昨日、「カラカラ」を観た。
沖縄で観た方が安く観られるのに、なぜか東京で観たくなったのだ。
たまたま、友人から誘われたということもあるのだが、
何となく、東京で観ることに意味があるような気がしたのだ。
そして、東京で観たことはある意味正解であった。
映画というものに関して、気づくことがあったのだ。
「カラカラ」は言ってみれば、典型的なロードムービーだ。
ロードムービーとは、主人公が移動をしていくことによって、人と出合い、場所と出合い、
その繰り返しの中から主人公が何かを見つけたたり、失ったり……そんな物語だ。
人が移動し続ける理由の多くは、自分の居場所を探すことだったり、常に非日常を生きて行きたいという欲求からくるもの。
つまり、ロードムービーとは非日常を生き続けようとする人の物語とも言えるのだ。
「カラカラ」では、フランス系カナダ人が初めての東洋体験として沖縄を選んでやってきた。
彼は沖縄の欧米人の持つ東洋イメージを求めてやってきたのだ。
そして、彼はそのイメージを求めて沖縄を旅していく。
そんな中で工藤夕貴演じる主婦と出合い、共に旅していくのだ。
映画は某有名リゾートホテルのシーンから始まる。
そこは彼が求めていた東洋イメージではないが、しかし非日常ではあった。
そもそもリゾートホテルとは非日常を楽しむ場所。
彼の旅=移動はホテルをチェックアウトしたところから始まるのだ。
次のシーン、僕は映画という非日常の中に入り込んでいたのが、急に現実に引き戻された。
なぜなら、スクリーンに映しだされたものは、僕の生活の場、つまり家の近所のいつも歩いているところだったのだ。
僕の住んでいる場所の近辺でのシーンが20分ほど続いたか。
自分の徒歩圏内の生活の場、つい先週歩いていた場所を東京でスクリーンを通して観るというのは何か不思議な感覚だった。
そして、僕が感じたのは、僕がこれまでずっとロードムービーを移動していく側の立場でしか観ていなかったのだということだ。
移動する主人公にとっては非日常でも、主人公と出合う側は常に日常の中にいるのだ。
僕は「カラカラ」を観ていて、日常の中にいるような感覚を覚えたのだ。
つまり、主人公と出合う側の立場で映画に接したのだ。
これは実に稀な経験だったと思う。
しかも、それが東京という場所で観たからこそ、そのギャップが大きかったのだ。
そして思い出したのが、もう随分古い映画になってしまったが、
「バクダットカフェ」という映画。
この映画は常に日常を生きている人が、非日常を求めて通り過ぎていく人たちと接していく物語だった。
おそらく、それが新鮮だったからあれだけ大ヒットしたのだろう。
最後に「カラカラ」についてもうひとつ。
脚本の細部がちょっと甘い気がした。わざとそうしているのは分かるのだが、もう少し細かい部分を描いた方がよりいい映画になったのではないかという気がした。
あとひとつだけ。工藤夕貴の演技はなかなかよかった。
沖縄で観た方が安く観られるのに、なぜか東京で観たくなったのだ。
たまたま、友人から誘われたということもあるのだが、
何となく、東京で観ることに意味があるような気がしたのだ。
そして、東京で観たことはある意味正解であった。
映画というものに関して、気づくことがあったのだ。
「カラカラ」は言ってみれば、典型的なロードムービーだ。
ロードムービーとは、主人公が移動をしていくことによって、人と出合い、場所と出合い、
その繰り返しの中から主人公が何かを見つけたたり、失ったり……そんな物語だ。
人が移動し続ける理由の多くは、自分の居場所を探すことだったり、常に非日常を生きて行きたいという欲求からくるもの。
つまり、ロードムービーとは非日常を生き続けようとする人の物語とも言えるのだ。
「カラカラ」では、フランス系カナダ人が初めての東洋体験として沖縄を選んでやってきた。
彼は沖縄の欧米人の持つ東洋イメージを求めてやってきたのだ。
そして、彼はそのイメージを求めて沖縄を旅していく。
そんな中で工藤夕貴演じる主婦と出合い、共に旅していくのだ。
映画は某有名リゾートホテルのシーンから始まる。
そこは彼が求めていた東洋イメージではないが、しかし非日常ではあった。
そもそもリゾートホテルとは非日常を楽しむ場所。
彼の旅=移動はホテルをチェックアウトしたところから始まるのだ。
次のシーン、僕は映画という非日常の中に入り込んでいたのが、急に現実に引き戻された。
なぜなら、スクリーンに映しだされたものは、僕の生活の場、つまり家の近所のいつも歩いているところだったのだ。
僕の住んでいる場所の近辺でのシーンが20分ほど続いたか。
自分の徒歩圏内の生活の場、つい先週歩いていた場所を東京でスクリーンを通して観るというのは何か不思議な感覚だった。
そして、僕が感じたのは、僕がこれまでずっとロードムービーを移動していく側の立場でしか観ていなかったのだということだ。
移動する主人公にとっては非日常でも、主人公と出合う側は常に日常の中にいるのだ。
僕は「カラカラ」を観ていて、日常の中にいるような感覚を覚えたのだ。
つまり、主人公と出合う側の立場で映画に接したのだ。
これは実に稀な経験だったと思う。
しかも、それが東京という場所で観たからこそ、そのギャップが大きかったのだ。
そして思い出したのが、もう随分古い映画になってしまったが、
「バクダットカフェ」という映画。
この映画は常に日常を生きている人が、非日常を求めて通り過ぎていく人たちと接していく物語だった。
おそらく、それが新鮮だったからあれだけ大ヒットしたのだろう。
最後に「カラカラ」についてもうひとつ。
脚本の細部がちょっと甘い気がした。わざとそうしているのは分かるのだが、もう少し細かい部分を描いた方がよりいい映画になったのではないかという気がした。
あとひとつだけ。工藤夕貴の演技はなかなかよかった。
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