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ぱんくず迷走録

日曜日は教会へ。

2月29日(金) マルコ10;13~31

2008-02-29 23:05:55 | マルコ
神の国に入る事について。


 「子供のように神の国を受け入れる人でなければ
  決してそこに入ることはできない。」


「お父さん、
 子供というのは、
 当時のイスラエルでは
 人間として数に入っていなかったのさ。
 子供のように神の国を受け入れる人というのは、
 力もなく、知恵もなく、頼るものもない、
 何も持っていない弱い立場、
 神様に頼るしか生きていく術のない弱い立場でさ、
 子供のように無垢で、
 ただ無心に神様を慕う、
 そういう心のあり方の人を
 神様は祝福して迎え入れて下さると言ってるんだ。」


「そうか。」


金持ちの男について。


「この金持ちの男は
 子供の時から真面目に律法を守って生きてきた。
 それでもなお
 善良な生き方をして神の国を求めていた。
 愚かでもなく傲慢でもなく、善人だったと思う。
 だからイエスに声をかけてきたんだよ。」


「そうだな。」


「でもイエスはこの人に、
 それだけでは足りないと言った。」


「うん。」


「財産を売り払って貧しい人々に施せと言われた。」


「うん。」


「でもこの人はたくさんの財産を持っていたから、
 がっかりして立ち去った。
 金銭や物や家畜、使用人、商売、
 いろいろな資産を持っていただろうと思うよ。
 この人はその財産を手放す事が出来なかったんだ。
 一度手にしたものを手放す事は簡単じゃないよね。
 どうしても執着してしまうでしょ人間て。」


「そうだな。
 そう簡単な事ではないだろう。」


「うん。
 そしたらイエスはこう言われた。」


 「金持ちが神の国に入るよりも、
  らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」(10;25)


「う~~~ん・・・・・」


じじ、腕組みして考え込んだ。


「そんなんだったら誰も天国に行けないだろう。」


「行けないんだって。
 欲や執着やこだわりを捨てないと。」


じじ、首を捻っている。
納得いかない様子だ。


「キリスト教では、
 私達の持っているものは全て、
 物も財産も、命も、能力も、人間関係も、
 全て神様のものなのさ。
 私達は神様から与えられて養われている、
 そういう考え方なんだよ。」


「ふぅん。」


「私達が神様から与えられたものは全部、
 本来は神様の御用のために使われるべきものなのさ。
 自分のものであって自分のものじゃないんだよね。
 この人は
 それを手離して付いて来なさいと言われたけど
 出来なかった。
 執着があったのか何かしがらみがあったのか、
 わからないけど捨てる事が出来なかった。」


「・・・・・」


「イエス・キリストに従って行く人は
 それまでの生活を置いて、
 執着とかいろいろな何かを捨てて
 イエスに従って行くんだ。」


「・・・・・」


「ペトロはここで言ってる。
 “わたしたちは何もかも捨てて
  あなたに従って参りました。”
 そうだよね。
 ペトロと兄弟のアンデレも漁師だったけど
 仕事辞めて父親と雇い人達を置いて、
 家業を捨ててイエスに従って行ったからね。
 こないだ、
 牧師先生の事話したでしょ。
 牧師先生も仕事辞めて牧師になった。
 イエス・キリストに従って行く人は皆、
 それまでの生活を一度置いて、
 イエスに付いて行くのさ。」


じじ、
納得できない顔してる。
そうだろうな。


「イエス・キリストは神の子だけど、
 十字架に架かって
 ご自分の全てを私達に与えて下さった。
 私達の罪を贖うためにさ。
 私の罪や、お父さんの罪を贖うために十字架の上で
 死なれたんだよ。
 ならば自分は何を捨ててイエスに付いて行くか。
 それが問われているのさ。」


じじ、考え込んでいる。


私達のものは全て、もともと主なる神様のもの。
えっと・・・
では、ちょっとマルコは今日はここまでにして、
ヨブ記を読んでみる事にした。
じじ、虫眼鏡でヨブ記を朗読する。


(ヨブ記1;1~2;10)


ヨブの信仰。
ヨブの神に対する態度。
ヨブの与えられる事と失う事に対する考え方。


 「わたしは裸で母の胎を出た。
  裸でそこに帰ろう。
  主は与え、主は奪う。
  主の御名はほめたたえられよ。」(1;21)


 「わたしたちは、
  神から幸福をいただいたのだから、
  不幸もいただこうではないか。」(2;10)


「う~~ん。
 これはなかなか大変な事だ。」


「お父さん、
 ヨブは信仰の姿勢のお手本だよ。
 ヨブのようにいられる人は
 実際そんなにはいないと思う。」


「そうだな。」


「私達は神様からたくさんのものを頂いてるけど、
 それは神様が私達を通して
 他の人々を救いたいからだと思う。
 私達の持っている物や
 お金も能力も時間も手間隙も努力も、
 全部、神様が人々を助けて救うために、
 私達に託されたものなんだけど、
 私達は弱くて、
 一度手にしたものを手離す事が出来ないのさ。
 財産を捨てられなかった人も、
 真面目な信仰がありながら、
 手離す事が出来なかった。
 この人は財産に対する執着を手離すまで
 決して神の国に入れて貰えないと、
 イエスはここで言ってるんだよ。」


じじ、考え込んでいる。


「私達は自分が神様から与えられて、
 養われて生きている事を忘れてはならないのさ。
 忘れると、
 自分のものは自分のものと思って
 執着してしまうからね。」


「難しいなぁ。
 そんなんだったら誰も救われないぞ。」


「だからさ、
 日々養って下さる神様に感謝しないと。
 主の祈りの
 "私達の日ごとの糧を今日もお与え下さい"も、
 そういう意味だよ。」


「なるほどなぁ。」


「だけどね、
 私はヨブのような人に会った事がある。
 釧路に来たばかりの時に、
 お父さんにちょっと離した事があったと思うけど。」


「そうだったかな。
 憶えてないな。」


ここで、
じじに私が出会ったあるキリスト者の話をした。
この人の事は、
ブログ『ぱんくず日記』に書いた事があった。
(ここに書くと長くなるのでこちらを覧下さい。)

ぱんくず日記2006/08/22
http://blog.goo.ne.jp/t-i801025/e/89eb56819f34c0a8f5b280b67dd30b00

「井上さん。
 俺が負けたと言うのはさ、
 裁判には勝ったけど何もかも失った、
 だから負けたんだ。
 俺は負けたんだよ。」


私はPさんに聞いた。


「医者も病院も、生涯許せないでしょうね。」


Pさんは私に答えた。


「井上さん、
 俺達は神様から幸せを頂いてるんだ。だから、
 辛い事も頂くんだよ。」


Pさんはヨブの信仰を持った人だった。
あの時のPさんの言葉を、
話した時の声も、表情も、
私にとって生涯忘れられるものではない。


じじは考え込み、
私も自分自身考え込んだ神の国。

2月28日(木) マルコ10;1~12

2008-02-28 22:20:49 | マルコ
離縁についての律法解釈。


「ファリサイ派の人々が
 イエスのあげ足を取ろうとして
 いろいろと議論を吹っかけてくるのさ。」


「そうだな。」


離縁の箇所について、
深くは掘り下げなかった。
いずれも再婚してはいないから
姦通にはならないのかな。
姦通よりももっと複雑な、
根深い罪によって熟年離婚したと
子供である私は思っている。
離婚者である自分を
じじはこの箇所を読んでどう考えるのか。

