先日、Facebook上で思わぬ音楽談義(?)になったので、少しばかりブログで僕の個人的な音楽史を書こうと思う。
70年代後半から80年代後半にいわゆる思春期を迎えた年代、つまり現在40代半ばの人たちは、ある意味で音楽に興味を持ち始めた頃にさまざまな音楽的変革を実体験したと思う。
今、団塊世代と呼ばれている60代の人たちはビートルズの出現に熱狂したが、おそらくそれ以上の衝撃をを目の当たりにしたと思う。
というのは、70年代後半から80年代後半の音楽は急激にその幅を広げていったから。
今の流行の音楽の根源はそこから来てると僕は思っている。ゆえに、今の音楽に熱狂できずにいるのだが……(もちろん、好きなアーティストはたくさんいるけど)。
一般的に特に重要とされるのは1970年代後半。この頃に出現したのはセックス・ピストルズに代表されるロンドン・パンク。ラモーンズやトーキング・ヘッズ、僕の大好きだったブロンディなどのニューヨーク・パンク。日本でもパンクロックバンドが多数出現した。
と同時期に、イエロー・マジック・オーケストラ(=テクノ・ポップ)が登場した。
ロンドン・パンクはピストルズの解散で急激に衰退してしまったが、すぐにデュラン・デュランやカルチャー・クラブ、ヒューマンリーグなどのニューロマンティックというジャンルが台頭した。
ハードロックもギターテクを競うような曲から、よりメロディアスでクラシック音楽にその根源が求められるようなものへと変わっていった。
細かいことを言えばキリがないのでここでやめておくが(僕は音楽評論家でもなんでもないので)、
とにかく何でもありの、混沌とした時代だった。
そんな時代にいわゆる思春期を過ごした僕は、いろいろなものをごちゃまぜに聴いていたような気がする。
つまり、音楽の流れに沿って聴いて来たわけではなく、何の脈絡もなく、さまざまなジャンルのものが耳に入って来た。
中学生当時は確かお小遣いが2500円。そして記憶ではLPレコードの値段が2500~2800円だった。
つまり、月に1枚買えるかどうかということ。当然レコード選びには慎重だった。
その頃の田舎のレコード屋さんには視聴というシステムもなく、聴いてみたいと思っても聴かせてくれるような人のいい店長もなかった。
だから、とにかくFMラジオのチェックは欠かせなかった。今や懐かしいエアチェックというやつ……。
これって、多分僕ら世代が最後くらいでは?
あの頃のラジオって、テープに録音することを前提で今で言うナビゲーターもしゃべっていたような気がする。
「次は○○○」と曲紹介をして、少し間があってから曲が流れていた気がする。
それをタイミングを見計らってテープに録音したものだった。
そんな中でどうしてもレコードを欲しいと思ったものを購入したのだ。
僕が最初に買ったLPレコードは確かロッド・スチュワートのベスト盤。ちょうど、「I'm sexy」とかが流行っていた頃のもの。今思うとなんで買ったのかよく分からないのだが。
僕が中学生だった70年代半ばにはイージーリスニングというものもなぜか流行っていた。ポール・モーリア。リチャード・クレイダイーマンなど。ラジオでロックを、テレビでは歌謡曲を聴いていた自分にとって、イージーリスニングというインストはどこか大人の香りがした。そしてリチャード・クレイダイーマンのアルバムを購入したことを鮮明に覚えている。
高校時代になると、僕はより洋楽(特にロック)へと傾倒していった。バンドではハードロックを、家では当時流行のYMOに代表されるテクノポップ(今のテクノとは全くの別物です)やビルボードを席巻したロンドン発のニューロマンティック(デュラン・デュランやヒューマンリーグなど)、そしてマドンナ、シンディー・ローパー、RUN DMCで初めて知ったヒップホップ(当時はラップと言っていた)、何より驚かされたのは、やっぱりマイケル・ジャクソン。
その一方で、恥ずかしながら、松田聖子と早見優のLPレコードは欠かさず購入、コンサートにもよく行ったものだった。
今思うと、80年代前半は特に様々なものが登場し、ちょうど今の時代の音楽の萌芽が見え隠れしているような気がする。
