神の国に入る事について。
「子供のように神の国を受け入れる人でなければ
決してそこに入ることはできない。」
「お父さん、
子供というのは、
当時のイスラエルでは
人間として数に入っていなかったのさ。
子供のように神の国を受け入れる人というのは、
力もなく、知恵もなく、頼るものもない、
何も持っていない弱い立場、
神様に頼るしか生きていく術のない弱い立場でさ、
子供のように無垢で、
ただ無心に神様を慕う、
そういう心のあり方の人を
神様は祝福して迎え入れて下さると言ってるんだ。」
「そうか。」
金持ちの男について。
「この金持ちの男は
子供の時から真面目に律法を守って生きてきた。
それでもなお
善良な生き方をして神の国を求めていた。
愚かでもなく傲慢でもなく、善人だったと思う。
だからイエスに声をかけてきたんだよ。」
「そうだな。」
「でもイエスはこの人に、
それだけでは足りないと言った。」
「うん。」
「財産を売り払って貧しい人々に施せと言われた。」
「うん。」
「でもこの人はたくさんの財産を持っていたから、
がっかりして立ち去った。
金銭や物や家畜、使用人、商売、
いろいろな資産を持っていただろうと思うよ。
この人はその財産を手放す事が出来なかったんだ。
一度手にしたものを手放す事は簡単じゃないよね。
どうしても執着してしまうでしょ人間て。」
「そうだな。
そう簡単な事ではないだろう。」
「うん。
そしたらイエスはこう言われた。」
「金持ちが神の国に入るよりも、
らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」(10;25)
「う~~~ん・・・・・」
じじ、腕組みして考え込んだ。
「そんなんだったら誰も天国に行けないだろう。」
「行けないんだって。
欲や執着やこだわりを捨てないと。」
じじ、首を捻っている。
納得いかない様子だ。
「キリスト教では、
私達の持っているものは全て、
物も財産も、命も、能力も、人間関係も、
全て神様のものなのさ。
私達は神様から与えられて養われている、
そういう考え方なんだよ。」
「ふぅん。」
「私達が神様から与えられたものは全部、
本来は神様の御用のために使われるべきものなのさ。
自分のものであって自分のものじゃないんだよね。
この人は
それを手離して付いて来なさいと言われたけど
出来なかった。
執着があったのか何かしがらみがあったのか、
わからないけど捨てる事が出来なかった。」
「・・・・・」
「イエス・キリストに従って行く人は
それまでの生活を置いて、
執着とかいろいろな何かを捨てて
イエスに従って行くんだ。」
「・・・・・」
「ペトロはここで言ってる。
“わたしたちは何もかも捨てて
あなたに従って参りました。”
そうだよね。
ペトロと兄弟のアンデレも漁師だったけど
仕事辞めて父親と雇い人達を置いて、
家業を捨ててイエスに従って行ったからね。
こないだ、
牧師先生の事話したでしょ。
牧師先生も仕事辞めて牧師になった。
イエス・キリストに従って行く人は皆、
それまでの生活を一度置いて、
イエスに付いて行くのさ。」
じじ、
納得できない顔してる。
そうだろうな。
「イエス・キリストは神の子だけど、
十字架に架かって
ご自分の全てを私達に与えて下さった。
私達の罪を贖うためにさ。
私の罪や、お父さんの罪を贖うために十字架の上で
死なれたんだよ。
ならば自分は何を捨ててイエスに付いて行くか。
それが問われているのさ。」
じじ、考え込んでいる。
私達のものは全て、もともと主なる神様のもの。
えっと・・・
では、ちょっとマルコは今日はここまでにして、
ヨブ記を読んでみる事にした。
じじ、虫眼鏡でヨブ記を朗読する。
(ヨブ記1;1~2;10)
ヨブの信仰。
ヨブの神に対する態度。
ヨブの与えられる事と失う事に対する考え方。
「わたしは裸で母の胎を出た。
裸でそこに帰ろう。
主は与え、主は奪う。
主の御名はほめたたえられよ。」(1;21)
「わたしたちは、
神から幸福をいただいたのだから、
不幸もいただこうではないか。」(2;10)
「う~~ん。
これはなかなか大変な事だ。」
「お父さん、
ヨブは信仰の姿勢のお手本だよ。
ヨブのようにいられる人は
実際そんなにはいないと思う。」
「そうだな。」