2月25日(月) その3.マルコ9;30~50

2008-02-25 23:01:54 | マルコ
イエスは再び予告する。


 「人の子は、
  人々の手に引き渡され、殺される。
  殺されて三日の後に復活する。」


師がこれから殺されると言っているというのに、
弟子達は誰が一番偉いか議論し合っていた。


「イエスがこれから十字架で死刑になるというのに
 自分達の中で誰が一番偉いかって、
 弟子達はこの時全然危機感無かったんだ。
 この情けない姿が
 私達人間の本性だよね。
 偉そうな事を言える人はいないと思うさ。」


「はははそうだな。
 わからなかったんだろう。」


「教会だって同じ。
 それぞれ自分が偉いと内心思って議論し合うから
 物事決まらない。
 道内の教会が一ヶ所に集まって会議するんだけど
 議論の様子なんか見てたら迷走しっぱなし。
 偉い人ばかりたくさんいて。
 いずれ沈没して散り散りになるかも。」


「教会とはそういうものか。」


「そういうものだよ。
 ただ許されただけの弱い罪人の集まりだから。
 イエスの弟子達と同じように。
 ここを読んで笑ってはいけないのさ。
 自分の事を言われてると思わなきゃ。」


「そうだな。」


じじ、
何時になく素直だな。


弟子達の了見の狭い事が次に出ている。


「弟子達は自分らの仲間でないのに
 イエスの名前で悪霊を追い出してた人を
 やめさせようとしていたのさ。」


「ふん。そうだな。」


「でも、
 イエスは逆らわない者は味方だからやめさせるなと。
 キリストの弟子だからって
 水一杯でも飲ませてくれる人は
 神様から喜ばれて祝福されるのさ。 」


律法の解釈、罪への誘惑について。(9;42~50)


「律法学者達は人々に対して
 規則を守る事、律法を遵守する事を厳しく守らせて
 人々の生活をがんじがらめに
 規則で縛り付けていたよね。」


「そうだな。」


「それに対してイエスは
 神様は人々を慈しみ、憐れんでおられる事を示した。
 人々にとって優しくいたわりに満ちた姿勢で
 神の御心を表わしてきた。
 但し、律法の解釈については
 律法学者よりもイエスの方が厳しいんだよ。」


「ほう。」


「例えば、律法では
 "殺すな""姦淫を犯すな"という戒めがあって
 実際に人を殺した者や姦通をした者は
 死刑にする決まりなのさね。
 でもイエスは、
 心の中で人を憎んだだけで人殺しと同じ、
 異性を情欲の目で見ただけで姦通と同じと
 言っているのさ。
 厳しいでしょ。」


「そうだなぁ。
 誰も守れないだろうそんなんじゃ。」


「うん。100%守れる人はいない。
 だから自分は罪人であると自覚して
 日々悔い改めろという事なのさ。」


「そうか。」


じじ、
考え込んだな。

2月25日(月) その2.マルコ9;14~29

2008-02-25 22:36:00 | マルコ
悪霊に取り憑かれた子供を癒す箇所。
弟子達にはこの子供を癒す事が出来なかった。
父親は「出来れば、助けてくれ」とイエスに言う。


 『できれば』と言うか。
 信じる者には何でもできる。(6;23)


 信じます。
 信仰のないわたしをお助けください。(6;24)


神様から目を外さず疑わずに信じ、
神に委ねる。
それが信じる者の姿勢。


じじ、
またも引いてるな。
奇跡の箇所を読む時、
じじはいつも一歩引く。


「お父さん、
 私は仕事でもびっくりするような奇跡を
 見た事が何度かある。」


「ふふん。」


笑ったな。じじ。
ここで、私の体験した奇跡をじじに話した。
ブログ『ぱんくず日記』にもアップした出来事だ。
http://blog.goo.ne.jp/t-801025/e/96275a3f77ed8c0f76f5b9ea297214ab
(↑ぱんくず日記2006/08/23
 一からここにアップすると長いので
 直接日記の記事をご覧下さい。)


じじ、感心している。


「世の中には、
 何だかわからん事がたくさん起こるものだなぁ。」


「私もさ、
 祈ったくせして祈った事自体を忘れてんのね。
 でもちゃんと祈りは聞き届けられてたんだよ。」


「なるほどなぁ。」

2月25日(月) その1.マルコ9;1~13

2008-02-25 22:34:31 | マルコ
イエスの変容の箇所。


「お父さん、ここの箇所は難解な箇所で
 この箇所の論文書いてる神学者って少ないらしいよ。」


「そうか。」


「ま、
 わからないものはわからないんだから
 知ったかぶりしないで
 一礼して通り過ぎるのが一番いいのさ。」


「ふっ(笑)」


「だって、
 だれも解説出来ないでしょ。
 イエスの姿が弟子達の目の前で真っ白に輝いて、
 モーセとエリヤが現れて
 イエスと話してたんだもの。
 モーセとエリヤという二人は、
 そういう先駆者で預言者で指導者だった。
 イスラエルの信仰では歴史的に重要な預言者だよ。」


「うん。」


「モーセという人は、
 出エジプト記に出て来る。
 昔『十戒』という映画があったんだけど
 エジプトの奴隷だったイスラエル民族を
 神様との約束の土地だったカナンに向かって率いて
 エジプトから脱出させた指導者さ。」


「ほぉ。」


「エリヤという人は、
 列王記に出て来る預言者。
 こないだ話したイスラエルの王国が分裂した
 片割れの南ユダ王国のアハブ王の時代の預言者でね、
 暗愚な王だったアハブが
 妃イゼベルに倣って偶像礼拝したり
 個人の土地を横取りするために持ち主を殺したり、
 神との本来の約束を破って堕落したんだよね。
 それに対してエリヤは悔い改めろと
 警告したためにイゼベルから迫害された。
 仲間の預言者達も迫害されて殺されたのさ。
 預言者達が皆殺しにされた時、
 エリヤだけが一人生き延びて
 神様に導かれて次の王と次の預言者に油を注いだのさ。」


「ほお。」


「エリヤは普通の人間みたいに死んだのではなくて
 天に上げられたと書いてある。
 それで、イスラエルの人々はいつか救い主が来る時に
 預言者エリヤがまず先に来るはずだと信じていたのさ。
 でも、
 弟子達はびっくり仰天してしまって、
 ペトロは何喋ったらいいかわからなかったと思うよ。
 記念に小屋三つ建てましょうとか言ってる。」


「ははは。
 そうだな。
 そりゃびっくりするだろうな。」


「イエスがここで
 "エリヤそは来たが、人々は好きなようにあしらった"
 と言ってるのは、
 洗礼者ヨハネの事だよ。
 イエス・キリストが来る前に、
 "主の道を整え、道筋を真っ直ぐにする、荒れ野で叫ぶ者"
 が神に使わされて来る。
 それがあの首を切られて盆の上に乗せられた
 洗礼者ヨハネだった。」