大学生になると、ドライブミュージックが中心となっていった。一人で運転している時に聴くテープ、女の子とのドライブで聴くテープ、野郎どものとのドライブで聴くテープの3種類が常にクルマに準備されていた。この頃に、僕は音楽のTPO(?)を覚えた。80年代後半、バブルの時代のドライブミュージックと言えば、サザンとユーミン。たまにプリンセス・プリンセス。一人の時はガンズ・アンド・ローゼスを大音量でかけていたことを思い出す。
大学3年の時だった。急にアメリカをバスで横断することを思い立った。初めての海外、ろくに英語もしゃべれない。でも、どうして行きたかった。海外旅行なんて滅多に行けるものではない、時間のある今いかなくてはと。
アメリカを選んだのは生でアメフトを見たかったのと、子供の憧れたサンタモニカ(映画「スティング」でロバート・レッドフォードとポール・ニューマンが出会うシーンで使われた回転木馬、当時僕が世界の中心と信じていたニューヨークをこの目で見たかったからだ。あとはアメリカに留学した先輩を訪ねることも目的にひとつだった。
このアメリカ一人旅が、僕は自分が本当に好きな音楽と出会うきっかけとなったのだ。
アメリカでは様々な人を出会った。目的地が同じであれば一緒に行動したりもしたし、だれもが貧乏旅行者だったので、折半してホテルやモーテルに泊まったりもした。
まずは、ジャズ。ロサンゼルスで知り合った人の中に、たまたま同じ明治大学の法学部、しかも同じ学年の男がいた。彼は、アメリカで本場のジャズを聴くことを目的としていた。ジャズのジャの字も知らなかった僕に、彼はいろいろなことを教えてくれたし、ニューヨークで再び合うをことを約束して一度別れ、再会したニューヨークでは様々なジャズクラブに連れて行ってくれた。日本に帰ってきてからも、彼はいろいろなジャズを聴かせてくれて、気に入ったCDはいくらでも貸してくれた。
実は、ジャズのことは余談。
僕の後の音楽的指向を決定付けたのが、アメリカに留学をしていた先輩宅を訪ねたときだった。
とにかく長距離バスで最寄りのターミナルまで行ったのだが、そこはシカゴから約2時間も離れた田舎町だった。
先輩はターミナルまでクルマで迎えに来てくれた。そのクルマで流れていたのがビートルズだったのだ。
それまで、僕はビートルズというバンドにあまりいい印象を持っていなかった。その理由は単純で、中学生のときに英語の授業で歌わされたからだった。浅はかな中学生は、学校で歌わされるようなものは格好悪いものと単純に思っただけのことだった。以来、ビートルズに触れることはなかったのだった。
ロンドンでもましてやリバプールでもない、ビートルズとは縁もゆかりもないないイリノイ州の田舎町で聴いたビートルズに僕は衝撃を受けた。窓の外を流れる風景とビートルズがまだライブをやっていた頃のロックンロールが妙にマッチして聞こえて来たのだった。僕はすぐに虜になった。
日本に帰ってすぐにビートルズのCDを購入した。確か最初に買ったのは「For SALE」(今思うと渋いとこから買ったなと思う)。インターネットなどなかった時代、様々な本を購入してビートルズについて調べまくり、ビートルズのCDに入っていたライナーノーツは隅から隅まで読んだ。そんなときだった。あれは多分「サージャント・ペッパーズ……」のライナーノーツだったと思う。その中にポールの発言が引用されていた。
「世界で一番素晴らしい曲はビーチボーイズの『神のみぞ知る(God Only Knows』だ……」
これを読んだ僕は、すぐに「Pet Sounds」を買いに走った。
そして1曲め「Wouldn't be nice」のイントロを聴いただけで、その虜になった。聴き終えたとき、滅多に泣くことのない僕の涙腺が緩んでいた。
そこから僕はひたすらにビーチボーイズを買いまくり、聴きまくった。そしてビーチ・ボーイズの本を読み、ブライアン・ウィルソンの自伝(とされているもの)を読み、ますます傾倒していった。幻のアルバムと言われた「Smile」のブートレグも買い集めたくらいだ。
また、音楽関連の書籍でその同時代のバンドを調べては(まあ、ジャケットのデザインを見ればだいたい分かるのだけれど)、買って聴きまくった。いいも悪いもたくさんあったけれど、10ccの「サウンドトラック」は今でもたまに無性に聴きたくなる。
