市・南北三条太鼓台にも存在していることが判った。奈良市・南北三条太鼓台の蒲団部構造については、穂蓼八幡の太鼓屋台と比較しながら、次回の考察(3)にて紹介したい。

(終)

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蒲団部構造に関する考察(1)

2020年09月04日 | 研究

はじめに

太鼓台の形態には各種多様のものがあることは、本ブログや発刊した各冊子等にて、その概要を画像と共に見てきた。今回のテーマとして捉えた「蒲団型太鼓台」も決して全てが同様の規模や構造ではなく、簡素・小型から豪華・大型まで千差万別の状況であることも理解できた。また蒲団型太鼓台以外にも、装飾感の異なる様々な太鼓台が存在することも客観的事実として納得できた。更にそれら各種類の太鼓台の全ての分布についても、概要ではあるが瀬戸内海エリア中心の分布地図で示すことができ、東日本には存在しないこの文化の広がりや体験人口等についての情報も提供してきた。言うまでもないが、そこで紹介した各地の各種太鼓台は、私が実際に見学させていただいたり、文化圏各地の方々から情報提供を受けたものばかりで、極力客観的視点を大切にした自負がある。

本テーマの蒲団型太鼓台の形態について興味深く論じたものとしては、観音寺太鼓台研究グループが刊行した冊子に次のものが掲載されている。(2013.3刊『太鼓台文化の歴史』内「共通理解・太鼓台文化」P5~20、2015.3刊『地歌舞伎衣裳と太鼓台文化』内「太鼓台文化の共通理解を深める~蒲団構造に関する一考察」P72~107、2017.3刊『地歌舞伎衣裳と太鼓台文化・Ⅲ』内「草創期太鼓台の探求~そのカタチを遡る」P66~109)<本ブログの「紹介図書・冊子」参照>

今回のテーマでは、上図の「蒲団型」枠内の各形態についての太鼓台が論述対象となる。

下図は、様々な形態の太鼓台の分布概要を示したものである。

今回のテーマとして取り上げた蒲団部に関しては、ただ単に各地太鼓台の蒲団部のカタチの特異性に注目しているだけではない。各地蒲団型太鼓台に対するこれまでのささやかな探求を通じ、文化圏の先人たちが、外観からは確認できない蒲団内部の形態に、それ相応の様々な工夫を凝らしてきたことが分かってきた。その結果として、遠隔地間の太鼓台同士にも蒲団部構造の共通点が多々見られていることを確認している。この文化圏では蒲団型太鼓台は分布数も桁外れに多く、ポピュラーな存在でもある。また太鼓台共通点の各地比較や考察を通じて発展過程を客観的に解明していくことも、現時点でもかなり可能である。蒲団型太鼓台の蒲団部が、各地太鼓台同士を互いに密接に結びつける存在として、間違いなく太鼓台の豪華や大型化の発展に深く関与していると私は考えている。そして改めて、蒲団部の解明なくしては「太鼓台誕生から発展等の生い立ちの歴史」がこれまでのように不透明のままとなり、このままでは文化圏の一体感醸成に不可欠な「客観的な共通認識が構築されない」との強い危惧を抱いている。

幸運が重なり、大型で豪華となった蒲団型太鼓台を繰り出している文化圏の著名な地方では、四本柱の上に高々と積み上げられた自太鼓台の分厚い赤一色或いは色違いの蒲団部が、これまで「ごく当たり前の存在」として深く掘り下げられることはなかった。誰もが現状の蒲団部の構造を、そっくりそのまま「過去の時代から受け継いで来た伝統の形状」と安易に認め合ってきた。そして、その誤った固定概念の奥に隠されてきた文化や歴史の真実或いは重み、必須であるはずの各地との共通点比較・確認といった核心部分を、私たちは殆ど気づくこともなくそのまま受け流してきた。伝統文化継承に厳しいこれから先、私たちの太鼓台文化が他の先行している伝統文化に伍していくためには、私たちはこれまでの固定観念を払しょくし、大いに反省し、遅まきながらも客観的な解明事実を着実に積み上げていかなければならないと思う。

以下は、記録して遺してくれた先人からの贈り物(抜粋)

上から、1798頃の『摂津名所図会』の蒲団太鼓、1820頃の加古川・神吉八幡の御先太鼓、1827頃の長崎・椛島町ココデショ(長崎の絵師・川原慶賀の肉筆画を参考にして、シーボルトの意向で製本印刷に適した銅版画に書き直したの。原画は探索中とのこと)、1835頃の西条・伊曾乃神社・神輿楽車。