「ふんふん。」


じじ、
列王記あたりの話をすると
興味深そうに身を乗り出す。
いつか新約を読み終わったら
サムエル記や列王記読み飛ばすのも
これまた楽しからずや。

2月24日(日) マルコ8;1~38

2008-02-24 22:50:00 | マルコ
7つのパンを裂いて4000人に分け与える奇跡。
イエスを慕って3日も一緒にいた大勢の人々は
貧しく、空腹だった。
イエスはそんな彼らを深く憐れまれた。


「7つのパンを裂いて
 4000人に配って
 パンくずを集めると7つの籠に一杯だった。
 7という数字には何か象徴的な意味があるんだって。」


「へぇ~」


「詳しい事は私もよくは知らない。
 牧師先生に今度聞いてみて。」


「うむ。」


しるしを欲しがる人々について。


「ファリサイ派の人々は
 イエスに難癖つけて
 "納得出来る証拠を見せろ"と言って
 議論を吹っかけてたのさ。」


「ふん。」


「イエスが十字架につけられるまで
 それはずっと続いたのさ。」


「いつの時代も似たようなものだなぁ。」


「そうだね。」


ファリサイ派のパン種とヘロデのパン種


「小麦を膨らますパン種。
 ここで言うパン種は、
 信仰のあり方、心のあり方だと思うよ。
 ファリサイ派のように
 戒律を厳守する事にばかり心が向いているのも、
 ヘロデのように
 欲望に支配されて神様に心が向いていないのも、
 どちらにも陥らないように気をつけなさいって。」


「なるほど。」


ベトサイダの盲人の癒し。
イエスはその人を癒した後、
ベトサイダの村に入るなと言われた。


「イエスの言葉に
 耳を傾けなかった村だったんだろうね。
 別の福音書でも
 悔い改めない町の一つに挙げられてる。」


「ほぉ。」


イエスとは誰かについて。
イエスの癒しや奇跡の業と教えは
評判が広まって人々の間で噂が立った。
洗礼者ヨハネ。
エリヤ。
他の預言者の一人。


「洗礼者ヨハネはこないだ読んだ、
 ヘロデに首を切られて死んだ預言者だ。
 覚えてる?」


「おー。」


「エリヤは、旧約聖書の列王記に出て来る。
 統一国家だったイスラエルが
 どんどん退廃して分裂した時の、
 南ユダ王国のアハブ王の時代の預言者だよ。
 このアハブ王は暗愚な王で、
 女房の尻に敷かれて異教の道に脱線したんだよ。
 この女房というのがイゼベルという、
 則天武后や西太后に匹敵する悪女で、
 アハブ王をたぶらかして
 国を偶像礼拝の道に堕落させたし、
 その時代の預言者達を皆殺しにした。
 エリヤはその時代の預言者で
 イゼベルに迫害されながら
 たった一人辛うじて生き残った預言者。
 お父さんの好きな大河ドラマみたいなのが
 旧約聖書の中にもあるのさ。」


「ほー。」


じじ、
身を乗り出している。
歴史物好きだし。
話がわかれば食い付き良いぞ。


「イエスが評判になった時、
 あれは預言者エリヤが現れたんだと
 言う人もいたのさ。」


「なるほど。」


「ペトロはここで、
 イエスをメシア、救い主だと言う。
 これはペトロの信仰告白だよ。
 お父さんも、洗礼式の時に同じ告白をする。
 私達もしてきた。
 イエス・キリストを救い主と告白するんだよ。」


「そうか。」


・・・・σ(-_- )


じじ、
にこにこして頷いてるけど、どうよ。


イエスは自分が救い主である事を
弟子達に口止めして、
ご自分が祭司長、律法学者、ファリサイ派の手で
殺される、
そして三日後に復活すると告げた。
ペトロがイエスを脇に連れて行って諌める。


「だってそうだよね。
 普通に考えたら、
 救い主が殺されて死んでしまったら
 誰も救われないもの、
 それじゃ困るでしょ。」


「そうだ。もっともだ。」


「でもイエスはそんなペトロを叱ったんだよ。
 神様の御意志ではなく人間の側の思いだって。
 人間の思い通りにではなくて
 神様の御意志の通りになるって事。
 何でも。」


「・・・」


じじ、引いたであるよ。
しかし、一番大事な所。


"わたしの後に従いたい者は、
 自分を捨て、自分の十字架を背負って、
 わたしに従いなさい。・・・"


「お父さん、
 これがキリスト者として生きるという事だよ。」


「・・・・」


「イエスは全ての人の罪を贖うために、
 お父さんや私の罪を贖うために、
 重い十字架を背負って歩いた。
 そして私達の罪を贖うために、
 ご自分の命を捨てて捧げて下さった。
 私達のために。」


「・・・・」


「だから
 私達もイエスに倣って
 自分を捨てて、
 自分の十字架を背負ってイエスに従って行く。
 イエスがご自分を私達に捧げて下さったように、
 私達も自分を捨てて神様と人々に自分を捧げる。
 お父さんが洗礼式で牧師先生に応えて
 "はい。"と自分の口で言う。
 それにはこれだけの意味があるんだよ。」


あの・・・
じじ、何か涙拭いてんですけど。
まさか感動したか?
眠くなったのか?
今日はこれにてお開き。

2月23日(土) その2.マルコ7;24~37

2008-02-23 23:47:49 | マルコ
テーブルの下のパンくずの箇所だ。
ブログ仲間のまるがりたさんも私も
ここからブログタイトルを貰ったのだ。


「ここに出てきた女は、
 イエスにとっては外国人だよ。
 イエスはこれまでに、
 イスラエルの人々に教えたり病気を治したり、
 イスラエルの宗教的指導者達を批判したりしてきたけど
 イスラエル人にとって外国人は神の救いの圏外、
 対象外だったんだよね。
 イエスも始めはこの外国人の女を断ってるでしょ。」


「宗教とはそういうものか。」


「ユダヤ教は一民族の宗教だったからね。
 しかもイスラエルは
 宗教的に堕落してしまっていたから
 イエスはまずイスラエルの人々に
 悔い改めて本来の神への信仰に戻るように教えてた。
 本来救うべき人達を差し置いて
 外国人を救う事はしないとイエスは断ったんだ。
 子供の食べ物を取り上げてまで
 犬にはやらないというのはそういう事。」


「ふん。」


「でも、この外国人の女はあっぱれでしょ。
 "自分は犬ですが、
  犬も子供の食べかすを頂きます"と言った。
 自分のプライドを捨てて救いを求める姿勢だよ。
 立派だと思わない?
 イエスはこの人の信仰を認めて子供を癒して下さった。」


「そうか。」


「お父さん、私達も外国人なんだよ。
 聖書ではユダヤ人以外は皆外国人。
 この外国人の女の願いを聞き入れたところから
 ユダヤ人以外の私達外国人にも
 救いの門が開かれるようになった。
 この女の信仰の姿勢は私達にとって重要なんだよ。」


「へぇ。」


"開け"の箇所。
耳の聞こえない、話せない人の癒し。
イエスがその人の耳に指を差し入れ、
指に唾をつけてその人の舌に触れると、
たちまち聞こえ、話せるようになった。


