私が高校一年の時、実母が死に、結婚したばかりの姉のお婿さん、つまり義兄が私の親権者となった。
以来、姉夫婦のところに遊びにゆくと義兄は実の弟のように可愛がってくれた。
その義兄がまだ存命中、北海道の田舎に二軒目の自宅を建て、その家をスイスから相方と一緒に訪ねた時
義兄は実に嬉しそうに『2軒目の一国一城の主になったぞ・・・』と、誇らしげに話していたのを忘れられない。
若い時の苦労が実った一つの形なのであるから、私も素直に彼等の新築の家を誇らしげに思ったものだ。
ただ私自身は、家を持つ…という事を考えることすらしたことがなく、『一国一城』をうらやましいとも思わなかった。
北海道に住み着いている姉夫婦に、私の人生の歩み、特に禅の修行のことなど話しても解らない…だろうと話していなかった。
その私も70歳になり、これまで忙しくて老人の末期など観察する暇もなかったが、相方の叔母と伯母の両方が
数年前に90歳を過ぎて老人ホームで亡くなったのを観て、少なからず驚いたのはあれほど立派な一戸建ての家に
住んでいながら、自分で歩けなくなると老人ホームのあまりカスタマイズ出来ないさっぱりした部屋で死ぬまで過ごすのを
観ていると、彼等の内心のギャップはいかほどのものであろうか・・・などと思った。
昔、坐った居士林の道場にジジイの自分をオイ・コラージュ
そういった点から考えても、できるだけ若い時に、『起きて半畳、寝て一畳』の贅沢の一切を剃り落とした修行生活を
ある一定期間、体験することはとても重要なことのように思う。
禅の修行は私に『一国一城』ならぬ『一刻一畳』の生き方を徹底的に叩き込んでくれた。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます