拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

 素一致(2)〜公案という十字架を背負って

2021年07月29日 | 観自在

  昨日スイッチの話をした。 そうすると『素一致』が入ってしまった。

  スイッチを入れるとは、別に例えれば『鍵』と『錠前』がピッタリと合った時に開かれる状態。

  つまり、『問』と『答え』のようなものか・・・。 問の無いところに答えも無いという。

  

  禅修行を始める前、私は予感がしていた。 下手したら『泥沼に入るこむのではないか』・・・と。

  で、かなり用心していたにも関わらず結局、『泥沼』にすっかり足を突っ込んでしまった。

  私は禅と出会うまで、『問』を持っていなかった。(というか、顕在化していなかっただけ)

  禅と出会うことで無理くり『問』を持たされた・・・という感じだった。

 

  5年ほど円覚寺の居士林で『数息観』をした後、最初はニューヨークに住むつもりで日本を飛び出たが、水に合わずヨーロッパへ渡った。

  このときは2度目のヨーロッパで、1度目はスイスのみの短期滞在であったからヨーロッパ各地を旅してみた。

  ヨーロッパの旅というのは結局、有名な教会を訪ね歩くことだったが、私にとってスペインで見た『十字架のキリスト』が強烈であった。

  キリストの頭部の茨の棘による流血・・・はリアルで、その時点で、禅の公案を持っていなかった私に『公案』を持つことを促したのは

  多分、今思うと『十字架のキリスト』ではなかったかとおもう。(実は今までそんなふうに考えたことはなかったのだが…)

  ヨーロッパ滞在一年後、私は日本に帰国し円覚寺に直行して、老師の弟子となり『公案』を頂き参禅することになった。

  

  有名な公案『香厳撃竹大悟』(これについては私のブログ2018年1月22日に委細が記してあった)を初めて読んだ時、

  私は多分、あまりのこの公案の重いことに、『十字架を背負ったイエス』を思ったことだろう・・・。

 

  私はいま昔スペインでみた『十字架のイエス』の問いかけ、『何故私は十字架を背負うのか?』・・・がわかる。

  それは『スイッチ』で『素一致』した瞬間だった。『イエス!』 これでようやく、私自身がヨーロッパに来た理由がわかった。

        

         ニコルと出逢った頃、ニコルが描いた『十字架のイエス』

           

  



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