「これも癒しの奇跡だね。
 口止めしてもそりゃあ余計に喋りたくなるさ。
 だって話せるようになったんだから。」


「そうだなあ。(笑)」


「耳が聞こえないと言うのは、
 心が閉じてしまって
 神様の言葉を聞いても
 心に響かない状態の事だとも聞いた事がある。」


「ほう。」


私達の心が神に向かって常に開かれるように祈ろう。
という訳で本日はお開き。

2月23日(土) その1.マルコ7;1~23

2008-02-23 23:27:02 | マルコ
律法学者やファリサイ派の人々が
堅く守っていた戒律について。


じじは、
イエスの奇跡や癒しには
ちょっと距離を置いて退きながら見ている様子だが
イエスが律法学者・ファリサイ派に対して
批判を展開する場面に対しては非常に食い付きがいい。
信仰に対するイエスの姿勢に納得してるのか、
もっともだ、もっともだと頷きながら
私の話を聞いている。


「当時の宗教的指導者達は
 戒律をがっちり守っていて、
 戒律を守る事によって救われる、
 戒律を守らなければ
 呪われて地獄に落ちるというものの見方をしていた。
 その戒律というのが物凄く細かくて
 人々の普段の生活や行動を厳しくこまごまと制限した。
 だから安息日も、
 "週一回、
  安息日には休んで疲れを取りなさい"ではなくて
 "安息日には仕事をしてはならない、
  ○○をしたら仕事とみなす、
  この戒律を破ったら石打ち刑"とか、
 そういう規則で人々の生活ががんじがらめになってた。
 戒律は破ったら処罰されるか場合によっては殺された。
 イエスはそれが信仰か?と突っ込みを入れたから
 宗教指導者達から反感を買ったんだよ。」


「今の世の中もそうだなぁ。
 何でも法律通りで済まない事が多いだろう。」


「うん。
 今の日本では法律を新しく作ったり
 改正したり出来るけど
 当時のイスラエルでは法律と宗教が一緒だった。
 法律は神の掟で絶対だった。
 世相に合わせて改正するなんてあり得なかった。」


「そうか。
 どこの世界もそうだろう。」


「うん。
 でもここでイエスは、
 神様は本当はそんな事を言っているのではない、
 戒律だけ守って安心する指導者達の
 本末転倒ぶりを指摘してるね。
 指導者達は口先だけで神を敬いながら
 内心では神様と全然かけ離れた事をやっている、
 と暴いてるんだよ。」


「うん。
 そうだな。」


「ここでイエスが上げてる具体例は
 お父さんと私とに置き換えてみれば
 全くその通りでしょ。
 もし私が戒律通りにお父さんの分も献金しました、
 だからもう買い物にも行かないし
 食材の補充もしない、
 ケアマネやヘルパーやデイケアとの連絡もしないし
 お茶も珈琲も入れない、
 車椅子具合も見ない、
 あれもしないこれもしない、ここにも来ない、
 お父さんの分も献金したので何もしません、
 というのと同じでしょ。」


「(笑)そうだなぁ。」


「私がもしそんな事をしたら、
 お前それでも本当にキリスト教徒か、
 どういう神を信仰してるんだって思うでしょ。
 それと同じ。
 イエスの時代のイスラエルの宗教的指導者達は
 それでよしとしていた。
 どうしてかというと、
 献金さえちゃんと寄越せば後はどうでも良かったんだね。
 献金は彼らが私腹を肥やす財源だったから。」


「そんな事になったら宗教も終わりだな。」


「うん。
 だからイエスがここで言ったんだよ。
 "あなたたちは、
  受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。"」


「全くその通りだと思うなぁ。」


「もともと神様は人間を大事に、
 慈しんでおられるのに、
 その神への信仰の専門家や指導者達が
 見当違いな方向に脱線して私腹を肥やして
 人々を救うどころか苦しめている、
 そういう現実があったんだね。」


「そうだな。」


「でも、
 イエスからの時代から2000年経った今に至るまでの
 長い時間の間に、
 キリスト教徒だって同じ間違いを積み重ねてきた。
 中世の異端審問もイラク戦争も。
 だからここに出て来るユダヤ教指導者達の事は言えない。」


「うん。」


「イエスは、
 律法学者やファリサイ派が特にこだわる
 "汚れる・汚れない"について、
 汚い茶碗でものを食べようと、
 ばばっちい手で食べようと、
 何を食べようと、
 食べた物は腹に入って便所に出されるだけで
 人間を汚したりはしない、
 人間の口から出る言葉が人間を汚すのだと
 はっきり言ってるよね。
 言葉は人間の心から出て来るから。
 イエスは戒律を遵守する事よりも
 心が大事だと言ってるのさね。」


「うん。うん。
 なるほどなぁ。
 全くその通りだ。」


じじ、
やたらと納得してしきりに頷いている。
わかってんのかな。
どうよ。

2月22日(金) マルコ6;1~56

2008-02-22 22:49:50 | マルコ
イエスは故郷のナザレで受け入れられず
ごく僅かの病人を癒しただけだった事。


「ナザレでは
 イエスを小さい頃から知ってる人達がたくさんいて、
 "あの貧乏大工の倅が何を偉そうに喋ってんだ"って
 ちゃんと正面から受け止めて聞く人がいなかったんだと。」


「そうだな。
 そういうものだ。」


「有名人の地元では知り合いという人が
 インタビューに出てたりするのと同じだね。
 "あの人は昔洟垂れガキでよくおねしょしてた"とか。
 イエスが神の話をしても何の話をしても
 そういう地元の人々にとっては
 小さい子供だった頃からよく見かけた
 近所のイエスとしてしか見る事が出来なくて
 イエスの話す事の中身に注目出来なかった。
 神の救いを説いてもナザレの人達は
 自分達の目先の近所のイエスとしてしか
 見る事が出来ないから
 福音が心に伝わらなかった。」


「世の中ってそういうものだなぁ。」


12人の弟子達を派遣した事。


「旅の準備もせずに
 何も持たないで伝道の旅に出なさいって。
 弟子達は物を持たずに出かけて行って、
 イエスと同じように悪霊を追い出したり
 病人を治したりしたんだって。」


「ほぉ。」


じじ、
また首をかしげている。


「何も持たないで行けという事はさ、
 神の救いを宣べ伝えるために
 予め必要な物の揃った、
 条件の整った所で働くんじゃなくて
 何も持たない無い所で
 貧しい中で神様のために働く、
 神様の力に頼って働けって事なんだよ。」


「へぇ~」


・・・・・・・orz


バプテスマのヨハネの斬首について。


イエスが評判になってくると、
人々は預言者だと噂した。
ヘロデだけは違った。
自分が殺したバプテスマのヨハネが生き返ったと恐れた。


「殺人者の心理だね。
 ヘロデは自分の兄弟の女房を寝取った。
 本来ならユダヤの律法では死刑に相当する罪だよ。
 だけどヘロデは権力者だからね。
 女の方も妃の地位に居座って私腹を肥やしていたけど
 バプテスマのヨハネに姦淫罪を指摘されて恨んでいた。
 この女は自分の娘にヘロデと客の前で踊りを踊らせて
 褒美にヨハネの首を盆に乗せてくれと言わせた。」


