この映画はある真実の一面を間違いなく伝えている。
原発事故が引き起こすであろうと想像しうることが、実際に起こったという事実を。
そのことを確認するためと考えると3000円という金額は妥当だとも、そうではないとも言える。
長い時間をかけて取材した二人の監督の根気強さには敬服する。
福島県が抱えている大きな問題を少しでも共有すべきなのは当然で、この映画はその手助けをしてくれる。
その点で、機会があったらぜひにと思う。
ただ、ドキュメンタリー映画として見た場合、僕の中のドキュメンタリーの基準からはかけ離れている。
僕は、ドキュメンタリーの作り手は取材対象から出来る限り距離をおくべきだと思っているからだ。
取材対象から距離をおくのはとても難しい。
距離を縮めないと、人は語ってくれない。
それでも、距離を取るべきなのだ。
距離の取り方というのはいくらでもあって、その最たるものが編集という作業だ。
テレビでも、映画でも、新聞でも、雑誌でも、編集次第ですべてが変わる。
時に、そこに悪意が入ることがあるので、危険な作業なのだが、だがらこそ編集という作業が大切なのだ。
この映画が僕の中のドキュメンタリーの基準からはかけ離れているというのは、まさにその点にある。
長い期間をかけての取材はその対象と長く過ごすので、当然対象との距離は近くなる。
それは仕方ないことだと思う。
でも、この映画では近くで記録しているというより、寄り添ってカメラを回しているという印象が強い。
寄り添うことが悪いというわけではない。
それが被災者たちにとって何らかの手助けになっているのだろうから。
でも、それはドキュメンタリーとは言わないと思う。
これは、二人の監督たちと取材対象となった被災者たちが作り上げた映画作品である。
そう考えると、これはとてもいい作品だ。
監督たちの意図は間違いなく観客に伝わっているし、ストーリーとしても素晴らしい。
批判を浴びる覚悟でいうけれど、やっぱりストーリーなのだ。
未だに復興はほど遠いけれど、人々が自力で立ち上がろうとするストーリー。
それが現実にあった、という映画なのだと思う。
一応もう一度言っておくけれど、僕は否定しているわけではない。
ドキュメンタリー映画としては違和感を感じるのだ。
原発事故が引き起こすであろうと想像しうることが、実際に起こったという事実を。
そのことを確認するためと考えると3000円という金額は妥当だとも、そうではないとも言える。
長い時間をかけて取材した二人の監督の根気強さには敬服する。
福島県が抱えている大きな問題を少しでも共有すべきなのは当然で、この映画はその手助けをしてくれる。
その点で、機会があったらぜひにと思う。
ただ、ドキュメンタリー映画として見た場合、僕の中のドキュメンタリーの基準からはかけ離れている。
僕は、ドキュメンタリーの作り手は取材対象から出来る限り距離をおくべきだと思っているからだ。
取材対象から距離をおくのはとても難しい。
距離を縮めないと、人は語ってくれない。
それでも、距離を取るべきなのだ。
距離の取り方というのはいくらでもあって、その最たるものが編集という作業だ。
テレビでも、映画でも、新聞でも、雑誌でも、編集次第ですべてが変わる。
時に、そこに悪意が入ることがあるので、危険な作業なのだが、だがらこそ編集という作業が大切なのだ。
この映画が僕の中のドキュメンタリーの基準からはかけ離れているというのは、まさにその点にある。
長い期間をかけての取材はその対象と長く過ごすので、当然対象との距離は近くなる。
それは仕方ないことだと思う。
でも、この映画では近くで記録しているというより、寄り添ってカメラを回しているという印象が強い。
寄り添うことが悪いというわけではない。
それが被災者たちにとって何らかの手助けになっているのだろうから。
でも、それはドキュメンタリーとは言わないと思う。
これは、二人の監督たちと取材対象となった被災者たちが作り上げた映画作品である。
そう考えると、これはとてもいい作品だ。
監督たちの意図は間違いなく観客に伝わっているし、ストーリーとしても素晴らしい。
批判を浴びる覚悟でいうけれど、やっぱりストーリーなのだ。
未だに復興はほど遠いけれど、人々が自力で立ち上がろうとするストーリー。
それが現実にあった、という映画なのだと思う。
一応もう一度言っておくけれど、僕は否定しているわけではない。
ドキュメンタリー映画としては違和感を感じるのだ。
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