「私達は神様からたくさんのものを頂いてるけど、
それは神様が私達を通して
他の人々を救いたいからだと思う。
私達の持っている物や
お金も能力も時間も手間隙も努力も、
全部、神様が人々を助けて救うために、
私達に託されたものなんだけど、
私達は弱くて、
一度手にしたものを手離す事が出来ないのさ。
財産を捨てられなかった人も、
真面目な信仰がありながら、
手離す事が出来なかった。
この人は財産に対する執着を手離すまで
決して神の国に入れて貰えないと、
イエスはここで言ってるんだよ。」
じじ、考え込んでいる。
「私達は自分が神様から与えられて、
養われて生きている事を忘れてはならないのさ。
忘れると、
自分のものは自分のものと思って
執着してしまうからね。」
「難しいなぁ。
そんなんだったら誰も救われないぞ。」
「だからさ、
日々養って下さる神様に感謝しないと。
主の祈りの
"私達の日ごとの糧を今日もお与え下さい"も、
そういう意味だよ。」
「なるほどなぁ。」
「だけどね、
私はヨブのような人に会った事がある。
釧路に来たばかりの時に、
お父さんにちょっと離した事があったと思うけど。」
「そうだったかな。
憶えてないな。」
ここで、
じじに私が出会ったあるキリスト者の話をした。
この人の事は、
ブログ『ぱんくず日記』に書いた事があった。
(ここに書くと長くなるのでこちらを覧下さい。)
↓
ぱんくず日記2006/08/22
http://blog.goo.ne.jp/t-i801025/e/89eb56819f34c0a8f5b280b67dd30b00
「井上さん。
俺が負けたと言うのはさ、
裁判には勝ったけど何もかも失った、
だから負けたんだ。
俺は負けたんだよ。」
私はPさんに聞いた。
「医者も病院も、生涯許せないでしょうね。」
Pさんは私に答えた。
「井上さん、
俺達は神様から幸せを頂いてるんだ。だから、
辛い事も頂くんだよ。」
Pさんはヨブの信仰を持った人だった。
あの時のPさんの言葉を、
話した時の声も、表情も、
私にとって生涯忘れられるものではない。
じじは考え込み、
私も自分自身考え込んだ神の国。
「子供のように神の国を受け入れる人でなければ
決してそこに入ることはできない。」
「お父さん、
子供というのは、
当時のイスラエルでは
人間として数に入っていなかったのさ。
子供のように神の国を受け入れる人というのは、
力もなく、知恵もなく、頼るものもない、
何も持っていない弱い立場、
神様に頼るしか生きていく術のない弱い立場でさ、
子供のように無垢で、
ただ無心に神様を慕う、
そういう心のあり方の人を
神様は祝福して迎え入れて下さると言ってるんだ。」
「そうか。」
金持ちの男について。
「この金持ちの男は
子供の時から真面目に律法を守って生きてきた。
それでもなお
善良な生き方をして神の国を求めていた。
愚かでもなく傲慢でもなく、善人だったと思う。
だからイエスに声をかけてきたんだよ。」
「そうだな。」
「でもイエスはこの人に、
それだけでは足りないと言った。」
「うん。」
「財産を売り払って貧しい人々に施せと言われた。」
「うん。」
「でもこの人はたくさんの財産を持っていたから、
がっかりして立ち去った。
金銭や物や家畜、使用人、商売、
いろいろな資産を持っていただろうと思うよ。
この人はその財産を手放す事が出来なかったんだ。
一度手にしたものを手放す事は簡単じゃないよね。
どうしても執着してしまうでしょ人間て。」
「そうだな。
そう簡単な事ではないだろう。」
「うん。
そしたらイエスはこう言われた。」
「金持ちが神の国に入るよりも、
らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」(10;25)
「う~~~ん・・・・・」
じじ、腕組みして考え込んだ。
「そんなんだったら誰も天国に行けないだろう。」
「行けないんだって。
欲や執着やこだわりを捨てないと。」
じじ、首を捻っている。
納得いかない様子だ。
「キリスト教では、
私達の持っているものは全て、
物も財産も、命も、能力も、人間関係も、
全て神様のものなのさ。
私達は神様から与えられて養われている、
そういう考え方なんだよ。」
「ふぅん。」