「何だかひどい話だな。」


「そう。
 自分で手を下さないのさね。
 ヘロデはヨハネを殺したくなかったけど
 客の手前、自分のメンツもあるし、
 約束通りヨハネの首を刎ねた。
 首は娘に渡されて、娘から母親に渡された。
 聖書には、特に旧約聖書には何人かこんな
 則天武后や西太后みたいに残忍な女が出て来るよ。」


「ほぉ」


食い付きいいな。
じじは歴史大好きだから。


5つのパンと2匹の魚の増加について。
じじ、ここも笑って首をかしげている。


「何だかよくわからんな。」


「イエスが祈って裂いた5つのパンと2匹の魚で
 男だけもで5000人が満腹したというから
 女子供も数えたら倍以上の大勢の群集だったはず。」


じじ、笑っている。


「わからない所は知ったかぶりしないで
 そのまま一礼して通り過ぎるんだよ。
 現代人の私達には理解するのは難しいのさ。
 だから、私は深く追求しないで
 ああパンと魚が増えたのねって先に進むのさ。」


イエスが湖の上を歩かれた事。
ここも、じじは笑って首をかしげている。
イエスは何故湖の上を歩いたか。
ううう。
私はあれを喋りたい誘惑に駆られた。


「イエスの弟子達は漁師やってたりして
 泳げる人もいたけど
 イエスは大工だったから
 泳げなかったので湖の上を歩いたのかも。。。
 という話を私は某所で最近聞いたよ。
 ・・・・そうして湖を渡ると、
 向こう岸の地方でも人々はイエスを追って
 病人連れて癒して貰おうとしたんだって。」


じじ。
そんなに愉快そうに笑ってんじゃないよ。
はい今日はこれでお開き。

2月21日(木) その3.マルコ5;35~43

2008-02-21 22:59:24 | マルコ
服に触った女の所で足止めされているうちに、
行こうとしていた先の
会堂長ヤイロの娘が死んだという知らせが来た。


「恐れることはない。
 ただ信じなさい。」


じじ、
首をかしげている。


「イエスがその家に行くと、
 子供が死んだので皆して泣いてたのさ。
 イエスは泣いている人達に、
 "子供は死んだのではない、眠っているだけだ"と言った。
 そしたら皆して嘲笑ったんだと。」


「そうだろうな。」


「で、
 イエスが子供の手を取って名前を呼んで
 "起きなさい"と言ったら
 子供はすぐに起きて歩き出したんだって。」


「へーぇ」


笑ったなじじ。
笑いながら首かしげてるぞ。


「皆びっくりしたさね。」


「そうだろうな。」


「この奇跡がどんな風に起こって
 どんな風に子供が死んで生き返ったのか
 現代の私達には想像するのは難しいんだけど、
 何か食べさせるようにとイエスが言ったのは、
 子供が本当に生き返ったのだと私は思うのさ。」


「ふん。」


「食べるという事は生きている事の証明だからね。
 死体がただ機械的に動き出したのではなくて、
 この子供が本当に
 現実に生きて再び普通の生活をするようになった。
 それをイエスは言い表してる。」


「・・・」


「"ただ、信じなさい"というのは、
 死んだ者が本当に生き返ったのかどうかとか
 何でどうして生き返るのかとか
 医学的にどんな根拠で生き返るのかとか、
 そういう枝葉に脱線しないで
 救われた現実を確信して
 そこから目を逸らすなという事だと
 私は個人的に受け止めている。」


「・・・」


じじわかるかな。
わっかんねーだろーな。
いいんだ無理にわかろうとしなくて。


「"ただ信じなさい"という事は、
 死人が科学的にどうやって生き返るかよりも
 今現実に自分が
 神様から生かされて生きている事に注目して
 その現実を認める事だと思うのさね。私は。」


「うーん。・・・」


じじ、
聖書のページに目をやったまま固まった。
話がじじにとって難しくなったので
今日はお開き。

2月21日(木) その2.マルコ5;21~34

2008-02-21 22:45:07 | マルコ
イエスが会堂長ヤイロの
死にそうな娘の所へ行こうとした時、
誰かが服に触れた。


「イスラエルでは
 生理の期間の女は汚れているとされていた。
 汚れている期間は行動が制限されてた。
 この女は12年間も
 ずっと出血が止まらなかったというのは
 ずっと汚れた期間のままで
 ユダヤ人社会から弾き出されていたって事だよ。
 何か婦人科の病気だったと思うけど
 いろんな医者にかかっても治らなくて
 全財産使い果たして絶望的な状態だった。」


「今の時代でもそういう事はたくさんあるな。」


「そうだよ。
 癌でも難病でも何でもいろんな病気で
 今でもこういう事は普通にあるね。」


「そうだ。」


「この女は、
 大勢の人が押し寄せて揉みくちゃになりながら
 せめてイエスの服だけでも触れたら治して貰えると
 信じてたのさ。
 イエスはこの女にとって万策尽きた最後の望みだった。」


「うむ。」


じじ、頷いてる。
病人が癒される奇跡は理解出来なくても
切実に神の救いを求める人間の気持ちに
少しでも共感出来たらいいと私は思う。


「お父さん、イエスは
 イエスだけを切実に信じて来た人の事はわかるんだ。
 だから大勢に揉みくちゃにされていても
 その女が自分の服に触った事に気づいたんだと思う。」


「そうだな。」


えっ!?
じじも共感するのか。
びっくり。想定外だ。


「お父さん、
 自分の服に触った事のがこの女がだと
 イエスは知ってたと思わない?
 私はイエスは知っていたと思うよ。
 イエスは知ってて、
 "触ったのは誰か"と言って見回したと思うのさ。
 これは私が読んで思った事だけどね。」


「ふん。」


「この女はイエスの服に触れて、
 自分の病気が治った事に気づいた。
 それで"やった♪ラッキー!"とか言って
 知らん振りして隠れて立ち去る事も出来たけど、
 この女はそうしないで名乗り出た。
 イエスは名乗り出た女に言ってる。
 "あなたの信仰があなたを救った"
 イエスは女が自分から名乗り出るのを待ってたと
 私は思うのさ。」


「そうかな。」


「私はそう思うのさ。
 牧師先生にもどうなのか聞いてみてよ。
 イエスにただ病気を治して貰って終わりではなくて
 自分の口で神と人の前で宣言する事が
 大事なんじゃないかな。
 "私はイエス様を信じて癒され、救われました"とね、
 皆の前で自分の口で言い表す。
 イエスはそう告白した女に
 "あなたの信仰があなたを救った"って言ってくれた。」


「うんうん。」


わかってんのかなじじ。
何だかしきりに頷いてるけど。
どうよ。


「だから、
 病気さえ治れば、
 願いさえ叶えばハイめでたし、ではなくて
 この女のように自分の信仰を自分の口で言い表す事が
 大切なんだよ。
 お父さんも
 これから洗礼式の時には牧師先生から言われたように、
 自分の口で
 "イエス・キリストを信じます"と言わなければならない。
 それと同じだよ。」


