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ぱんくず迷走録

日曜日は教会へ。

あわわわ・・・

2010-04-29 08:37:00 | メノナイト
例年では教会仲間が助手席に、私は後部座席に座っていたが
今回は教会仲間が後ろに座ったので必然的に私が助手席。


スリリングな日帰り旅だぜ!(((;。∀゜)b-♪
生きた心地がしませんってこの滝のような雨!


何せ雨の降り方が半端ではないんだよ雨粒もでかいし、
対向車がとととんでもない水しぶきを・・・ドバァっ!と・・・
フロントガラスにぶっ掛けやがっ・・・いえ擦れ違うので
一瞬視界が全面真っ白で何も見えないしっ!
それに路面が雨でめっちゃ滑るしっ・・・・冷や汗や・・。


あわわわわ・・・(-人-)・・・・・もう祈るしかないわ主よ守り給え。

あーあ。

2010-04-29 07:17:00 | メノナイト
ひどい天気だなぁ。


出来上がった教会月報は
牧師先生にメールで送り、
珍しく誤入力が無くて訂正の時間も要らず、
牧師先生は早速印刷したらしい。
朝の6時だよ。
大変なご苦労である。


今、教会仲間の車でまず教会へ。

天気荒れ荒れや。

2010-04-29 03:46:00 | メノナイト
どんよりして夕方早々に睡沈したら
2時過ぎに目が覚めた。


天気予報は盛り沢山であるよ。
強風、波浪、雷、雪崩、濃霧注意報で
雨または雪が非常に強く降るのだそうだ。
海は波の高さが6メートルだと。
津波同様ではないの。


今日はこれから
牧師先生と教会仲間達と一緒に車で協議会総会出席のため帯広へ。
妖怪大会に行くんだよ。
まる一日がかりの迷走会議。


そして今夜帰宅したら
土曜日の朝祷会でするメッセージ奉仕の準備をしないと。
 ↑
(追記:2010.5.1.
 実はこの記事を書いた時、
 眠気とヘルパーの件で相当頭をやられていたらしい。
 朝祷会のメッセージ奉仕を自分がしなければならないものと
 完全に思い込み、勘違いして焦っていた。あほ。w
 しかし帯広に向かう途中、別の教会仲間が指摘してくれて
 自分の勘違と気づいた。爆笑www)


木曜の今日の夜のうちにやらないと
明日金曜日はじじ宅のヘルパー退職以降の
シフトがどうなるのか
今後の事をまずケアマネと、
次にヘルパー派遣の事業所の責任者と
相談しなければならない。


土曜日は朝祷会。
遅くともこの日の朝には
来月の教会月報を完成させて
牧師先生に送らねば。


さて、教会月報を作るか。


帯広行きのため
7:30に教会仲間と待ち合わせだし。


出発前に完成させて牧師先生に送ってしまえば
戻ってから慌てずに済む。

聖餐について

2010-03-29 18:52:00 | メノナイト
先日、この日記の聖餐式に関する記事について
私の所属する教会に匿名の批判電話がかかってきた事をきっかけに、
聖餐に対する自分の所属する教会の解釈、考え方を再度学び直し、
整理してまとめようと思った。


私の所属する教会は
メノナイトという教派のアメリカ人宣教師が
終戦後日本国内で宣教活動をして実を結び、育てられ、
今現在に至るまで生き延びて来た、メノナイト教会である。




メノナイトの源流は、
16世紀スイスの宗教改革時代の
ツヴィングリ(Huldrych Zwingli 1484~ 1531)の弟子達から分派した
再洗礼派(アナバプテスト)である。


アナバプティズム運動の創始者として群れの中心にいた
コンラッド・グレーベル(Conrad Grebel 1498~1526)とその仲間達の主張のうち、
聖餐に関わるものを挙げてみた。
16世紀の宗教改革時代当時の社会背景を考えると
かなり過激な内容であると私は思う。