「私達が神様から与えられたものは全部、
本来は神様の御用のために使われるべきものなのさ。
自分のものであって自分のものじゃないんだよね。
この人は
それを手離して付いて来なさいと言われたけど
出来なかった。
執着があったのか何かしがらみがあったのか、
わからないけど捨てる事が出来なかった。」
「・・・・・」
「イエス・キリストに従って行く人は
それまでの生活を置いて、
執着とかいろいろな何かを捨てて
イエスに従って行くんだ。」
「・・・・・」
「ペトロはここで言ってる。
“わたしたちは何もかも捨てて
あなたに従って参りました。”
そうだよね。
ペトロと兄弟のアンデレも漁師だったけど
仕事辞めて父親と雇い人達を置いて、
家業を捨ててイエスに従って行ったからね。
こないだ、
牧師先生の事話したでしょ。
牧師先生も仕事辞めて牧師になった。
イエス・キリストに従って行く人は皆、
それまでの生活を一度置いて、
イエスに付いて行くのさ。」
じじ、
納得できない顔してる。
そうだろうな。
「イエス・キリストは神の子だけど、
十字架に架かって
ご自分の全てを私達に与えて下さった。
私達の罪を贖うためにさ。
私の罪や、お父さんの罪を贖うために十字架の上で
死なれたんだよ。
ならば自分は何を捨ててイエスに付いて行くか。
それが問われているのさ。」
じじ、考え込んでいる。
私達のものは全て、もともと主なる神様のもの。
えっと・・・
では、ちょっとマルコは今日はここまでにして、
ヨブ記を読んでみる事にした。
じじ、虫眼鏡でヨブ記を朗読する。
(ヨブ記1;1~2;10)
ヨブの信仰。
ヨブの神に対する態度。
ヨブの与えられる事と失う事に対する考え方。
「わたしは裸で母の胎を出た。
裸でそこに帰ろう。
主は与え、主は奪う。
主の御名はほめたたえられよ。」(1;21)
「わたしたちは、
神から幸福をいただいたのだから、
不幸もいただこうではないか。」(2;10)
「う~~ん。
これはなかなか大変な事だ。」
「お父さん、
ヨブは信仰の姿勢のお手本だよ。
ヨブのようにいられる人は
実際そんなにはいないと思う。」
「そうだな。」
「私達は神様からたくさんのものを頂いてるけど、
それは神様が私達を通して
他の人々を救いたいからだと思う。
私達の持っている物や
お金も能力も時間も手間隙も努力も、
全部、神様が人々を助けて救うために、
私達に託されたものなんだけど、
私達は弱くて、
一度手にしたものを手離す事が出来ないのさ。
財産を捨てられなかった人も、
真面目な信仰がありながら、
手離す事が出来なかった。
この人は財産に対する執着を手離すまで
決して神の国に入れて貰えないと、
イエスはここで言ってるんだよ。」
じじ、考え込んでいる。
「私達は自分が神様から与えられて、
養われて生きている事を忘れてはならないのさ。
忘れると、
自分のものは自分のものと思って
執着してしまうからね。」
「難しいなぁ。
そんなんだったら誰も救われないぞ。」
「だからさ、
日々養って下さる神様に感謝しないと。
主の祈りの
"私達の日ごとの糧を今日もお与え下さい"も、
そういう意味だよ。」
「なるほどなぁ。」
「だけどね、
私はヨブのような人に会った事がある。
釧路に来たばかりの時に、
お父さんにちょっと離した事があったと思うけど。」
「そうだったかな。
憶えてないな。」
ここで、
じじに私が出会ったあるキリスト者の話をした。
この人の事は、
ブログ『ぱんくず日記』に書いた事があった。
(ここに書くと長くなるのでこちらを覧下さい。)
↓
ぱんくず日記2006/08/22
http://blog.goo.ne.jp/t-i801025/e/89eb56819f34c0a8f5b280b67dd30b00
「井上さん。
俺が負けたと言うのはさ、
裁判には勝ったけど何もかも失った、
だから負けたんだ。
俺は負けたんだよ。」
私はPさんに聞いた。
「医者も病院も、生涯許せないでしょうね。」
Pさんは私に答えた。
「井上さん、
俺達は神様から幸せを頂いてるんだ。だから、
辛い事も頂くんだよ。」
Pさんはヨブの信仰を持った人だった。
あの時のPさんの言葉を、
話した時の声も、表情も、
私にとって生涯忘れられるものではない。
じじは考え込み、
私も自分自身考え込んだ神の国。