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ぱんくず迷走録

日曜日は教会へ。

2月15日(金) その2.マルコ3;13~19

2008-02-15 22:20:47 | マルコ
イエスの12人の弟子について。


漁師。
シモン・ペトロとアンデレの兄弟。
ゼベダイの子ヤコブとヨハネの兄弟。


「お父さん、この人達は
 自分から師匠、弟子にして下さいさって
 志願して弟子入りしたんじゃないのさ。
 イエスの方から"おいで"とお呼びになったので
 彼らは付いて行ったのさ。
 自分の仕事か親とか雇い人とか
 それまでの自分の生活を横に置いて、
 イエスに付いて行った。」


「ほぉ。」


「これは大事な事なんだよ。
 私達の方から神様を選んだのではないって事さ。
 お父さんも、私も、
 自分の方からキリストを選んだのではないんだ。」


「・・・?」


「私達は神様から招かれて、
 呼ばれなければ付いて行く事は出来ないんだ。
 お父さんが教会に行くようになったのも、
 その後もずっと続けて教会に行く事が出来るのも、
 牧師先生や教会の皆から歓迎されて、
 ヘルパーさんに助けられて、
 毎週教会に行くために必要な
 全ての条件を整えて下さったのは神様だよ。
 お父さんや私の力ではないのさ。」


「そうか。」


「そうだよ。
 イエスがお呼びになった12人の弟子達は皆、
 特別に優れた才能があった訳でもなく
 招かれた時は立派な信仰者でもなかった。
 目立たない、貧しいそこいらの人だった。
 イエスはそういう平凡な一人一人を弟子として選んで
 "おいで"とお呼びになった。
 お父さんも私も、招かれたのは
 特別に優れているから招かれたのではないし
 才能があるからでもないし
 人格が立派な訳でもないし
 信仰的に優れている訳でも何でもないのさ。
 ただ神様が"おいで"とお呼びになった、
 そしてそれに気づいて付いて行ったんだよ。」


「ふぅん。」


「私達は
 呼ばれたら、自分の生活をその場に置いて
 イエスに従って付いて行くんだ。
 この弟子達もそうだった。
 キリストに従う人は皆そうやって
 自分のそれまでの生活を置いて付いて行くんだ。
 うちの教会の牧師先生もそうだったって。」


「ほぉ。」


「牧師先生は若い時に
 キリストを信じるようになって洗礼を受けて、
 さらに自分の人生を神と人々に捧げる決心をして
 牧師になるために
 それまで働いていた職業も辞める事を決めた時、
 親戚中から猛反対されたんだって。
 黙ってそのまま働いていれば
 生活に不安も無く老後に恩給もつくのに、
 安定した職を手放してまでキリストに付いて行く事は
 親族の人々からは簡単には理解されなかったと思うよ。」


「そうだな。
 そうだろうな。
 仕事を辞めるという事は大変な事だ。」


「それに牧師という仕事は苦労の多い仕事だからね。
 今の私達の教会の
 明るい、活気のある所しかお父さんは見てないから
 想像も付かないでしょう。
 これまでの牧師先生ご夫妻の
 目に見えない苦労と祈りの上に
 私達の教会は建てあげられている。
 牧師先生はイエス・キリストとずっと一緒に
 道のりを歩いて来られた。
 お父さんは毎週その教会に
 神様に招かれて行ってるんだよ。」


「それは知らなかった。」


「今度、牧師先生に話を聞いてみなよ。」


「うん。そうだな。」


じじ、
考え込んでいる。


「イエスはユーモアのある人だったと思わない?
 シモンにペトロってあだ名つけてた。
 ペトロは"岩"という意味だよ。
 きっと頑固だったのかも。
 ヤコブとヨハネの兄弟も"雷の子ら"って、
 きっと怒りっぽいとか荒っぽい性格だったのかもよ。」