“神が聖なる方であり、それゆえに人もまた
 聖なる者とならねばならないという時の、その聖とは何か”
という問いについて。


1.「聖なる言葉」というものは無い。

 聖なる事、神聖は、
 特別な言葉、事物、場所、人物、また特別な日と結び付くのではない。
 主の晩餐で言葉は用いられるが、その言葉は
 福音書またはⅠコリントの主の晩餐の箇所からのみ用いられるべきである。
 司祭の唱える特別な言葉がパンと葡萄酒をイエスの肉と血に変化させる事は無く、
 言葉は聖なるものを作り出さない。
 聖餐の言葉はその執行を正統なものとして制定する役割をしている。


2.「聖なる物」は無い。

 パンはパン以外の何物でもない。
 司祭が事前に聖別した特別なパンや聖杯ではなく、
 聖餐には普通のパンを用いるべきであり、
 杯も飲み物のための普通の杯が用いられるべきである。


3.「聖なる場所」というものは無い。

 聖餐は“神殿”で執り行われてはならない。

 (この主張にはちょっと疑問を感じたが、
  キリスト教が国家権力となって、
  信仰告白が剣と力で強制された時から聖堂という建造物が造られた、
  そんな場所で聖餐式をするなという意味の主張らしい。
  なるほど、確かに信仰告白というものは
  誰かに強制されて出来るものではないからね。
 16世紀の時代ならではだな。)

 グレーベル達は主の晩餐を彼らの家庭で執り行っていたらしい。
 彼らによれば聖餐は交わりのための食事であり、
 しばしば行なうべきであるという事である。


4.「聖なる人」というものは無い。

 会衆の中から出る奉仕者が制定の言葉を述べるべきであり、
 司祭服や祭服無しで行なわれるべきである。

 主の晩餐を一人で受けてはならない。

 (これは、葡萄酒がキリストの貴い血に変化すると信じられていたので
  万一にもこぼれる事の無いように、
  聖杯に注がれた葡萄酒を飲むのは特別に聖別された人間である司祭だけで、
  一般の信徒が飲む事は許されなかった事情を指している。)

 グレーベル達は一人の人を他の人よりも聖なる者とする事に反対し、
 聖なる事については人と人との間に差は存在しないと主張する。
 誰でもキリストに付く者は聖徒であり、
 世を去ってキリストと共にいる者は皆、祝福を受けた者と呼ばれる。

 つまり聖餐については
 誰でもキリストへの信仰故に聖徒であるため、
 会衆の同意を得た者は誰でも主の晩餐を執行する事が出来ると解釈する。


5.「聖なる時」というものは無い。

 ピルグラム・マーベルクはスイスのアナバプテストの中に、
 日曜日には身体を使う仕事を一切すべきでないという人が出た時、
 キリストは弟子達を「時」の拘束から自由にしたと反論したと論じた。
 同様に「聖人の日」についても、やめるべきだと主張した。
 ある特別な人と関連がある日だからと言ってその日を特別扱いするのは
 「時の暴力に支配されるのを許すことだ」と言い、
 他のアナバプテスト達も同様の主張をした。


16世紀オランダのアナバプテスト運動第二世代の指導者、
メノ・シモンズ(Menno Simons 1496~1561)は
1524年にカトリックの聖職者に任ぜられ、司祭職にあったが、
化体説(ミサのパンと葡萄酒がキリストの肉と血に変わるという奇跡)に
疑問を持って自ら聖書を調べ、
聖書には幼児洗礼の根拠となる記述が無いと確信するに至り、
1536年にカトリック教会から離れた。

カトリック、プロテスタント双方から迫害され、
拷問、火炙りや溺水による虐殺で失望し、意気消沈したアナバプテスト達を
再び結集して説教し、訓戒し、討論を導き、論文を書いて、
アナバプテスト運動の地固め、組織整備をし、霊的指導を与えたのが
このメノ・シモンズである。
(私の所属教会の「メノナイト」は、彼の名前に由来する。)
カトリック、プロテスタント双方から追われ、
彼の首には懸賞金が懸けられていたにも拘わらず、
メノ・シモンズは生涯官憲の目を逃れて宣教を続けた。
数多くの書物を書き、
大勢のアナバプテスト指導者達が若年で惨殺された時代にしては珍しく
65歳まで生き延びて、死んだ。


