こんにちは!いかわたいきです。
日曜日(10月30日)にJC(日田青年会議所)のメンバー6名と飯塚市の九州工業大学に向かいました。
被災地である宮城県大曲町から中井正義氏がお越しになり「生きるという事」という題材を講演して行いました。
中井正義ブログ「東日本大震災を風化させない活動推進センター」
中井氏は大地震後の現状、被災地、被災者、防災等を話して頂きました。
中井氏はあの大地震が起こった時は、奥様と仕事で偶々仙台市の方に行ってて難を逃れたみたいですが…、地震が起きた時、大曲町に居る息子さん(石巻市と大曲町は隣接しており、沿岸では繋がっている。)からたった一言「車を借りる」というメールが届いて以来、音信不通になったと。
大地震が起きた際、一時的に電話もメールも繋がらなくなったせいで両親は気が気でなく…すぐに大曲町へ戻り、近くの避難所で高い建物は大曲小学校しか無いため、そこに行ったとのだが、避難者で溢れかえり、津波の水も引いてないため3日間足止めをされました。
息子さんは車に乗って避難しようとしていたみたいですが、同じ事を考える人が多く渋滞する道路を見て機転を利かし、車を乗り捨て知り合いの家に避難しました。
その後、すぐに二階へ上がり屋根に避難しようとした時に津波が襲ってきたそうです。幸い別の避難所で家族と一緒に逃げ果せたみたいで、中井氏はこの時ほど家族の絆を感じた事は無かったと言ってました。
しかし、どこの家族も自分の家族を探しており、中には半場亡くなった事を受け入れつつ泣きながら息子娘を探す家族や、30㎞も離れた避難所まで「もしかしたらいるかもしれない」と思い、探しに行く家族もいて複雑な気持ちだったと。
また、津波で逃げ果せた人も海水で濡れた寒さで凍死した方もたくさんいました。現場の人に聞いた話では、津波が引くまで昼夜を過ごす訳ですが当時の気温は雪が積もる寒さ、そこかしこで「助けて」という事を聞くのですが、段々小さくなり、1つ…又1つ減っていく。その声が今でも耳から離れないと話していました。
防災に関しましては、中井氏はあらかじめ自分の家族が逃げる場所を決めておけ。大曲町のハザードマップでは一時避難所と決めていた場所は全部津波に飲み込まれた。
逃げる場所はお店に逃げろと。公民館、学校には余分な食糧はない、津波が去った後食糧と水が枯渇するため。
震災があった時は自分達を被災者と思っていた。しかし、避難所を出た途端に自立が始まる。その中で家族との話し合い・衝突が起こる。今後の方向性で父親、母親、祖父、祖母皆違うんだ。中井氏は津波の被害よりも家族との話し合いでの衝突が辛かった。現在震災が起こった地域では、離婚率が3割を超えたとも話していました。
これからは被災者格差が出てくる。地震保険に入っていた人は「全壊・半壊・一部損壊」で支払われる保険料がまったく違うので、中には「ラッキー」と思って毎日パチンコに出掛けている人も居て非常にやるせない気持ちになる。
義援金の事はよく聞かれるが私達の手元に届いたのは震災から4か月後だった。
最後に、中井氏は自分のブログに阪神淡路大震災を経験した人からのメールを紹介してくれた。
「阪神淡路大震災と今回の災害はまったく一緒です。しかし、政府は臭いモノに蓋をしている。(阪神淡路大震災の)教訓がまったく生かされていない、これからが本当の闘いです。私達(阪神淡路大震災)はまだ終わっていないんです。」
早く改善してほしい、前例があるので改善しやすいハズなのに…
僕が所属しているJC(日田青年会議所)では、12月に再び中井氏をお呼びして講演+座談会を企画しておりますので、是非ご参加下さい。宣伝とかではなく、皆様に知ってほしいのです。より詳しく聞けますし、立ち上がろうとしている人達の声と現状を知って頂きたいです。