「そうか。」


「そうだよ。
 イエスは自分から信仰を言い表した人に対して
 "あなたの信仰があなたを救った。
 安心して行きなさい。"と言って下さるのさ。」


「なるほどな。」


「だから自分の口で
 人前で信仰を言い表す事が大事なんだよ。
 お父さんは洗礼式の時にそれをするんだ。」


「・・・」

2月21日(木) その1.マルコ5;1~20

2008-02-21 22:24:09 | マルコ
ゲラサの悪霊憑きの箇所。


この箇所を読んで、
じじにちょっと私の仕事話をした。
墓場を住まいとするこの人は、
枷や鎖で縛られていたが
鎖を引きちぎり、
枷を砕くほど暴れていた。
自分も回りもずいぶん傷つけた事だろう。


「この人はさ、
 今で言う心の病気の人だね。」


「そうだな。」


「私はこういう興奮状態の人と
 仕事で出遭った事が何度もある。
 危ないんだよ。
 手近な物を何でも、
 事務用品でもタオルでも凶器にする。
 筆記用具を迂闊に出しといたら奪い取られて
 危うく刺されそうになった事も何度かあるし、
 一緒に夜勤やってた人は私が別の人と一緒に
 他の患者さんを見ている間に押し倒されて
 首絞められてた。
 危機一髪で引き離したけどね、
 朝になったら嘘みたいに正気に戻って
 "お早うございます"って挨拶してくるのさ。
 精神科の病院でなくてもよくそういう事があったよ。
 誰でも極度の不安とか夜間譫妄とか
 いろんな原因でこの人みたいになるのさ。
 でもそれはその人の本性ではない事を私達は知ってる。
 聖書のこの箇所を読むと、
 そういう状態だった患者さん達の事を思い出すよ。
 凄まじい状態なんだよここの箇所は。」


「ほぉ。」


「イエスが命令すると、
 悪霊はこの人から出て豚の群れに入って、
 崖から湖に雪崩込んで豚全部溺れ死んでしまった。
 後にはこの人が正気に戻って座ってた。」


じじ、
笑って首をかしげている。


「悪霊の名前は"レギオン"と言ってるけど、
 レギオンは軍団という意味だよ。
 何百何千という連隊が集まって師団になって
 それも集まって軍団になるでしょ。
 一人の人にそれだけたくさんの悪霊が憑いてた。
 家族はとてもじゃないけど一緒になんて暮らせないし
 回りにもたくさん迷惑かけて村八分とか爪弾きにされて、
 それで墓場にいたんじゃないかな。」


「そうだな。
 こんなのが家にいたら大変だ。
 皆ケガしてしまう。」


「うん。
 家族もバラバラになるだろうし。
 苦しむだろうねこの人も家族も。」


「そうだな。」


「お父さん、悪霊というのは、
 人を神様から引き離してばらばらにする力だよ。
 人が神様を信じられなくなって神様から引き離される、
 人が人を信用出来なくなって信頼関係も愛情も無くなる、
 信じる心を神様から引き離してバラバラにする力。
 私達は常にこれと戦わなければならないんだ。」


「・・・・・」


じじ、
考え込んでるな・・・。


「私達を神様から引き離して
 信じられなくしてしまう物事はたくさんあるからね。
 いろんな出来事とか心配事とか悩み事とか。」


「そうか。
 そうだな。」


「墓場で暴れていた人は
 元からそんな人だった訳ではないと私は思うよ。
 苦しみに負けて
 神様から離れてしまっていたと思うのさ。
 いや、負けるさね。
 この人一人の力でなんて勝てないよ。
 だって大勢の悪霊がこの人一人に憑いていたんだもの。」


「そうだな。
 それは大変な事だ。」


「イエス様を遠くから見て、
 走り寄って来てひれ伏したのは
 助けて貰いたかったんだろうね。
 でも助けて貰いたいのに"かまわないでくれ"って
 滅茶苦茶に混乱してる。
 この人は本当に苦しんでいたと思わない?」


「そうだなぁ。」


「イエス様はその悪霊の軍団をこの人から引き離して
 豚の群れに入らせた。
 豚というのは、
 イスラエル人にとって汚れた動物とされているんだよ。
 聖書のこの始めの方にその戒律が書いてあって、
 豚を食べてはならない、
 食べた者は汚れると書いてあるのさ。
 ユダヤ教の人はそれで豚を食べない。
 食べると汚れるから。
 ここに出て来る豚飼いという仕事は
 イスラエルの中では底辺、最下層の、
 蔑まれた最低の職業なんだって。」


「へぇー」


「豚飼ってた人達は貧しかったろうね。
 イエスが悪霊に憑かれた人から悪霊を追い出して
 飼ってた豚に乗り移って
 豚2000匹全滅してしまった。」


「そりゃびっくりするだろうなぁ。」


「びっくりしたさぁ。
 それで街の人々はイエスに出て行ってくれって。」


「そうだろうな。」


「悪霊に取り憑かれていた人は、
 正気に戻って、
 イエスと一緒に付いて行きたいと言ったけど
 イエスは"家に帰りなさい"と言った。
 悪霊に取り憑かれて以来
 ずっと家に帰ってなかったんだろうね。
 家族とも社会とも切り離されたままだった人を、
 イエスは家族の中に帰らせて、
 社会復帰して家族や周りの人と一緒に暮らす事を望んだ。」


「うむ。」


「家庭にも社会にもちゃんと復帰して
 神様が癒して下さった事を言い広めなさいって事。
 悪霊を追い出して貰って正気に戻って
 そのままイエスと一緒に行っても
 バラバラになった家族は元に戻らないし
 悪霊に憑かれて暴れていた人が正気に戻った事に
 回りの人が気づかないままになってしまうからね。
 救われた人は自分が神様に救われた事実を
 周りの人に示して証しなければならないのさ。」


「ふぅん。
 そういうものか。」


「そういうものだよ。
 教会で"証しする"と言うのは
 自分が救われた事を皆の前で言い表す事なのさ。」


じじ、
話の途中しきりにルーペで聖書を見ていた。

2月16日(土) マルコ4;1~41

2008-02-16 23:34:32 | マルコ
種蒔きの譬。
じじにとっては理解し易い譬だったのか、
よく頷いていた。

「お父さん、ここはわかり易いよね。
 種を蒔く人は、イエス・キリスト。
 種は神の言葉。
 種の落ちる土は私達の心。」


「うん。
 そうだな。」


道端に落ちて鳥に食べられてしまった種。
蒔かれてすぐ、
芽も出さないうちに悪魔に盗られて失われる。
神の言葉を聞いても受け入れず、実らない。


石だらけで土の少ない所に落ちた種。
すぐに芽を出すが、
浅い土の上で根が伸びず日に焼けて枯れる。
神の言葉を聞いてすぐ喜んですぐ受け入れるが、
心の深い所に根付いていないので試練が来ると負けて
福音を手離してしまって、実らない。


茨の中に落ちた種。
茨のある土地で芽を出しても茨に邪魔されて伸びない。
神の言葉を心に受け入れても、
生活の苦労や金やいろいろな誘惑に邪魔されて、
実を結ばない。


良い土地に落ちた種は、
芽生え、成長して実を結んで、
30倍、60倍、100倍もの収穫になった。
神の言葉を聞いて受け入れ、たくさんの実を結ぶ。


神の言葉を受け入れる良い土地。
素直で従順な心。
神様の憐れみ、慈しみ、愛を自分の心に受け入れて
自分もそれに習い、従って生きる。


「イエス・キリストを救い主と信じる事は、
 イエス・キリストに習って、
 イエス・キリスト従って生きる事だと
 私は教えられた。
 自分の心が良い土地であるように願うよ。
 キリストに習って生きると、
 私達の生活にはたくさんの障害があるからね。
 試練に負けないように、
 キリストを見失わないようにしなきゃと思う。」