    参考文献  『もう一つの宗教改革-アナバプテストの生きた道-』
            (W.クラーセン著/野村竹二訳 シャローム出版1992)

          『メノナイト入門 
            M.ギンゲリッチ著「新約聖書による教会」の学びから』
            (日本メノナイト白石キリスト教会1984)






先日匿名の電話の主から
「○○教会(某プロテスタント教会)では聖餐式はこのようにしていますが、
 おたくの教会ではとんでもない聖餐式の仕方をしているそうですが」と
抗議を受けたように、
私達の教会では主の晩餐を「聖体拝領」ではなく、
「主にある交わりの食事」と解釈して行なっている。
その歴史はコンラッド・グレーベルやメノ・シモンズの時代にまで遡り、
宣教師の指導を受けて今の聖餐式の方法を執行している。


従って、
一人の人を他の人よりも聖なる者とする事は無く、
全員が等しく分餐の言葉を告げて隣の人に渡し、
全員が等しく杯に与る。
原則的に進行役を誰が執り行っても問題は無い。


正直、毎月聖餐に与る度に緊張し、ドキドキする。
隣に座った仲間から盆を手渡され分餐の言葉を告げられる時。


「井上さん、
 これは、あなたのために裂かれたキリストの体です。」


「井上さん、
 この杯は、キリストの血による新しい契約です。」


自分のために裂かれたキリストの体であると告げ、渡されるパン、
自分のために流されたキリストの血による新しい契約の杯、
手に取っただけで緊張する。
しかし受け取ったら今度は自分が次の人に盆を渡し、
自分も分餐の言葉を告げなければならない。
告げる言葉に舌を噛みそうになる。
自分のために裂かれ流されたキリストの体と血を意識してガチガチ。
普段はいい加減なのにこの時だけは真剣である。


このようにして私達の教会では毎月聖餐式を行なっているが、
教派や教会によって特色があり、歴史的背景も、聖書解釈も違うので、
お互いに違って当然と私は考え、
ブログで紹介すると同時にmixiでも紹介してみたが、
ブログ記事だと誰も書き込みしないがmixiには
カトリック、プロテスタント双方のミク友さん達からコメントを幾つか頂いた。
いずれも好意的というか、珍しい、新鮮な感じ、といった感想から
分餐の言葉と渡し方以外はほぼ同じ、というコメントもあった。


また、私は
ご近所のカトリック教会に一人で黙想しに行って、
主任司祭の方と立ち話をした時に、
私達それぞれの教会の何処が同じで何処が違うかについて、
直接話し合った事がある。
主任司祭の方は
カトリックとメノナイトの決定的な違いは化体説にあると言っていた。
私もその通りだと思う。


しかし、私個人としては
化体説、いわゆる聖変化、聖体拝領に対して批判的な思いは全く無い。
ブログなどでカトリック信徒の方が御聖体を頂くという事について
記事を書いているのを読んで、
キリストの御体を頂き、自分の中にキリストを迎え入れる、
そして自分の中で、自分を通してキリストが働かれる、
という感覚は理解出来る。
私は聖体を拝領しないがその文章を読む事で共感する事が出来る。


  神様は人の手を通して恵みを下さいます。
  この意味で、私達は神の手足というのです。
  私は神の手足です。
  今日、人に何をあげようか。
              (ペテロ神父)


500年前、『殉教者の鑑』の当時には
拷問火炙りで弾圧する側とされる側だったらしいが
今現時点では私達はどの教派からも拷問も火炙りにもされないし、
懸賞金付きで追い回されてもいない。
いや、むしろ対話を通じて恵みをたくさん頂いた。
(本を貸して下さったり、
夏には鉢植えのスナップえんどうの収穫まで御馳走になった。)


各教派が全世界からこの国にキリスト教をもたらす過程で、
色々の苦難を乗り越えて歴史的文化的な副産物も一緒に
この東の地の果ての国に持ち込み、それぞれの教派の特色になっていて、
それが私には宝の箱のように魅力的であり、面白い。

今日、聖餐式だった。(3/27追記・編集あり)

