拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  如是我聞(ニョゼガモン)

2022年04月12日 | 観自在

  私の『悟学』で使用する言葉の必須条件は、まず『カッコいい』ことであること。

  それと『考えるな、漢字ろ!』を謳っている関係上それは必然的に『漢字』になり、仏教語を使わずに

  現代人に仏教を知ってもらいたい…と思っているのに、想定外に仏教語は『カッコいい!』ため、

  自然『温故知新』的になり、再解釈に新しい『色』を付ける作業となってしまうきらいがある。  

 

  おもだった仏教経典の出だしが、この言葉で始まっている『如是我聞』…(私はこのように聞きました)

  弟子たちによって経典が編集されたのが釈迦の死後100年ぐらいだそうだが、『私はこのようにお釈迦様の教説を聞きました』

  ということらしい。が、不立文字、教外別伝の『禅』の修行をした私はこの言葉『如是我聞』は、私にとって格別深い意味を

  汲み取るべきものとなっている。

  『坐禅』も『瞑想』も行き着くところは『如是我聞』で、『無なる自分』を『観音』として聞き取る修行といえる。

 

         

  人類がいまだ『文字』を持たなかった時代は、人にとって『音』は最重要事項であったに違いない。

  己を無にして『聞く』・・・『聖』の字は聞くための『耳』を強調している。

  『聖なる音』を聞く人を『音人=おとな』

  『音児=おとこ』『音和=おんな』・・・と、私たちの祖先は発音したのだろうか・・・。



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