太鼓台文化・研究ノート ~太鼓台文化圏に生きる~

<探求テーマ>①伝統文化・太鼓台の謎を解明すること。②人口減少&超高齢者社会下での太鼓台文化の活用について考えること。

太鼓台文化を「ふるさと活性化の原動力」に

2023年07月19日 | 地域活性化

下記投稿は、近々母校の同窓会報に掲載される予定のもの。常々「太鼓台文化との付き合い方」を模索している個人的想いを、発信しました。

(終)

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古刺繡の連鎖について (3)

2023年07月10日 | 研究

3.古刺繍の〝連鎖の確認〟と工房・松里庵以前について

「その家の特徴の縫いの流儀というものが、作品には出てくる」‥この言葉は、観音寺の工房・松里庵3代目・(故)髙木一彦縫師からの聞き取りである。明治以降、髙木定七縫師が率いた松里庵・髙木工房では、当然ながらその家の作風・流儀といった不文律的なさまざまな技法が、作品の隅々に注意深く散りばめられている。それらの技法が、果たしてどのようなものなのか。どのような箇所に配置されているのか。それらは一作品だけではなく、多くの作品に共通・普遍的に確認できるのものなのか。また、作品の主テーマの部位なのか、それともそれ以外の余白部分等に、意識して用いられているのではないか、等々。このような視点を持ち、細かく気配りしながら、上の各表にて明治後期頃迄に制作されたと推測できる、このエリアの多くの松里庵・古刺繍作品に向き合ってきた。表中に、同じ作品が他の特徴の項に重複して記載されているのは、それだけ工房の特徴なり技法なりが複雑に絡み合い、作品に表現されているからではないかと、私は理解している。

このエリアでは、太鼓台装飾刺繍の先駆者として2名の縫師が有名である。一人は観音寺の松里庵初代で、琴平出身の髙木定七縫師(1852~1920)であり、今一人は、定七縫師より10年ほど遅れて登場した阿波・箸蔵村西山(現・三好市)出身の山下茂太郎縫師(旧姓川人、1861~1930)である。私の取材では、この二人の縫師は、明治中・後期の一時期、同じ工房(観音寺の松里庵・髙木工房)にいて、切磋琢磨していた可能性が極めて高い。勿論、大量の太鼓台刺繍を作るためには、他の大勢の縫師たちの存在を抜きにすることはできない。

残念ながら、この地方の太鼓台の豪華刺繡の誕生や発展の状況については、ほとんど判明していない。特に、観音寺以前の髙木工房の琴平時代における制作事情や、髙木家以外の縫屋や縫師の状況がどうであったかなどについては、何ら把握できておらず、全く未解明のままである。確かに、琴平金山寺町大火のあった天保9年(1838)の時点では、松里庵・髙木家と同一と見られる「髙木屋」が、芝居小屋の裏手に確認できる。髙木屋前の小道を挟んですぐ真向いに「白川屋・縫」があった。(髙木屋は焼け出されたが、白川屋は延焼を免れている)この白川屋と髙木屋とには、どのようなつながりがあったのだろうか。白川屋は縫屋であり、主としては芝居の衣裳や歓楽街・金毘羅の芸妓たちの、豪華な刺繡入りの着物を制作していたのではなかろうかと、私は考えている。その理由として、太鼓台はまだまだ草創期の色が濃く、豪華な刺繡などをほどこすには至っていなかったと考えられるからである。このエリアの天保期以前の太鼓台の装飾事情は、観音寺市沖の伊吹島中若(南部)太鼓台のように、全てが「大坂・直結」に近かったのではないかと考えている。中若(南部)太鼓台には、文政6年(1823)の水引箱が遺されている。その箱は小さくて薄く、今日的な厚みのある水引幕に近いものを保管することなどできないものであった。恐らく、薄い布地状のものを畳んで保管していたものと想像する。

西条祭りの「みこし」(蒲団型太鼓台に大きな車が付属したようなカタチ)を天保6年(1835)頃に描いたとされている絵巻が存在する。(20212刊『西条祭礼絵巻』福原敏男氏著)その絵には、幅の狭い水引幕や黒の細い蒲団〆及び小型三角形の高欄掛(三角蒲団)などに、簡単な刺繍らしきが確認できることから、当然ながらこのエリアにおける当時の太鼓台にも、西条のみこしと同様の簡素な刺繍が縫われていたものと思われる。その供給地はどこであったか。それは金毘羅宮の鎮座する琴平であり、上記の白川屋や髙木屋ではなかっただろうか。ただ、当時の太鼓台刺繡は、伊吹島・中若太鼓台が用いていたような水引幕(布地は高級だったかも知れないが、生地は薄かった)のことを考えると、刺繡の縫われた幕や蒲団〆などは、まだまだ無地のものが多かったと思われる。