2010-03-21 15:26:00 | メノナイト
(この記事は当初携帯から長文投稿したため編集が不十分でした。
 読み難くなっていた箇所を改めてPCで編集し直し、追記も書き加えました。
                             3/27 管理人)


いつものように聖餐式が始まった。
一ヵ月はあっという間だ。


私達の教会で行っている聖餐式の在り方を
先月私はこの日記に書いて紹介した。
その記事に対しては
誰からも直接的なコメントなど寄せられていないが、
この日記を読んだという実名を名乗らない人物から牧師宅に
一本の電話が寄せられた事を今日聞いた。


電話の話は批判的な内容だったそうで、
記事を書いた本人である私にはコメントで直接には批判せずに
匿名で教会に電話という手段を選び、
市内に現存する或る特定のプロテスタント他教派の教会名を
引き合いに出して抗議していたと聞く。
「○○教会では聖餐式はこのようにしていますが、
 おたくの教会ではとんでもない聖餐式の仕方をしているそうですが」と。


電話して来られた方にとって
とんでもなく許し難い聖餐式の在り方だそうであるが、
何処がとんでもないかというと、電話の相手によれば
聖餐というものは然るべき権威によって立てられた祭司や教職者の手を
通して信徒一人一人に渡されるのでなければ正統な聖餐とは認められないという。
そのような解釈だそうで、私の所属する教会の聖餐式のやり方は
その電話の主の価値基準から著しく逸脱した事をやっていると
言いたかったらしい。


違う教派のやり方を引き合いに出されて
やり方が違ってるとかとんでもないと批判されたところで、
「あーそうですか。違うんですね」
としか言い様が無い。
私達は自分達の考え方を他教派の誰にも強要してはいない。
それにわざわざ電話を頂かなくても
他教派で聖餐をどのように解釈しどのように行っているか、私達は知っている。


ともあれ、
私達が今の聖餐式のやり方を教会で導入したのは
私達の教派の宣教師の指導によるものである。
そこには聖餐式をそのような方法で執り行うようになった歴史的背景と
聖書理解がある。


改めて私の所属する教会の聖餐式を紹介させて頂く。


(この聖餐式のあり方の起源や歴史的背景と聖餐に対する解釈などは
 別の記事として後日アップする機会が与えられると思う。)




全員着席する。
(私達の教会では、牧師先生が進行役を務める。)


賛美歌を歌う。
(聖餐式の賛美歌。今日は賛美歌21の78だった。)


  我が主よ、ここに集い
  親しく御顔仰ぎ、
  我が全て主に委ね
  御恵みを待ち望む。


  主の糧、共に食し
  杯、共に受けて
  我が心清められ
  深き罪、贖わる。


  我が主よ、主の他には
  助けも望みも無し
  ただ主こそ我が力、
  祈りつつ求め行かん。

  我が罪、我が思いを
  潔めし主の血潮よ。
  主の正義身に纏い
  恐れなく進み行かん。

進行役(牧師)、祈りを捧げる。


聖書を朗読する。
(今日はⅠコリント11;23~29だった。)


進行役(牧師)が
銀盆のパンを人数分に裂き、
盆ごと隣の人に渡し、
自分の分を取らずに分餐の言葉を告げる。


 「○○○○さん、
  これは、
  あなたのために裂かれたキリストの体です。」


盆を受け取った人は
感謝して自分のパン一切れを取り、
同じく分餐の言葉を告げて隣の人に渡す。
盆を渡された人は自分の一切れを取り、
同じように分餐の言葉を告げて
隣の人に銀盆を渡す。
こうして銀盆は一巡し、
一番最後に牧師(進行役)の所に銀盆が回って来る。
牧師(進行役)に銀盆を渡す人は
牧師にも「先生」ではなく
他の教会員と同じくフルネームで
「○○○○さん、・・これは・・・」と呼び、
分餐の言葉を告げて銀盆を渡す。


