太鼓台文化・研究ノート ~太鼓台文化圏に生きる~

<探求テーマ>①伝統文化・太鼓台の謎を解明すること。②人口減少&超高齢者社会下での太鼓台文化の活用について考えること。

徳島県側の太鼓台等の見学について-①

2021年04月20日 | 見学・取材等

徳島県三好市の吉野川・池田ダム湖の北東岸から、徳島・香川両県境に連なる阿讃山脈の急坂を車でしばらく登ると、西山地区に着く。そこから西の山腹に沿った道路は、洞草(ほらくさ)-馬場(うまば)の集落へと続き、その先のT字に分かれた右方は、四国霊場66番札所・雲辺寺へと登り道が伸びている。西山と馬場には太鼓台、洞草にはだんじりが伝えられている。そのT字を左方に曲がると、井ノ久保集落の三社神社の横を通って雲辺寺への登り道入口に降りていく。そこから川之江方面への国道192号線沿いの、馬路・佐野地区にも太鼓台が伝えられている。

西山(西山本名)太鼓台

このうち、装飾刺繍を明治23、24年(1890-91)の両年に新調した西山太鼓台は、香川県の中讃から西讃・愛媛県東予・徳島県西阿地方の一帯に広がる巨大な〝刺繍太鼓台〟の発展に大きな功績のあった、松里庵・髙木縫師と、髙木縫師に続いて興った山下縫師(西山地区は山下縫師の故郷で、旧姓は川人氏。見学・調査に訪れた2012年9月、初めて知った)との、珍しい両師共同での〝コラボ制作の太鼓台〟である。西山太鼓台に関する情報発信としては、本ブログの昼提灯余話(2)や、冊子『太鼓台文化の歴史』(2013.3観音寺太鼓台研究グループ/刊の75㌻)等にて紹介している。そのうちの昼提灯余話(2)では、髙木・山下両縫師のそれぞれ初代と目される髙木定七師・山下茂太郎師について、以下の比較表のように、方や伝統の技・髙木縫師、方や新進気鋭の技・山下縫師として、互いの密接な関係性を述べている。しかし山下縫師の出身地である現在の西山地区は、急激な過疎化の進行により誕生から約130年を経た今、倉庫の中で半ば放置状態となっている。四国北岸地方の刺繍型太鼓台発展の礎を確かなものとした〝西山・コラボ太鼓台〟の盛衰は、真に悔しい限りである。

以下の写真は、上段が地元出身の山下(旧姓・川人)縫師の、蒲団締及び昼雪洞関連の品々。下段は髙木縫師関連の掛蒲団と水引幕に関する品々。これ以降の両縫師の工房は、互いを信頼しあった切磋琢磨が続き、この地方の太鼓台の大型化・豪華絢爛化など、太鼓台の巨大・均一化へと突き進むこととなった。

洞草(ほらくさ)だんじり

西山地区から西へ進むと畑の中に川人家庄屋屋敷がある。その辺りが洞草集落で、だんじりの装飾刺繍は山下茂太郎工房の作である。

 

馬場(うまば)太鼓台

昭和60年(1985)に見学した馬場・四所神社秋祭りの太鼓台は、現在の東予・西讃岐の太鼓台に比べると一回り小振りであった。装飾類の痛みも既に相当に目立っていて、その何年か後に再訪問した時には、蒲団〆なども更に素人の手が加えられていた。馬場の隣集落の西山からは、川人茂太郎縫師(後の山下茂太郎縫師、山下縫師の初代)が出ている。山下縫師のお弟子さんとして、馬場からは、森本民蔵縫師(親族の方からは、山下工房の一番弟子と聞いた)や、後に淡路島で成功された梶内近一縫師を輩出している。四所神社には、若き森本縫師が大正3年(1914)に年季明けした際の、奉納刺繍絵馬(最後の画像)がある。森本縫師は不運にも若くして他界したと聞いた。

   

井ノ久保太鼓台

国道192号の阿波池田方面から四国霊場・雲辺寺への登り道を行くと、井ノ久保・三社神社があり、そこに太鼓台が受け継がれている。太鼓台の道具保管箱には明治中期から後期の年号記載があり、伊予方面で使われていたものであることが分かる。写真の金縄保管箱に書かれている〝東伊予三嶋村・上町若連中・町中持處、明治廿四年旧九月吉日〟からは、香川県三豊市山本町・河内上組太鼓台に伝えられた道具箱〝金大八ツ房并同小房入箱、明治廿六年秋、新拵東雲(上町/久保太鼓台の別名)〟との関連も見えてきそうに思う。蒲団枠は明治20年製、閂は中央に1カ所であった。太鼓叩きの乗り子は、顔の少し右手でバチを十字に組んでいた。この所作も各地で同様なものが見られている。なお現在の神社へは、太鼓台は平たんな道路から境内へ直に入れるが、道路整備がされていなかった頃には、境内を見上げる足場の悪い急坂を、地域総出にて宮入していたそうである。(最後の写真)

   

馬路太鼓台

雲辺寺方面から下ってくると国道192号へ出る。国道を伊予方面に走ると、右手に杉の大木が目に留まる。馬路地区の境宮神社である。ここにも太鼓台が現役で奉納されている。飾られている蒲団〆と水引幕では、制作した工房は異なっていると思う。水引幕は松里庵・髙木工房製の特徴がみられているが、蒲団〆の方はそうではないように思う。

遺されている道具箱の蓋書き等(最後の3枚の画像)からは、「干時天保六年(1835)・乙未八月吉□日〝高欄掛廻(幕) □入箱〟□(若連中)」(縦長い板のもの、□は不明文字)、「天保六(1835)乙未〝衣装水引・天蒲団入 箱〟八月吉祥日 辻若中」(辻は、曼陀峠下の讃岐大野原の辻地区である)、「安政二年(1855)〝 蜻蛉補従(とんぼ補充)入箱〟卯八月求之馬若連」(馬若連は馬路若連中のこと)が確認できる。なお、天蒲団と蜻蛉補充入箱については、「天保4年の伊吹島・南部太鼓台への見積書について」の、詳細解説のC(上蒲団)及びD(とんぼ結)を参照していただきたい。写真の蒲団〆も水引幕も、箱書きの時代よりもかなり後の時代のもので、水引幕の方がより古いと思う。

    

佐野太鼓台

馬路地区より更に伊予寄りの、ちょうど讃岐の曼陀峠(まんだ―)を下ってきた佐野集落にも、太鼓台が出されている。蒲団部の内部には閂穴がない。四本柱を下から支える〝せり上げ〟と称する部位がよく見える。台脚の四脚の外側から斜めに貫かれた部位(先端は補強のため鉄を被せている)が、それである。大阪府貝塚市や伊吹島などでは、普段は高いまま運行する太鼓台を、鳥居や随身門を通過する際に低く下げるための構造を〝せり上げ〟(実際は〝せり下げ〟であるが)と称している。太鼓台を上下する必要のない地域では、高さを一定したままで運行するため、佐野太鼓台のような構造となっている。西讃岐から東伊予・西阿波にかけての地方では、この部位を四本柱を支える構造としてとらえているため、〝せり上げ〟のことはほゞ話題にのぼることはない。ただ確かに、川之江地方では、今も〝せり上げ〟の語彙を使用していると聞いている。最後の3枚は、お祭り終了後の秋の夕刻、後片付け風景。

(終)


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