また西条祭のみこし絵の存在は、少なくとも髙木・山下という、この地方の先駆け的縫師が生まれる2、30年も前から、既に太鼓台には何らかの装飾刺繍がほどこされていたことを明らかにしている。後に、山下茂太郎少年が縫師を志すきっかけとなったことに関し、「金毘羅大芝居を見たこと」(伊予三島で三代目の山下茂縫師の談)を挙げている。豪華で煌びやかな衣裳の存在が、茂太郎少年を含め、当時の人々にとっては羨望の的だったのだろう。

このエリアの太鼓台初見は、寛政元年(1789、大野原は奉納、伊予三島は新調)であるので、太鼓台登場から西条みこしが描かれた天保6年頃までの約50年間には、太鼓台装飾に関しても今日的豪華が当たり前だと想像することはできず、伊吹島のように、大坂直結か遅々としたものであったかも知れない。しかし、太鼓台装飾刺繍の発展に関しては、それ相応に進みつつあったものと考えなければならないだろう。私は太鼓台刺繡に影響を与えたのは、当時盛んであった地芝居の豪華な歌舞伎衣裳ではなかったか、と推理している。 

今回、途中報告的に作成した上記の各表からは、歌舞伎衣裳(相撲の化粧回し等も含む)と太鼓台刺繡の双方の、明らかな酷似・共通点や関連が見えている。それも、琴平出身の松里庵・髙木工房を介して。衣裳制作の縫屋の高度なそれまでの技法を受け継ぎ、歌舞伎衣裳の刺繡を太鼓台刺繡に昇華させたのである。昇華させた例として次の2例を挙げたい。最初の例は、上表➌に挙げた大向太鼓台(まんのう町)の龍虎の蒲団〆である。ここに縫われた龍は、現在と比べて立体感が乏しく平面的な縫い方をしている。その後、龍虎の蒲団〆は各地での完成度を高め、明治43年に至り豪華な本若太鼓台(観音寺)の蒲団〆へと繋がっていく。平面的縫の衣裳の龍が、厚みのある太鼓台・蒲団〆の龍へと発展した例である。次の例は、❽の新浜子供太鼓台(坂出市)の扇獅子である。扇獅子は、扇を2枚重ねて頭上に被り、それが唐獅子を表しているというものであり、歌舞伎の演目・石橋(しゃっきょう)物に使われている。松里庵では、この扇獅子を唐獅子の蒲団〆として用いている。これなどは、歌舞伎との深い繋がりがなければなかなか思いつかないアイデアではないかと思う。観音寺では、この扇獅子を、髙木家が氏子となっている琴弾八幡の、奉納順・奇数号の太鼓台に採用されてきた。

上表❶➋➌に採り上げた波涛・波頭・岩肌は、作品としては主テーマ部分ではなく、どちらかと言えば余白処理に近い部分での出現である。松里庵が手掛けたこのエリアの刺繡作品には、他地方のように、制作した工房等を示すネーム付は無い。それ故に、私たちは古刺繍実見に際し、工房の特徴が潜む「さまざまな特徴・技法」を的確に掴むことが求められてくる。そのような地道な作業を通して得られた、上表❶~❽記載の特徴的な技法を、「工房・松里庵の流儀」として、工房特定の尺度としても良いのではないかと、個人的には考えている。

太鼓台装飾刺繡が華やかに豪華になる以前の、このエリアの「ルーツ的太鼓台とはどのようであったか」を、より一層知りたいとの想いから、太鼓台刺繍発展期の明治時代に活躍し、当時はほぼ寡占的に制作していた工房・松里庵の古刺繍について、長年に亘り眺めてきた。現在はようやく、その概要が分かりかけてきた段階である。太鼓台刺繡の根っこには歌舞伎衣裳があり、その衣裳を一層立体化し豪華に昇華させ、太鼓台刺繡の礎が築かれたものと考えている。現在では更に豪華に派手に変化し、日々発展を続けている。

約200年という太鼓台刺繡発展の時間軸の中で、私たちは多くの新しいものを得た一方で、同時に多くの大切な遺産を失ってきた。過去のボロボロの刺繍の中からも、私たちに語り掛けてくるものがいっぱい詰まっていることを知った。それは、私たちをタイムスリップさせ、温故知新、新しい知見に結び付けてくれている。遺して呉さえすれば、解明できることが一杯ある。これからも外見的な豪華さだけに惑わされず、より深くより客観的に太鼓台文化の歴史や真実に迫りたいものである。               

※本稿は、2023.6.25に実施された西予市シルク博物館での化粧回し等の調査・撮影の際に配布資料として作成したものを若干手直ししたもの。本件実施の報告等については、別途発信したいと考えているので、それまでしばらくの猶予をお願いします。

(終)

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古刺繍の連鎖について(2)

2023年07月10日 | 研究

2.松里庵・髙木工房関連の古刺繍について~それぞれの作品連鎖を探る(途中報告) ‥表中の記載順は、作品登場の年代順とは一致しておらず無関係である。

古刺繍の連鎖について(3)に続く。

 

 

 

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古刺繍の連鎖について(1)