たまたま今日も私はじじの隣に座っていた。
分餐の言葉を告げてパンを一切れ渡した。


 「井上○○さん、
  これは、
  あなたのために裂かれたキリストの体です。」


じじは私から銀盆を受け取り、
隣の教会仲間に分餐の言葉を告げてパンを一切れ渡した。


 「○○○○さん、
  これは、
  あなたのために裂かれたキリストの体です。」


盆が一巡して牧師(進行役)の手に戻った。


感謝して、
一同、パンを食べる。


次に、
牧師(進行役)が
銀盆に杯を人数分乗せて
盆ごと隣の席の人に渡し、
分餐の言葉を告げる。


 「○○○○さん、
  この杯は、
  キリストの血による新しい契約です。」


盆を受け取った人は
感謝して自分の分の杯を一つ取り、
次の人に同じく分餐の言葉を告げて渡す。
盆を渡された人は自分の杯を一つ取り、
同じように分餐の言葉を告げて
次の人に銀盆を渡す。
こうして銀盆は一巡し、
一番最後に牧師(進行役)の所に銀盆が回って来る。
牧師(進行役)に銀盆を渡す人は
牧師にも「先生」ではなく
他の教会員と同じくフルネームで「○○○○さん」と呼び、
「・・この杯は・・・」と分餐の言葉を告げて銀盆を渡す。


私は
隣にいるじじに分餐の言葉を告げて杯を渡した。


 「井上○○さん、
  この杯は、
  キリストの血による新しい契約です。」


じじは杯を受け、私から銀盆を受け取り、
隣の教会仲間に分餐の言葉を告げて杯を渡した。


 「○○○○さん、
  この杯は、
  キリストの血による新しい契約です。」


盆が一巡して牧師(進行役)の手に戻った。


感謝して、
一同、葡萄の汁を飲む。


牧師(進行役)は
教会員の一人または数人を指名し、
指名された人は聖餐感謝の祈りを捧げる。


賛美歌を歌う。
(聖餐式の賛美歌。始めに歌ったのと同じ賛美歌。)


黙祷。




今日もじじはカンニングペーパーを見る事無く
すらすらと分餐の言葉を告げ、
隣の教会仲間にパンと杯の銀盆を渡していた。 (ほっ=3)




2ヶ月連続で自分の教会の聖餐式を
この日記で紹介する事になるとは思っていなかった。


電話口で自ら名乗りもせず
所属教会の名前も直接出さず匿名で批判してくる人物からの批判については、
物陰から他教派に難癖を付けて掻き回したがるような、
顧みるに値しない愚劣な中傷と解釈して黙殺するのも可能である。
身分や所在を明らかにしない以上は顧みる価値は無い。
そもそも匿名の電話の主が「○○教会では聖餐式はこのようにしていますが、」
と言って引き合いに出した当の○○教会に本当に所属しているかどうか怪しい。
名乗らない以上は全くの無関係である可能性の方が高い。
引き合いに出された教派の教会も迷惑するであろう。
或いは何処かの教派の教会でトラブルを起こしたか躓いたか、
後足で教会に砂をかけて飛び出した誰かがネット徘徊の末にこの日記を読み、
自分の元いた教会とやり方が違うと言いたかっただけとも考えられる。


今の現時点で自分の所属教会にしっかり定着し、
自分の信仰生活の拠り所としている人はこんな匿名電話をして来ない。
信仰生活の基盤が揺ぎ無く、忠実に所属教会で奉仕する信仰者には
他の教会それも他教派の教会にちょっかいを出す動機など有り得ない。


しかし
この私の日記にせっかく注目して、ご丁寧に電話まで下さったのだから
むしろ謙虚に喜んで歓迎すべきと私は思う。
注目して下さって感謝である。
何故なら私がこの日記に信仰について、聖書について、教会について、
キリスト教絡みの記事を幾ら書いたところで、
誰からもコメントなど書き込まれないのが常だからである。


そういう訳で、電話を下さった匿名の方。
文末で恐縮ですが、
読んで下さってありがとうございました。
次回電話を下さる時はお名前と所属教会を明らかにして下されば幸いです。

聖餐式

2010-02-21 13:20:00 | メノナイト
聖餐式の準備が出来ていた。
食器洗いもそこそこに、急いで席に着くと、
私の隣にじじがいた。
じじの隣はハヤシライスを作ってくれた教会仲間だった。