蒲団型太鼓台の蒲団部をテーマとして論じる今回のブログを通じ、①「多種多様の太鼓台が互いに関連してつながっている存在」であることを、文化圏全体の共通認識として客観的に示したい。②各地の太鼓台がバラバラの存在で、自太鼓台が一番などという我田引水そのものの「太鼓台文化圏各地間の分断」(大・中・小型、豪華・簡素、類似・異種、他の太鼓台を顧みることをしない等)を阻止し、③長い時代の間、そのような排他的で狭い了見によって「太鼓台文化の客観的な解明」を遅らせてきたことを猛省したい。これまでは、太鼓台文化を広大なエリアの伝統文化とは認識できず、近隣の同形・類似の太鼓台のみを中心に据えた"偏った太鼓台文化"を論じることとなってしまった。このような方法論では、正確で客観的な太鼓台文化論を推進し発展さすことは不可能であると思う。井の中の蛙(一部分)をあれこれと捜し追い求め、肝心な大海(全体像)に少しも到達しなかったのが、これまでの「中途半端な太鼓台文化の解明」事情であったとも思う。

太鼓台に近い祭礼奉納物(山車・だんじり・山等)や神輿との関係

その結果、客観的解明の進まなかった太鼓台文化と、太鼓台に近い他の伝統文化との間には、素人と専門家ほどの大きな格差を生じてしまった。解明の進んだ他の伝統文化は伝統文化本来の評価や地位を得、そうではない太鼓台文化のように一体感の見られない各地バラバラの伝統文化は、どうしても置き去りされる結果となってしまった。記録上では、太鼓台が18世紀からの近世後期における集中的且つ各地同時多発的登場で、過去の状況が捉え難い文化であるのに対し、太鼓台に近いと目される各地の祭礼奉納物(山車・だんじり・山等)は、単独若しくは都市部等の比較的狭い範囲での登場が主となっており、太鼓台文化に比べると発生から発展への軌跡も捉え易く、過去の様子も絵画や古記録類に遺され易かった。これは文化の立地条件や経済力及び工芸・芸術力の差であると思う。

このように、太鼓台はかなり後発の伝統文化であることは間違いのないところと認識している。その一方で、太鼓台が祭礼神幸式で神様が乗るとされる神輿に近い存在であることにも注目されてよい。記録にも遺されてこなかった草創期の太鼓台が果たして存在したのか、それとも後年18世紀以降の記録が太鼓台の初見なのか。記録に遺るような発展を遂げた比較的豪華な太鼓台の近世期の集中的・同時多発的登場は、神輿の流布とも無関係であるとは思えない。

全く仮説の域を出ないが、文化程度の差が明らかな都市部の神社と地方の神社とでは、神輿の導入に際しても全国一律的な受け入れとはならなかったように思う。都市部では発達した工芸技術や経済力等により神輿の制作や流布は容易であったと思うが、地方ではそうは簡単に神輿が手に入らなかったのではないか。このような当時への想いから、私は地方の中小神社等では高価な神輿導入がかなり遅く、鳴動轟く大太鼓が一つあれば運行できた太鼓台の誕生を、「地方では、神輿よりも太鼓台導入が先ではないか」とも投げかけ注視してきた。

各地太鼓台からの情報発信が大切

いずれにせよ、太鼓台の代表的な形態の一つとして蒲団型太鼓台は存在している。その蒲団部の不明な謎を解明することによって、少なくとも蒲団型太鼓台の各地では、蒲団部を通してこれまで顧みられてこなかった文化圏各地との一体感は向上するのではないかと考える。太鼓台文化圏は「ひとつ」にまとまれるのではないか。その手始めがポピュラーな蒲団型太鼓台の、蒲団部の解明であると確信している。そのためには、蒲団部の各地比較は欠かせない。それぞれの太鼓台から、自太鼓台に関する蒲団部に関する情報発信を積極的に行っていくことが求められる。各地からの信頼できる情報の山々が、更なる文化解明の強い手助けとなるものと思う。

次回「蒲団型太鼓台の蒲団部構造に関する考察(2)」以降では、各地太鼓台の個性あふれる蒲団部の形状や各地間の共通性及び蒲団部発展の様子を、取材した画像等を添えて論じていきたい。

(終)

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