「そうか。」


イエスの譬話。


「聞く心を持つ人にだけ、
 わかるように話されたって事だと思うのさ。」


「うん。」


「回りを照らして明るくするためのともし火を
 わざわざベッドの下に置いたりしない、
 皆が見えるように置く。
 このともし火も神の言葉だよ。
 イエスは皆に聞こえる所で神の言葉を話すのだから
 聞く耳のある者、
 聞く心のある人は聞きなさいって。
 自分が何を聞いているか注意しなさいって。」


「そうだな。」


「私達はイエスを通して神様の言葉を聞いてるのさ。
 だから素直に聞く耳を持って、
 イエスに素直に聞いて
 教えを受け入れる心を持って聞きなさいって。
 その心を持っている人には
 神の言葉が恵みとしてさらに与えられるけど
 イエスに聞く心を持っていない人からは
 持っている僅かな恵みも取り上げられるって。
 だから聞く耳のある者は聞きなさいって
 イエスは言ったんだきっと。」


「なるほどな。」


「イエスの話を聞きに集まった人々は
 きっと農民が多かったんだろうね。
 だから種蒔きに譬えて
 わかりやすいように説教したんだろうね。
 聞く人達の聞く力に応じて話したんだ。」


「そうだな。
 わかり易いし面白いな。」


面白い。
じじ、それはよかった。


成長する種の譬とからし種の譬。


人が土に種を蒔いて、
知らない間に種は芽を出して成長する。
どうしてそうなるのか、その人は知らない。


「お父さん、
 ここの箇所はお父さんの事を言ってると思うよ。
 お父さんが若い頃に
 バプテストの教会員だったHさんと職場で出合って
 チラッとだけ聞いた聖書の話とか、
 再就職先でカトリック信徒のNさんもN社長さんと出合って
 チラッと垣間見た人に対する姿勢とか、
 その人達はイエスの教えを身をもって
 お父さんに表現して示していたと私は思う。
 お父さんはその人達の事を
 何十年も経った今になってもちゃんと憶えている。
 HさんもNさんも
 目立たない所に小さな種を蒔いてたんだ。
 それが何十年も経った今になって芽を出して、
 お父さんが教会に行くようになって
 洗礼を受けようとしている。
 でもHさんもNさんも、
 まさか今こんな所でお父さんが教会につながって
 洗礼受けようとしているなんて全然知らないと思う。」


「そうだな。
 HさんもNさんも
 知ったらきっとびっくりするだろうな。」


「びっくりするさぁねぇそりゃ。
 蒔かれた種はからしの種に譬えられるほど
 小さい粒だけど、どんどん成長して
 枝に鳥が留まって巣を作れるほどになる。
 イエスが2000年前に蒔いた種が
 この2000の間にどれだけ大きくなって
 どれだけ実を結んだか、考えたら凄いと思わない?
 目立たない貧乏な大工の息子だったイエスが
 十字架で死を遂げて、復活して、
 その教えが2000年経った今、
 世界中に広がったんだもの。」


「すごいなあ。
 何処でどんな事になるか、
 わからないものだなあ。」


イエスの不思議な力について。


「小船の上から説教して、
 その後夕方になって漕ぎ出したら
 風で小船が転覆しそうになって、
 弟子達は慌てた。
 イエスは寝てたんだって。
 弟子達が転覆する転覆するって
 慌てふためいたので、
 イエスは"黙れ。静まれ。"と言ったら、
 風も波も静まったんだって。」


「ほほー」


「イエスは弟子達が
 信じ切れない恐れを心に抱いた事を叱ったんだよ。
 完全にイエスを信じ切っていれば
 恐れる事はなかったけど、
 弟子達は誰もそこまで信仰強くなかったのさね。」


「そうだな。
 船が沈没したら溺れて死ぬからなぁ。」


「じゃ、どうすれば良かったかというと、
 しばらく前にインターネットのラジオで聴いた、
 カトリックの神父様の話では、
 弟子達も風とか波とかに気を取られていないで
 イエスと一緒に船の上で寝てたらよかったんだって。」


「そうか。
 それはいいな。」


「信仰者になったって
 人生全てがうまくめでたく万々歳ではないって事さ。
 いろんな困難や試練に遭うから。
 でもそういう時にも目の前の事に動揺しないで
 神様に信頼し切って自分の人生を委ねろって事だよ。
 信仰を強く持つという事はそういう事なんだねきっと。」


「う~ん。」


じじが感慨に浸ったところで
本日はお開き。

2月16日(土) マルコ4;1~41

2008-02-16 22:45:51 | マルコ
種蒔きの譬。
じじにとっては理解し易い譬だったのか、
よく頷いていた。

「お父さん、ここはわかり易いよね。
 種を蒔く人は、イエス・キリスト。
 種は神の言葉。
 種の落ちる土は私達の心。」


「うん。
 そうだな。」


道端に落ちて鳥に食べられてしまった種。
蒔かれてすぐ、
芽も出さないうちに悪魔に盗られて失われる。
神の言葉を聞いても受け入れず、実らない。


石だらけで土の少ない所に落ちた種。
すぐに芽を出すが、
浅い土の上で根が伸びず日に焼けて枯れる。
神の言葉を聞いてすぐ喜んですぐ受け入れるが、
心の深い所に根付いていないので試練が来ると負けて
福音を手離してしまって、実らない。


茨の中に落ちた種。
茨のある土地で芽を出しても茨に邪魔されて伸びない。
神の言葉を心に受け入れても、
生活の苦労や金やいろいろな誘惑に邪魔されて、
実を結ばない。


良い土地に落ちた種は、
芽生え、成長して実を結んで、
30倍、60倍、100倍もの収穫になった。
神の言葉を聞いて受け入れ、たくさんの実を結ぶ。


神の言葉を受け入れる良い土地。
素直で従順な心。
神様の憐れみ、慈しみ、愛を自分の心に受け入れて
自分もそれに習い、従って生きる。


「イエス・キリストを救い主と信じる事は、
 イエス・キリストに習って、
 イエス・キリスト従って生きる事だと
 私は教えられた。
 自分の心が良い土地であるように願うよ。
 キリストに習って生きると、
 私達の生活にはたくさんの障害があるからね。
 試練に負けないように、
 キリストを見失わないようにしなきゃと思う。」


「そうか。」


イエスの譬話。


「聞く心を持つ人にだけ、
 わかるように話されたって事だと思うのさ。」


「うん。」


「回りを照らして明るくするためのともし火を
 わざわざベッドの下に置いたりしない、
 皆が見えるように置く。
 このともし火も神の言葉だよ。
 イエスは皆に聞こえる所で神の言葉を話すのだから
 聞く耳のある者、
 聞く心のある人は聞きなさいって。
 自分が何を聞いているか注意しなさいって。」