いつものように聖餐式が始まった。


全員が着席する。
(私達の教会では場合、牧師先生が進行役を務める。)


賛美歌を歌う。
(聖餐式の賛美歌。今日は賛美歌21の79だった。)


  御前に我等集い、共に分かつ御糧を、
  世の光なる主の言葉以て祝し給え。


  御招きに応えつつ、与る杯をも、
  世の光なる主の言葉以て祝し給え。


  御業を讃え歌い、御前に集う民を、
  世の光なる主の言葉以て祝し給え。


進行役(牧師)、祈りを捧げる。


聖書を朗読する。
(大抵は最後の晩餐の箇所であるが、今日はヘブライ9;11~15だった。)


進行役(牧師)が
銀盆のパンを人数分に裂き、
盆ごと隣の人に渡し、
自分の分を取らずに分餐の言葉を告げる。


 「○○○○さん、
  これは、
  あなたのために裂かれたキリストの体です。」


盆を受け取った人は
感謝して自分のパン一切れを取り、
同じく分餐の言葉を告げて隣の人に渡す。
盆を渡された人は自分の一切れを取り、
同じように分餐の言葉を告げて
隣の人に銀盆を渡す。
こうして銀盆は一巡し、
一番最後に牧師(進行役)の所に銀盆が回って来る。
牧師(進行役)に銀盆を渡す人は
牧師にも「先生」ではなく
他の教会員と同じくフルネームで
「○○○○さん、・・これは・・・」と呼び、
分餐の言葉を告げて銀盆を渡す。


今日、私は
隣にいるじじに分餐の言葉を告げて銀盆のパンを渡した。


 「井上○○さん、
  これは、
  あなたのために裂かれたキリストの体です。」


じじは私から銀盆を受け取り、
隣の教会仲間に分餐の言葉を告げて銀盆のパンを渡した。


感謝して、
一同、パンを食べる。


次に、
牧師(進行役)が
銀盆に杯を人数分乗せて
盆ごと隣の席の人に渡し、
分餐の言葉を告げる。


 「○○○○さん、
  この杯は、
  キリストの血による新しい契約です。」


盆を受け取った人は
感謝して自分の分の杯を一つ取り、
次の人に同じく分餐の言葉を告げて渡す。
盆を渡された人は自分の杯を一つ取り、
同じように分餐の言葉を告げて
次の人に銀盆を渡す。
こうして銀盆は一巡し、
一番最後に牧師(進行役)の所に銀盆が回って来る。
牧師(進行役)に銀盆を渡す人は
牧師にも「先生」ではなく
他の教会員と同じくフルネームで「○○○○さん」と呼び、
「・・この杯は・・・」と分餐の言葉を告げて銀盆を渡す。


私は
隣にいるじじに分餐の言葉を告げて銀盆の杯を渡した。


 「井上○○さん、
  この杯は、
  キリストの血による新しい契約です。」


じじは私から銀盆を受け取り、
隣の教会仲間に分餐の言葉を告げて銀盆の杯を渡した。


感謝して、
一同、葡萄の汁を飲む。


牧師(進行役)は
教会員の一人または数人を指名し、
指名された人は聖餐感謝の祈りを捧げる。


賛美歌を歌う。
(聖餐式の賛美歌。始めに歌ったのと同じ賛美歌。)


黙祷。




じじは、
私が手書きしたのと後からPCで印字したのと、
『分餐の言葉』のカンニングペーパーを2枚も、
お守りのように手近に開いて置いて聖餐式の席に着いていた。
しかし、実際じじはカンニングペーパーを見る事も無く
隣にいる教会仲間にパンと杯の分餐の言葉を告げ、
銀盆を渡していた。


そうか。
そうだよね。
洗礼式からもう2年経とうとしている。
じじはこの2年間ずっと、毎月欠かさず聖餐に与ってきたのだ。
何も見る必要も無くすらすらと
分餐の言葉を相手に告げる事が出来るのだ。


不意に、2年前のじじの洗礼式の直後、
じじにとって最初の聖餐式で牧師先生が言った事を思い出した。


 「井上さん、
  そうやって親子で聖餐に与る事は、
  僕にとって夢でした。
  母が元気な時に、僕もそうやって母と一緒に
  パンと杯に与りたかった。
  もう叶わない夢ですけどね。」


牧師先生は母上をその数年前に亡くされていた。
今日一緒に聖餐に与った、礼拝メッセージの奉仕をした教会員も
つい先月父上を天に見送ったばかりだ。
その事を思うと
神が私達父子に下さった恵みが如何に大きなものであるか
否応無しに気づかされる。

巻いている!

2009-08-29 12:52:00 | メノナイト
先生と呼ばれる人々の思考回路は
対象の物事が何であっても必要以上にややこしい。
黙って聞いていると話があらぬ方向へ進む。


教会でもそうであるよ。


以前、私の所属する教会の教派、年一回のメノナイト協議会の総会が
ある山奥の温泉旅館で開かれた。
私は総会の合間に
UFOキャッチャーをやって遊んでいた。

UFOキャッチャーと言っても地味なぬいぐるみの、
それもムーミン一家とその他無名の
よくわからない動物のぬいぐるみを何個か獲得した。


獲得したぬいぐるみを持って席に戻ったら、
近くの席に座っていたどこかの牧師先生と
聖書学に詳しいどこかの大学の先生とが
私の獲得したぬいぐるみに関心を示した。
二人は和気藹々と興味深そうにそれを手に持って
観察し、真顔で話し合っていた。


「これは・・・・何でしょう?σ(・"-)」


「何でしょうか・・・貝のようですが?(-"-)))」


「おお!ではこれはアンモナイト?(^・ロ・)r」


「ううむ・・いやオウム貝では?p(・"-)」


「ああなるほど、ここ、巻いてますね。(・・^)」


「そうです。巻いてます。(-"-)ч」


「ほほう・・・巻いている!(^・。・)=3」


「なるほど巻いている!p(-。・^)」


上下左右引っ繰り返して隅々まで観察してたよ。
UFOキャッチャーのぬいぐるみをね。
彼らはこの何だかわからない、
いい加減で適当に作られたぬいぐるみが
何という生物を表現したものであるかを
細部まで観察し分析しつつ、延々話し合っていた。
そのUFOキャッチャーのぬいぐるみ、
目に痛い蛍光オレンジ色と紫の縞々を
コロネパンのように巻き上げた円錐型の頭に
蛍光オレンジの体がくっ付いていて
タコみたいなぎょろ目があった。
多分、デザインした人は
宇宙から来た謎の生物を表現していたと思うんだけどね。
先生達の手にかかって古代の海洋生物に認定されていた。

2009総会

2009-05-02 23:59:00 | メノナイト
先月末の祝日に
自分の所属する教会教派の定例総会のため
帯広に行って
会議の席に座って
朝から夕方までずっと考えていた事がある。


或るブログ仲間の方が
少し前に更新した記事の中で偶然書かれた言葉。
その言葉を私は
会議の間ずっと繰り返し反芻していた。


 「剣を取って肉の戦いに勝つことよりも
  剣を納める人の霊の戦いに勝つという意味を
  キリスト者は考えないといけないですよね。」


昨年の総会が終わった時、正直こりごりだと思った。
今回の総会の最後に
「私達は優先順位を誤っていた」という言葉が聞かれた。
これは単なる総括なのか反省なのか、発言の意図は不明だが、
私もその通りだと思う。


土地と建物の問題に気の遠くなるような長い時間と労力を費やし、
人間関係という財産を犠牲にし、
私達の群れはこの数年間に何を得る事が出来ただろう。
何だかよく分からないな。
土地建物を生かすために人間が存在しているみたいではないか。
どうよ。そうなのか?

2009総会(帰) その12.

2009-04-30 06:49:00 | メノナイト
徒歩だろうと車だろうと
こういう場所で
もし何かあって動けなくなった時は
誰も来ないから
諦めるより他に仕方が無い。


ごみごみした港町で生まれ育った私は
こういう田園風景苦手だ。
この中では暮らせない。
暮らせないどころか
車でこうして通過するだけでも不安に陥り
一刻も早く帰りたくなっている。