バブルもすっかり弾け飛び、時代のキーワードに癒しが急上昇してきた時代、90年代半ばくらいだったと思う。
僕はブラジル音楽と出会う。アントニオ・カルロス・ジョビンを聴いたと言えばちょっと格好がつくけれど、残念ながら小野リサを通して知ったのだった。僕は急激にブラジル音楽へと傾倒していった。名盤と言われるものはもちろん、すでに社会人としてジャケ買いや大人買いの出来るようになっていた僕は、ブラジルと名がつくものを片っ端から聴いて回った。(ビーチ・ボーイズに関しては、僕の中で不動のものとなっていたので、これを聴きながら……)
そして、今もまだブラジル音楽好きは変わっていない。
そして、今でも「Pet Sounds」や正式に発売された「Smile」を聴くと胸がジーンとしてくる。
10年ほど前だったろうか、ブライアン・ウィルソンがソロでツアーを始め、日本公演をしたとき、銀座のHMVで行われたサイン会にはもちろん行ったし、そこで握手をしてもらったときは、感動と緊張でヒザがガクガクしたことを今でも覚えている。そしてコンサートで歌っているブライアンの姿を見たときは涙が出て来た。
なぜなら、二度と復帰はないだろうと思っていたから。アルバムを出しても、ツアーなどしないだろうと思っていたから。往年の声が出なくても、やっぱりブライアンがそこにいるというだけで、僕にはそれで十分だった。
僕は雑誌の編集をしていたので、世界のさまざまな偉大とも言える人たちに会って来た。自分が好きなミュージシャン。映画監督、俳優、アーティスト(美術家)、建築家、デザイナー……。
でも、あれほどまでに緊張し、声すら出なかったのは後にも先にもブライアン・ウィルソンだけだ。
クラシックのこと、今勉強している(自分が習っている)沖縄民謡のことまで書くとあまりにも長くなりすぎるので、これはまた気が向いたときに書こうかと思う。
70年代後半から80年代後半にいわゆる思春期を迎えた年代、つまり現在40代半ばの人たちは、ある意味で音楽に興味を持ち始めた頃にさまざまな音楽的変革を実体験したと思う。
今、団塊世代と呼ばれている60代の人たちはビートルズの出現に熱狂したが、おそらくそれ以上の衝撃をを目の当たりにしたと思う。
というのは、70年代後半から80年代後半の音楽は急激にその幅を広げていったから。
今の流行の音楽の根源はそこから来てると僕は思っている。ゆえに、今の音楽に熱狂できずにいるのだが……(もちろん、好きなアーティストはたくさんいるけど)。
一般的に特に重要とされるのは1970年代後半。この頃に出現したのはセックス・ピストルズに代表されるロンドン・パンク。ラモーンズやトーキング・ヘッズ、僕の大好きだったブロンディなどのニューヨーク・パンク。日本でもパンクロックバンドが多数出現した。
と同時期に、イエロー・マジック・オーケストラ(=テクノ・ポップ)が登場した。
ロンドン・パンクはピストルズの解散で急激に衰退してしまったが、すぐにデュラン・デュランやカルチャー・クラブ、ヒューマンリーグなどのニューロマンティックというジャンルが台頭した。
ハードロックもギターテクを競うような曲から、よりメロディアスでクラシック音楽にその根源が求められるようなものへと変わっていった。
細かいことを言えばキリがないのでここでやめておくが(僕は音楽評論家でもなんでもないので)、
とにかく何でもありの、混沌とした時代だった。
そんな時代にいわゆる思春期を過ごした僕は、いろいろなものをごちゃまぜに聴いていたような気がする。
つまり、音楽の流れに沿って聴いて来たわけではなく、何の脈絡もなく、さまざまなジャンルのものが耳に入って来た。
中学生当時は確かお小遣いが2500円。そして記憶ではLPレコードの値段が2500~2800円だった。
つまり、月に1枚買えるかどうかということ。当然レコード選びには慎重だった。
その頃の田舎のレコード屋さんには視聴というシステムもなく、聴いてみたいと思っても聴かせてくれるような人のいい店長もなかった。
だから、とにかくFMラジオのチェックは欠かせなかった。今や懐かしいエアチェックというやつ……。
これって、多分僕ら世代が最後くらいでは?
あの頃のラジオって、テープに録音することを前提で今で言うナビゲーターもしゃべっていたような気がする。
「次は○○○」と曲紹介をして、少し間があってから曲が流れていた気がする。
それをタイミングを見計らってテープに録音したものだった。
そんな中でどうしてもレコードを欲しいと思ったものを購入したのだ。
僕が最初に買ったLPレコードは確かロッド・スチュワートのベスト盤。ちょうど、「I'm sexy」とかが流行っていた頃のもの。今思うとなんで買ったのかよく分からないのだが。
僕が中学生だった70年代半ばにはイージーリスニングというものもなぜか流行っていた。ポール・モーリア。リチャード・クレイダイーマンなど。ラジオでロックを、テレビでは歌謡曲を聴いていた自分にとって、イージーリスニングというインストはどこか大人の香りがした。そしてリチャード・クレイダイーマンのアルバムを購入したことを鮮明に覚えている。
高校時代になると、僕はより洋楽(特にロック)へと傾倒していった。バンドではハードロックを、家では当時流行のYMOに代表されるテクノポップ(今のテクノとは全くの別物です)やビルボードを席巻したロンドン発のニューロマンティック(デュラン・デュランやヒューマンリーグなど)、そしてマドンナ、シンディー・ローパー、RUN DMCで初めて知ったヒップホップ(当時はラップと言っていた)、何より驚かされたのは、やっぱりマイケル・ジャクソン。
その一方で、恥ずかしながら、松田聖子と早見優のLPレコードは欠かさず購入、コンサートにもよく行ったものだった。
今思うと、80年代前半は特に様々なものが登場し、ちょうど今の時代の音楽の萌芽が見え隠れしているような気がする。
大学生になると、ドライブミュージックが中心となっていった。一人で運転している時に聴くテープ、女の子とのドライブで聴くテープ、野郎どものとのドライブで聴くテープの3種類が常にクルマに準備されていた。この頃に、僕は音楽のTPO(?)を覚えた。80年代後半、バブルの時代のドライブミュージックと言えば、サザンとユーミン。たまにプリンセス・プリンセス。一人の時はガンズ・アンド・ローゼスを大音量でかけていたことを思い出す。
大学3年の時だった。急にアメリカをバスで横断することを思い立った。初めての海外、ろくに英語もしゃべれない。でも、どうして行きたかった。海外旅行なんて滅多に行けるものではない、時間のある今いかなくてはと。
アメリカを選んだのは生でアメフトを見たかったのと、子供の憧れたサンタモニカ(映画「スティング」でロバート・レッドフォードとポール・ニューマンが出会うシーンで使われた回転木馬、当時僕が世界の中心と信じていたニューヨークをこの目で見たかったからだ。あとはアメリカに留学した先輩を訪ねることも目的にひとつだった。
このアメリカ一人旅が、僕は自分が本当に好きな音楽と出会うきっかけとなったのだ。
アメリカでは様々な人を出会った。目的地が同じであれば一緒に行動したりもしたし、だれもが貧乏旅行者だったので、折半してホテルやモーテルに泊まったりもした。
まずは、ジャズ。ロサンゼルスで知り合った人の中に、たまたま同じ明治大学の法学部、しかも同じ学年の男がいた。彼は、アメリカで本場のジャズを聴くことを目的としていた。ジャズのジャの字も知らなかった僕に、彼はいろいろなことを教えてくれたし、ニューヨークで再び合うをことを約束して一度別れ、再会したニューヨークでは様々なジャズクラブに連れて行ってくれた。日本に帰ってきてからも、彼はいろいろなジャズを聴かせてくれて、気に入ったCDはいくらでも貸してくれた。
実は、ジャズのことは余談。
僕の後の音楽的指向を決定付けたのが、アメリカに留学をしていた先輩宅を訪ねたときだった。
とにかく長距離バスで最寄りのターミナルまで行ったのだが、そこはシカゴから約2時間も離れた田舎町だった。
先輩はターミナルまでクルマで迎えに来てくれた。そのクルマで流れていたのがビートルズだったのだ。
それまで、僕はビートルズというバンドにあまりいい印象を持っていなかった。その理由は単純で、中学生のときに英語の授業で歌わされたからだった。浅はかな中学生は、学校で歌わされるようなものは格好悪いものと単純に思っただけのことだった。以来、ビートルズに触れることはなかったのだった。
ロンドンでもましてやリバプールでもない、ビートルズとは縁もゆかりもないないイリノイ州の田舎町で聴いたビートルズに僕は衝撃を受けた。窓の外を流れる風景とビートルズがまだライブをやっていた頃のロックンロールが妙にマッチして聞こえて来たのだった。僕はすぐに虜になった。
日本に帰ってすぐにビートルズのCDを購入した。確か最初に買ったのは「For SALE」(今思うと渋いとこから買ったなと思う)。インターネットなどなかった時代、様々な本を購入してビートルズについて調べまくり、ビートルズのCDに入っていたライナーノーツは隅から隅まで読んだ。そんなときだった。あれは多分「サージャント・ペッパーズ……」のライナーノーツだったと思う。その中にポールの発言が引用されていた。
「世界で一番素晴らしい曲はビーチボーイズの『神のみぞ知る(God Only Knows』だ……」
これを読んだ僕は、すぐに「Pet Sounds」を買いに走った。
そして1曲め「Wouldn't be nice」のイントロを聴いただけで、その虜になった。聴き終えたとき、滅多に泣くことのない僕の涙腺が緩んでいた。
そこから僕はひたすらにビーチボーイズを買いまくり、聴きまくった。そしてビーチ・ボーイズの本を読み、ブライアン・ウィルソンの自伝(とされているもの)を読み、ますます傾倒していった。幻のアルバムと言われた「Smile」のブートレグも買い集めたくらいだ。
また、音楽関連の書籍でその同時代のバンドを調べては(まあ、ジャケットのデザインを見ればだいたい分かるのだけれど)、買って聴きまくった。いいも悪いもたくさんあったけれど、10ccの「サウンドトラック」は今でもたまに無性に聴きたくなる。
バブルもすっかり弾け飛び、時代のキーワードに癒しが急上昇してきた時代、90年代半ばくらいだったと思う。
僕はブラジル音楽と出会う。アントニオ・カルロス・ジョビンを聴いたと言えばちょっと格好がつくけれど、残念ながら小野リサを通して知ったのだった。僕は急激にブラジル音楽へと傾倒していった。名盤と言われるものはもちろん、すでに社会人としてジャケ買いや大人買いの出来るようになっていた僕は、ブラジルと名がつくものを片っ端から聴いて回った。(ビーチ・ボーイズに関しては、僕の中で不動のものとなっていたので、これを聴きながら……)
そして、今もまだブラジル音楽好きは変わっていない。
そして、今でも「Pet Sounds」や正式に発売された「Smile」を聴くと胸がジーンとしてくる。
10年ほど前だったろうか、ブライアン・ウィルソンがソロでツアーを始め、日本公演をしたとき、銀座のHMVで行われたサイン会にはもちろん行ったし、そこで握手をしてもらったときは、感動と緊張でヒザがガクガクしたことを今でも覚えている。そしてコンサートで歌っているブライアンの姿を見たときは涙が出て来た。
なぜなら、二度と復帰はないだろうと思っていたから。アルバムを出しても、ツアーなどしないだろうと思っていたから。往年の声が出なくても、やっぱりブライアンがそこにいるというだけで、僕にはそれで十分だった。
僕は雑誌の編集をしていたので、世界のさまざまな偉大とも言える人たちに会って来た。自分が好きなミュージシャン。映画監督、俳優、アーティスト(美術家)、建築家、デザイナー……。
でも、あれほどまでに緊張し、声すら出なかったのは後にも先にもブライアン・ウィルソンだけだ。
クラシックのこと、今勉強している(自分が習っている)沖縄民謡のことまで書くとあまりにも長くなりすぎるので、これはまた気が向いたときに書こうかと思う。
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