「そうだな。」


「私達はイエスを通して神様の言葉を聞いてるのさ。
 だから素直に聞く耳を持って、
 イエスに素直に聞いて
 教えを受け入れる心を持って聞きなさいって。
 その心を持っている人には
 神の言葉が恵みとしてさらに与えられるけど
 イエスに聞く心を持っていない人からは
 持っている僅かな恵みも取り上げられるって。
 だから聞く耳のある者は聞きなさいって
 イエスは言ったんだきっと。」


「なるほどな。」


「イエスの話を聞きに集まった人々は
 きっと農民が多かったんだろうね。
 だから種蒔きに譬えて
 わかりやすいように説教したんだろうね。
 聞く人達の聞く力に応じて話したんだ。」


「そうだな。
 わかり易いし面白いな。」


面白い。
じじ、それはよかった。


成長する種の譬とからし種の譬。


人が土に種を蒔いて、
知らない間に種は芽を出して成長する。
どうしてそうなるのか、その人は知らない。


「お父さん、
 ここの箇所はお父さんの事を言ってると思うよ。
 お父さんが若い頃に
 バプテストの教会員だったHさんと職場で出合って
 チラッとだけ聞いた聖書の話とか、
 再就職先でカトリック信徒のNさんもN社長さんと出合って
 チラッと垣間見た人に対する姿勢とか、
 その人達はイエスの教えを身をもって
 お父さんに表現して示していたと私は思う。
 お父さんはその人達の事を
 何十年も経った今になってもちゃんと憶えている。
 HさんもNさんも
 目立たない所に小さな種を蒔いてたんだ。
 それが何十年も経った今になって芽を出して、
 お父さんが教会に行くようになって
 洗礼を受けようとしている。
 でもHさんもNさんも、
 まさか今こんな所でお父さんが教会につながって
 洗礼受けようとしているなんて全然知らないと思う。」


「そうだな。
 HさんもNさんも
 知ったらきっとびっくりするだろうな。」


「びっくりするさぁねぇそりゃ。
 蒔かれた種はからしの種に譬えられるほど
 小さい粒だけど、どんどん成長して
 枝に鳥が留まって巣を作れるほどになる。
 イエスが2000年前に蒔いた種が
 この2000の間にどれだけ大きくなって
 どれだけ実を結んだか、考えたら凄いと思わない?
 目立たない貧乏な大工の息子だったイエスが
 十字架で死を遂げて、復活して、
 その教えが2000年経った今、
 世界中に広がったんだもの。」


「すごいなあ。
 何処でどんな事になるか、
 わからないものだなあ。」


イエスの不思議な力について。


「小船の上から説教して、
 その後夕方になって漕ぎ出したら
 風で小船が転覆しそうになって、
 弟子達は慌てた。
 イエスは寝てたんだって。
 弟子達が転覆する転覆するって
 慌てふためいたので、
 イエスは"黙れ。静まれ。"と言ったら、
 風も波も静まったんだって。」


「ほほー」


「イエスは弟子達が
 信じ切れない恐れを心に抱いた事を叱ったんだよ。
 完全にイエスを信じ切っていれば
 恐れる事はなかったけど、
 弟子達は誰もそこまで信仰強くなかったのさね。」


「そうだな。
 船が沈没したら溺れて死ぬからなぁ。」


「じゃ、どうすれば良かったかというと、
 しばらく前にインターネットのラジオで聴いた、
 カトリックの神父様の話では、
 弟子達も風とか波とかに気を取られていないで
 イエスと一緒に船の上で寝てたらよかったんだって。」


「そうか。
 それはいいな。」


「信仰者になったって
 人生全てがうまくめでたく万々歳ではないって事さ。
 いろんな困難や試練に遭うから。
 でもそういう時にも目の前の事に動揺しないで
 神様に信頼し切って自分の人生を委ねろって事だよ。
 信仰を強く持つという事はそういう事なんだねきっと。」


「う~ん。」


じじが感慨に浸ったところで
本日はお開き。

2月15日(金) その3.マルコ3;20~35

2008-02-15 22:25:42 | マルコ
次行こう。
ベルゼブル論争について。


「親戚連中が皆して
 イエスを取り押さえに来たんだって。」


「そうだろうな。
 頭がおかしくなったと思ったんだな。」


「うん。
 何せ貧乏な大工の息子が
 突然神様の話をし始めて、
 病人を癒したり悪霊を追い出したり
 律法学者に喧嘩売るような事を言ったり
 群集に向かって説教するようになったんだから。
 お父さんどうする?
 井上家の遠い親戚の息子の誰それが
 いきなり全国を旅して
 神様の話をし始めて新興宗教の教祖様になって
 マスコミに騒がれたりしたら。」


「どうするかな。
 それはびっくりするなぁ。
 慌てるだろうな。」


「イエスの親戚という人達だっていたからさ、
 そうだったと思うよ。
 野次馬とかケチつける人達とか、
 騒ぐ連中はたくさんいただろうしね。」


「そうだなぁ。
 今でもそういうのよくあるからなあ。」


「大体騒ぐ人はさ、
 何やったって騒ぐし噂する、
 ケチつける人は
 イエスが病人を癒さなかったら
 インチキだってケチつけたろうし
 癒したら癒したで
 悪霊に取り憑かれてあんな事やってるんだとか
 どっちらしろケチつけたのさね。」


「世の中とはそういうもんだな。」


「イエスはそれに対してはっきり反論してるね。
 人間が犯す罪を、
 神様は何でも寛大に許して下さる、
 でも神様の霊を愚弄する罪は決して許されないって。」


イエスの母、兄弟について。


「イエスの母親も兄弟姉妹も、
 あんたんちの倅が騒ぎを起こしてるって
 きっと親戚中から責められてたんだろうね。
 心配してやって来たんだきっと。
 そしたらイエスは
 "わたしの母、わたしの兄弟とはだれか"って。
 お父さん、イエスのこの言葉を薄情だと思うかい?」


「・・・・」


じじ、考え込んでいる。


「イエスは
 私達が家族と呼んでる一般的な血縁の家族を
 否定したのではないと思うんだ。」


「何だかよくわからんな。」


「人間が生まれてきて育てられる、
 この世の家庭とか家族も、
 神様が与えて下さったものだよ。
 でも、
 イエスがここで言っている家族は
 血縁があろうと無かろうと、
 神様の御心を行う人は皆、
 イエスの兄弟姉妹、母だと言ってる。
 教会で、
 教会員同士がお互いに
 兄弟姉妹って呼び合ってるの、聞いた事あるでしょ。
 気づかなかったかな。」


「そうだったかな。」


「そうだってば。
 今度教会に行ったら皆の会話をよく聞いてごらん。
 教会は家族なんだ。
 お父さんが洗礼を受けて教会員になるという事は
 教会の家族の一員になるという事だよ。
 イエス・キリストを頭する家族の一員にね。
 家族は皆で祈り合って協力し合って支え合っている。
 楽しい事も苦しい事も何でも皆で分かち合っていく、
 教会とはそういう家族だと
 私は洗礼を受けた教会で教えられた。
 今、お父さんが行ってる私達の教会も同じだよ。」


「教会とはそういうものか。」


「そうだよ。
 洗礼を受けて教会員になるという事は
 教会の家族の一員になる事だよ。」


じじが
感慨深げな顔で聖書の頁を捲ったところで、
主の祈りを唱えて、お祈りして、
本日はお開き。