日曜日(10月30日)にJC(日田青年会議所)のメンバー6名と飯塚市の九州工業大学に向かいました。
被災地である宮城県大曲町から中井正義氏がお越しになり「生きるという事」という題材を講演して行いました。
中井正義ブログ「東日本大震災を風化させない活動推進センター」
中井氏は大地震後の現状、被災地、被災者、防災等を話して頂きました。
中井氏はあの大地震が起こった時は、奥様と仕事で偶々仙台市の方に行ってて難を逃れたみたいですが…、地震が起きた時、大曲町に居る息子さん(石巻市と大曲町は隣接しており、沿岸では繋がっている。)からたった一言「車を借りる」というメールが届いて以来、音信不通になったと。
大地震が起きた際、一時的に電話もメールも繋がらなくなったせいで両親は気が気でなく…すぐに大曲町へ戻り、近くの避難所で高い建物は大曲小学校しか無いため、そこに行ったとのだが、避難者で溢れかえり、津波の水も引いてないため3日間足止めをされました。
息子さんは車に乗って避難しようとしていたみたいですが、同じ事を考える人が多く渋滞する道路を見て機転を利かし、車を乗り捨て知り合いの家に避難しました。
その後、すぐに二階へ上がり屋根に避難しようとした時に津波が襲ってきたそうです。幸い別の避難所で家族と一緒に逃げ果せたみたいで、中井氏はこの時ほど家族の絆を感じた事は無かったと言ってました。
しかし、どこの家族も自分の家族を探しており、中には半場亡くなった事を受け入れつつ泣きながら息子娘を探す家族や、30㎞も離れた避難所まで「もしかしたらいるかもしれない」と思い、探しに行く家族もいて複雑な気持ちだったと。
また、津波で逃げ果せた人も海水で濡れた寒さで凍死した方もたくさんいました。現場の人に聞いた話では、津波が引くまで昼夜を過ごす訳ですが当時の気温は雪が積もる寒さ、そこかしこで「助けて」という事を聞くのですが、段々小さくなり、1つ…又1つ減っていく。その声が今でも耳から離れないと話していました。
防災に関しましては、中井氏はあらかじめ自分の家族が逃げる場所を決めておけ。大曲町のハザードマップでは一時避難所と決めていた場所は全部津波に飲み込まれた。
逃げる場所はお店に逃げろと。公民館、学校には余分な食糧はない、津波が去った後食糧と水が枯渇するため。
震災があった時は自分達を被災者と思っていた。しかし、避難所を出た途端に自立が始まる。その中で家族との話し合い・衝突が起こる。今後の方向性で父親、母親、祖父、祖母皆違うんだ。中井氏は津波の被害よりも家族との話し合いでの衝突が辛かった。現在震災が起こった地域では、離婚率が3割を超えたとも話していました。
これからは被災者格差が出てくる。地震保険に入っていた人は「全壊・半壊・一部損壊」で支払われる保険料がまったく違うので、中には「ラッキー」と思って毎日パチンコに出掛けている人も居て非常にやるせない気持ちになる。
義援金の事はよく聞かれるが私達の手元に届いたのは震災から4か月後だった。
最後に、中井氏は自分のブログに阪神淡路大震災を経験した人からのメールを紹介してくれた。
「阪神淡路大震災と今回の災害はまったく一緒です。しかし、政府は臭いモノに蓋をしている。(阪神淡路大震災の)教訓がまったく生かされていない、これからが本当の闘いです。私達(阪神淡路大震災)はまだ終わっていないんです。」
早く改善してほしい、前例があるので改善しやすいハズなのに…
僕が所属しているJC(日田青年会議所)では、12月に再び中井氏をお呼びして講演+座談会を企画しておりますので、是非ご参加下さい。宣伝とかではなく、皆様に知ってほしいのです。より詳しく聞けますし、立ち上がろうとしている人達の声と現状を知って頂きたいです。