「はは。
 面白いな。」


じじ、珈琲に砂糖入れ過ぎ。


12人の弟子達の、最後に出てくる名前。
イスカリオテのユダ。


「ああ、
 裏切り者のユダな。
 知ってる。聞いた事ある。」


「うん。
 確かにユダは律法学者達にイエスを銀貨30枚で売った。
 だけどね、
 イエスを裏切ったのは
 イスカリオテのユダだけじゃないんだよ。
 ここに出て来る12人全員がイエスを裏切った。
 最後の土壇場で、
 全員がイエスを見捨てて逃げたから。
 イエスを裏切ったのは皆同じでしょ。」


「そうだな。
 いざという時に逃げたら同じだ。」


じじ、また考え込んでいる。

2月15日(金) その1.マルコ3;1~12

2008-02-15 22:15:01 | マルコ
律法学者達との論争について。
「安息日に律法で許されているのは
 善を行うことか、悪を行うことか。
 命を救うことか、殺すことか。」


律法学者達の頑迷さに対するイエスの怒りについて。
じじはこの章を読んで思うところがいろいろある様子だ。


「日曜日だからって
 医者が俺は信者だから今日は急患が来ても
 診てやらないぞと言ってるのと同じだ。」


「そうそう。
 この時代の宗教的指導者だけの話ではないのさ。
 いつの時代になっても
 優先順位を間違える事ってあるよね。」


「そうだなぁ。」


「それほど当時の宗教的指導者達が
 神様本来の御心から離れてしまってたのさ。
 イエスはそこんとこに突っ込みを入れたので
 律法学者達にとって煙たい存在だった。
 それで命を狙われた。」


「似たような話は今の世の中でもあるなぁ。」


「人を救う筈の宗教が
 人を食い物にしてたんだから、
 そうだよね。
 でもこれは、キリスト教徒だって同じかそれ以上なのさ。
 キリスト教徒も歴史的にこれと同じどころか
 もっと酷い事をたくさんしてきた。
 中世の異端審問から今のイラク戦争に至るまで、
 私達キリスト教徒の立場は
 何一つ正当化したり反論したり出来ないんだよ。
 だから
 この福音書の中のユダヤ教指導者達を非難する資格は
 私達には無い、
 むしろこれは
 私達の事を言われていると思うんだよ。」


「うん。」


イエスはどんどん注目されて評判になり、
群集にもみくちゃにされないために小船に乗って
岸辺の群集に説教した。
それも律法学者達にとって目障りだったに違いない。


「皆、苦しい生活してたんだろうね。
 癒されたかったんだきっと。
 だからイエスの癒しが評判になったんだね。」


「そうだなぁ。」


「水の上の小船から群集に説教するなんて、
 斬新でしょ。」

「聞いたこともない話が次々出てくるなぁ。」

2月14日(木) マルコ2;1~28

2008-02-14 22:45:08 | マルコ
屋根を剥がして中風の人を釣り下ろす4人の男達の話。
4人が群集に阻まれてイエスに近寄れず、
そこで諦めてしまったらそれまで、
見方を変えて入り口がダメなら屋根剥がしてと、
自分達のものの見方を変えて
自分達から神に近寄ろうとする、
彼らの信仰によってこの中風の人の罪が許されると告げた。
律法学者達がイエスのする事にケチをつける。


同胞から税を取り立てる徴税人は忌み嫌われていた。
でもイエスは徴税人とも罪人とも一緒に食事を共にした。
ここでも律法学者達がイエスのする事にケチをつける。
じじ、感心している。


「医者を必要とするのは病人、
 全くその通りだな。」


「もっともだと思うでしょ。
 でも律法学者達にとっては戒律を守る事の方が
 最優先だった。」


「今の時代でもそういう事はある。」


断食問答の箇所。
ここでもイエスにケチをつけてきた律法学者達に対して
イエスは神と人との新しい約束、新しいあり方の到来を
布切れの譬、と葡萄酒・皮袋の譬を用いて語る。


「俺、この話知ってる。
 昔仕事で一緒だったHさんが言ってた。
 あの人はキリスト今日の人だった。
 おとなしい人だったな。」


Hさんは、
私が小学生の時に英語を習いに通っていた近所の
バプテスト教会の信徒だった。
存命だろうか。
もしまだ存命だったらかなりの高齢だと思う。


「もう30年以上も昔の話でしょ。
 その時どう思った?」


「別に、変わった話だなあと思っただけだ。」


「葡萄酒と皮袋の譬の話を
 キリスト教を知らない一般の人達に話してたの?
 難しい話してたんだね。」


意味はわからなくても
職場の先輩の言葉を通して
じじは何らかのインパクトを受けていたらしい。


安息日に弟子達が麦畑の穂を摘んで食べたのを
律法学者達はここでも戒律破りだとケチをつける。


「規則が大事か人間が大事かという話だな。
 こういう事は今の世の中でもよくある事だ。」


「イエスもイエスの弟子達もお腹空いてたんだよね。
 貧しかったからね。
 でも麦の穂を摘んで籾殻を落とすでしょ。
 それが脱穀という仕事に当たるのさ。
 安息日には仕事禁止だったから
 掟破りだとケチつけてきたんだよ。
 イエスはその律法学者に対して
 戒律を遵守するだけでは足りない、
 人を労わったり思いやったり憐れむ事の方が
 大事だと示してるんだよ。
 律法を守る事を否定はしないけど
 人を大切にする事を神様は望んでおられて、
 それが神様の心だって事さ。」


「安息日は人のために定められた。
 人が安息日のためにあるのではない。
 全くだ。
 人を大事にしないとダメだ。
 俺は昔な、・・・」


む・・・
じじのスイッチが入ってしまった。
しばらく昔の話が続いた。
じじ、
イエスの教えの一つ一つに頷きながら読み進んでいる。

2月13日(水) マルコ1;1~40

2008-02-13 23:01:37 | マルコ
冒頭に引用されているイザヤ40;3を一緒に読んで
じじに簡単に説明した。


「イスラエルの民族は
 大昔から近隣の大国から侵略され支配されていた。
 エジプト、バビロニア、アッシリア、ペルシャ、ローマ。
 人々はいつか"救い主"が現れて
 自分達を苦しい抑圧された生活から救ってくれる事を
 切実に待ち望んでいたのさ。」


「ほぉ。」


「キリストが生まれる何百年も前から
 神様の言葉は預言者を通して語られていた。
 イザヤは神の言葉を預かって語る預言者の一人。
 イザヤはその時代の独裁者マナセ王によって
 斬首刑で殺されたんだよ。
 マナセにとっては都合の悪い預言で邪魔だったのさ。」

「へぇ。」


「イザヤに預言された救い主がイエス・キリストであると
 私達は信じているんだよ。
 お父さんも洗礼式の時には
 イエス・キリストを救い主と信じますと告白して
 洗礼を受けるんだよ。」


「そうか。なるほど。」


実は数日前、
じじは私にこんな質問をしていた。


「洗礼を受けるには、いくら払えばいいのだ?」


「お父さん洗礼をお金で買えると思ってるの。
 とんでもない誤解だそれは。
 洗礼にお金は要らない。」


「そういう意味ではない。
 しかし何もなしと言う訳にはいかんだろう。
 相場はいくらくらいだ。
 細川ガラシャは百両持って伴天連を訪ねたと
 三浦さんの本に書いてあるぞ。」


「バテレンて・・・・orz
 お金をいくら積んでも洗礼は買えないよ。
 これから生まれて来る赤ん坊が
 僕の出産費用いくら払えばいいですかと聞くのと
 同じくらい変だ。
 献金の意味は牧師先生が後で教えてくれるから
 その時聞いてみなよ。」


じじが洗礼を受けると言い出して、
しばらくこんな会話をしていたのだった。
そこで、マルコ。


悔い改めて洗礼を受ける。


「イザヤの預言では
 救い主が来る前に、
 道を整える者が現れると言われている。
 それがバプテスマのヨハネだよ。
 道を整えるとは、
 人々が罪を心から悔い改めて
 神様に立ち返る事だからね。
 悔い改めて洗礼を受けるって事は、
 そういう意味だよ。」


「ほぉ。」


「つまりお金捧げるんじゃなくて
 悔い改めた魂を捧げないとならないのさ。」


「そうか。」


「イエスはバプテスマのヨハネから洗礼を受けた。
 そしたら鳩が飛んで来て留まるみたいに
 聖霊がイエスに降って来て、
 天から父なる神様の声がしたんだと。」


「ほー」


「"あなたは私の愛する子、・・・"
 イエス・キリストは天の父なる神の一人子だよ。」


「・・・」


「お父さん起きてる?」


「ん。」


「洗礼を受けた後、
 イエスは荒れ野で40日間断食して祈って、
 悪魔の誘惑に打ち勝った。」


「へぇ。」


「だからさ、お父さん。
 洗礼を受けて何もかも万々歳ではないのさ。
 誰にでも洗礼を受けた後に試練は来る。
 試練は乗り越えなければならないのさ。」


「そうか。そうだな。」


じじ、感心して頷いてるけど
わかってんのかな本当に。


「で、悔い改めよって言ったバプテスマのヨハネが
 当時の権力者に逮捕されたのさ。
 イエスは宣教活動を始めた。
 弟子達を連れて歩いた。」


「ふぅん。」


「イエスの弟子になった人達は皆、
 貧しい漁師とか軽蔑されてた税金取りとか
 特別に何かの才能があった訳ではないし
 人間的にも信仰的にも優れてた訳ではない、
 貧しい、力の無い目立たない人達ばかりだよ。」


「そうか。」


「それと、
 弟子たちの方から"師匠、弟子入りさせて下せぇ"って
 志願して弟子入りしたのではなかったんだよね。
 イエスの方から一人一人を呼んで、招いた。
 彼らはそのイエスの招きに応えて
 自分の仕事や生活を置いてイエスについて行った。」


「ほぉ。」


「お父さんも招かれてんだよ。
 私達は神様に招かれなかったら
 自分の方から行く事は出来ないのさ。
 お父さんの方から神様を選んだのではなくて
 神様がお父さんを呼んでるのさ。」


「ほぉ。そうか。」


「牧師先生もそうだったって。
 昔、牧師先生が若い頃、
 信仰の道に入ってさらに牧師になる決心をした時、
 親戚皆から猛反対されたんだって。
 だってそうだよね。
 黙ってそのまま働いていれば
 恩給も出ただろうし蓄財も出来たろうし
 出世もしたかも知れない。
 それを全部置いて、
 牧師先生はイエスの招きに従ったんだよ。
 それも決して楽な道程じゃないのね。」


「うーむ・・・」


じじ、考え込んでるぞ。


「イエスはそれから、
 ユダヤ教の教会で説教したりしてたけど、
 今で言う精神病の人や重病人の病気を
 次々に癒したんだって。
 それで人々がたくさん集まって来て騒ぎになった。」


「へぇ。」


「ここでらい病人が出て来るけど
 ここでいうらい病って、
 昔は伝染病医学なんか無くて、
 ユダヤ教の坊さんが医者も兼業していたのさね。
 それで、
 皮膚に現れる異常は天然痘や水疱瘡もハンセン氏病も
 ただの湿疹や水虫も、何でもかんでも十把一絡げに
 一緒くたに"汚れたもの"とされて
 社会からも家族からも追い出されて絶縁された。
 汚れた者に触った者も汚れるとされていたからね。」


「昔は医療と言うものが無かったからなぁ。」


「そうなのさ。
 でもここでイエスは
 自分からこのらい病の人に触ってるよね。
 ここが大事なのさ。
 汚いとか気持ち悪いとか伝染すると言われている病人に
 イエスは自分の方から手を差し伸べて触った。
 そしてこの病人は癒された。
 イエスはそういうお方なのさ。」


「なるほどな。」


「お父さんわからない事とか、何かない?」


「ないなー。」


「感想とかは?」


「いろいろと、
 考えてもなかったな事があるもんだなぁ。」


なんじゃー
そんだけかい。


この後、しばし珈琲を入れ、
近所の菓子屋の一番小さいケーキを切って
じじの誕生祝いをした。


しばらくいろいろ話して
今月中に、日勤の日の仕事帰りは
一緒にマルコを読むために私はじじ宅に通う事とした。
じじは聖書を読む事に対して予想外に意欲的で、
珍しく聞きの体勢に徹している。
牧師先生が来て下さる時は
自分の喋りたい話ばかりべらべらと
牧師先生が口を挟めないほど喋るのに。


今後の日程を立てて勤務表とカレンダーに印をつけた。


2月は今日13から14、15、16、17の5日間、
その後4日間は遅番、夜勤入り、明け、休み。
休みの翌日は日勤なので無理せず。
それからまた21、22、23、24、25の5日間、
その後2日間夜勤の入りと明け、
28の休みは翌日が遅番なので大丈夫、出来る。
29は遅番。
一日1章読むと2月中に10章まで進む。
3月は受難週に有給休暇を4日間消化する。
申請出したけど上司はダメとは言わなかったな。


じじがケーキ食べている間に
主の祈りをA4の紙に大きく手書きした。
食べ終わって珈琲飲んで
再び主の祈り。
最後に感謝の祈りをしてお開き。


がんばろう。

2月13日(水) 読み始める前に

2008-02-13 22:45:45 | マルコ
読み始める前に、じじに2、3説明した。


私達の教会では
聖書を読む時は出来るだけ一人で読まず、複数で読む。
人が一人で聖書を読むと
自分独自の解釈に凝り固まったり脱線し易いという理由。
教会員が独善的な読み方に暴走する危険を避けるため。
私達は聖書は皆で分かち合いながら読む。
神の御言葉は魂の糧だから。
糧は皆で分かち合うのだ。


皆で聖書を読む時は
その日にどこまで読み進むか区切りの良い所まで決めて、
一人1節ずつ、声に出して輪読する。


意味のわからない箇所は皆で調べ合ったりするが
どうしてもわからない事は一礼してスルー。w


読む前に普通は賛美歌を歌い、感謝の祈りを捧げる。
読み終わったら、
皆でその時その時の祈りの課題を出し合って
とりなしの祈りを捧げる。


でも、お祈りは、
じじはまだ自分の言葉で自然に祈る事が出来ないので
主の祈りと使徒信条を一緒に唱えた。

2月13日(水) じじの誕生日の朝。

2008-02-13 05:02:49 | マルコ
今日から一緒にマルコを読もう。


じじが今年のイースターに洗礼を受ける。
決心は揺るがない様子だ。
読みたい気持ちはあるのだろうが
特大ルーペを手放せない老眼とひどい難聴で
毎週教会に通っていても
誰が何の話をしてるのか
どんな話をしてるのか
じじは全然わからないでいる。
昔私が贈った聖書を大事に持ってはいるが
厚さと文字の細かさで挫折してしまう。


それで
一緒に聖書を読む事にした。
教会の夜の聖書研究会のように輪読して
じじが持っているわからない事や引っかかる事を
引き出して私が調べたり答えたりして
私自身も1年ぶりにマルコを読んで初心に帰ったりして
分かち合いをしようと思った。


これまでに食卓を共に囲む事の殆どなかった、
機能不全な家族の時代を取り戻せるなど甘い期待はない。
信者として求道者に対してすべき最低限度の事を
私もしなければならない。
一緒に祈る事。
一緒に聖書を読む事。
聖書を囲んで話し、分かち合う事。


まずそのためには私が時間を工面する事。
今日から受洗の日まで
一日1章、一日1時間。
マルコを一緒に読む事にした。
私も初心に帰ろう。
初めて聖書を自分で読んだ頃、私は何を考えただろう。


じじ、
誕生日おめでとう。
誕生日に聖書を読み始めるんだね。