拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  はじめての 『 遊戯三昧 』

2022年03月10日 | 観自在

  先日来ぼちぼち読んでいた 『はじめての大拙』ー自然のままに生きていく108の言葉ー 大熊 玄編 を読んでいると

  最後から2番目、107番目の言葉としてこんな事が書かれていた。

 

  『 禅とは心の底にある、無限の創造性に徹して、これに順応して動作することである。

    (中略)・・・無限の創造性は、無限の可能性と同義に見てよい。仏教ではこれを空という。

    『空即是色、色即是空』 無限に充実した、絶対的肯定である。』 (東洋の心)より

 

  私はこれまで『禅』と『創造性』とを関連付けて観たことがなかったので、ちょっとハッとさせられた・・・。

  この本をあらためてよく見ると、この本の表紙の次のページに

  『実際のところわれわれは皆、” 生きることの芸術家”として生まれてきている』…という大拙の言葉から始まっていた。

 

  本の『はじめての大拙』・・・という題名が『大拙』初心者向け感があり、『大拙』のことなら、そこら辺の奴に負けんぞ!…という

  意味のない自負心から、上から目線で読んでいたら、とんでもない。

  私にとって実に『はじめての大拙』の言葉が随所にあって、眼から鱗が何枚落ちただろうか。

 

  大拙のこの言葉『創造性』を念頭に考えるに、

  臨済禅の修行として行う、公案(禅問答)と真正面から対じして、七転八倒する数十年、解ってからの死ぬまでの数十年・・・

  『工夫』『工夫』・・・の人生は自分でも知らないうちに、『創造』する人生になっていた。

  そう考えると例えば、『古池や 蛙飛び込む 水の音』も公案を練っている(工夫している)うちに出来上がった一句であったに違いない。

  禅という大樹から様々な『工夫の枝葉=道』を伸ばして、日本の文化を創りあげてきたのだと思う。

  禅語の中でも昔から一番大好きな言葉『遊戯三昧』・・・も、そういえば『無限の創造性』というものを私達に明朗に示していたのだ。

        

           一昨日、レマン湖畔に渡って来て巣作りする鷺を一撮



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