2023年07月10日 | 研究

 古刺繡(地芝居・太鼓台・草相撲)の連鎖について

  ~〝工房・松里庵〟古刺繍作品の展開 (途中報告) ~

1.はじめに

中・西讃から東予・西阿のエリアにかけては、大型の太鼓台「ちょうさ」が数多い。太鼓台は蒲団型に分類されるもので、現在では高さ4m・舁棒10m・重量2.5tをそれぞれ超え、豪華な刺繍が大きな特徴となっている。このエリアは全国的に眺めても巨大太鼓台の密集地帯となっており、中でも中・西讃から東予にかけては、最新の居住人口約617千人(香川県は2023.6.1現在、愛媛県は5月末現在)に対し、大人用太鼓台は約428台(貝塚市・岩根淳氏のHP「山車・だんじり悉皆調査」を参照させていただいた)となっており、1台当り平均の関係人口は500人を切る驚くべき自治体もあり、単純平均では約1,441人となっている。この数値は老若男女全ての人々が関係し、西条市の「だんじり」や「みこし」、その他太鼓台同様大勢の合力が必要な各種「だんじり」等(173台.参考「山車・だんじり悉皆調査」)を含めると約1,022人となり、更に関係する人々の密度が増す。

このエリアに遺されている文献や私自身の各地実見では、太鼓台は江戸後期の寛政元年(1789)に初めて記録に表れ、百年ほど後の明治初期までは規模としてはかなり小型であった。そして造り替える度に、大きく豪華に変化発展している。またエリアの広範囲では、太鼓台や装備している高価な装飾品なども中古の状態で普段に売買され、更に水引幕や掛蒲団などの高額装飾品も、祭礼日の異なる親しい地区間で、毎年のようにレンタルし合っていたことが記録に遺されている。このような事情から、このエリアでは太鼓台の独自性はあまり見られず、大きさやカタチの似通ったものが多い現状となっている。

このエリアの最大特徴である装飾刺繍の大型化や発展について考えると、男女を問わず大勢の無名の職人たちが関わっていたことが偲ばれる。その中には、金毘羅さんのお膝元に工房を構えていた松里庵・髙木家があり、後に観音寺へ工房を移した髙木定七縫師は、明治全期を代表する著名な縫師であった。エリア内外での太鼓台古刺繍の分布実態からは、明治後期頃まで、ほとんど工房・松里庵の寡占状態であったことが判明している。その頃までに刺繡され、百年余を経て今日にまで大切に遺し伝えられてきた古刺繍を実見すると、工房・松里庵が制作に関わったものが殆どではないかというほど、数多く目に留まる現状となっている。

太鼓台刺繍だけでなく、高松市香川町や小豆島の農村歌舞伎で使用されている歌舞伎衣裳や、遠くは西予市野村町の乙亥相撲に使われていた化粧回しなどでも、工房・松里庵の刺繍技法に酷似する古刺繡の存在が確認されている。これまでの通説として、各地の地芝居衣裳の入手地は、伊勢参宮記念の奉納寄付等が多いことから、帰路に大阪などでの購入がほとんどであったと伝えられてきた。ところがそうとは限らず、その内の最も豪華な刺繡衣裳の中には、近場の工房・松里庵製と見られるものが多々ある。このことは、これまでの「芝居衣裳は四国島外の制作・購入」の通説を、部分的かも知れないが「地元制作・購入」へと覆す、重要な一石を投じることとなる。

東予から中・西讃地方の太鼓台誕生ブームに拍車がかかった明治前期から昭和初期は、それまで庶民文化の華であった各地の地芝居が、急速に下火になっていく時代でもあり、地芝居衰退に取って替わったのが、人々を熱狂させた太鼓台であった。工房・松里庵では、一早くこの時代の趨勢を察知し、新調ラッシュの工房拠点を、ブーム真っ只中の東予に近く、交通の便の良い観音寺へ移した。それは、松里庵の観音寺での初代・髙木定七縫師の時代(明治中・後期)であった。明治の一時期(明治9年1876~同21年1888)、現在の香川県が当時の愛媛県に併合されていたことも、太鼓台伝播や流布に深く影響していたものと思われる。

このエリアの古刺繡は、制作年や購入先等が特定できないものが多い。ただ一部の古刺繍では、制作者・購入年・奉納年等の判明しているものもあり、太鼓台と衣裳双方の古刺繍の技術的な酷似点を地道に究めることにより、制作時期等が客観的に推測できることもある。このように、このエリアにて寡占的に豪華刺繍を生み出していた松里庵・髙木工房の、太鼓台刺繍以前に軸足を置いていた刺繍付の豪華衣裳と、後発の太鼓台刺繡の双方の間には、当然ながら共通する高度な技術の伝達があったことが、現存する双方古刺繍に多々認められるている。

次ページ以下に示した、工房・松里庵が関係すると思われる古刺繍関連表(途中報告)の作成に当たっては、各地で見学・調査・撮影等をさせていただき、それらの作業を経て、工房の特徴と思われる項目別に❶~❽に振分け、松里庵製古刺繍の広まりや連鎖について、私案として提示した。改めて古刺繍を精査してみると、工房作品連鎖の状況が、より身近に感じられるものと思う。

(2)へ続く

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