最近読んでた本、
現代では葬式請負業という立場に置かれた仏教についての新しい切り口を、といった内容。ボクが評価するのもおこがましい話ですが、良い本でした。興味の無い方にはつまらないと思います(笑)、仏教学上のお話なのである程度の専門知識も必要とされるとは思うのですが、我々一般人は「自己と取り巻く他者の心のバランスの関係性について」という風に捉え、読めば良い内容なのではと思います。本書の本題に触れるとまとめられそうに無いので、今日はそれで考えた事について(笑)
学校で教えられる「倫理」ってのは、人としての正道を有無を言わせず説き伏せられる感じで辟易としてしまうものですよね。しかし今までの経験や読み・見聞きした上で考えると、「倫理」というのは人が人と関わる上で両者の損得が±0になるようにする為のツール、という事なんでしょう。例えば犬はドコでもウ○コしますが(恐らく)、人はモチロンしません。または慎重に話さないとならない内容ですが・・・・・「殺人はいけない」というのも何故ダメなのかという理由を明確に言うのには結構時間を要するでしょ?「ダメなことやから」ってのはこの場合論理性に欠けますし、「残された人が悲しい」というのも説得力が無い。コレが通念として行き渡っておらず、罪にも問われないという下地であればそうはならない、、、、、ような。実際事件は絶えませんし、バレなければ良い、という思考も存在するわけで。
例を変えて、これが赤信号の場合だったら。無視したことがない人の方が少ないでしょう?立派に罪とカテゴリーされるはず。だがそれを問いただす人・機関は皆無といってよい程希薄。要は「人間社会」というコミュニティ自身が設定した「罪」という「倫理」自体が精神的危険度数の重い軽いで揺らぐ、だから危うい物に感じるのですね。「人」と「人」の関係悪化を防ぐ為に「殺人」は大罪になる、しかし赤信号を無視して渡る程度では断罪されにくい。その両方が合わさった時、赤信号を無視した歩行者を自動車で轢くと、その因子である歩行者よりも自動車の罪がクローズアップされる設定になってますよね、順序でいくと信号無視という罪をその歩行者が犯さなければ殺人という罪は起こらなかった、システムで考えると信号無視した者が根本のはず、しかしそれはそうならない。「ルール」と設定した「倫理」を無視した者がいても、それを「殺害」するとその小さな「ルール」よりも巨大な「倫理」が立ちはだかり、更に大きな「ルール」において罪に問われるんです。
それを人対人から人対生物に話を移すと、「殺牛」や「殺鶏」・「殺豚」・「殺魚」は「人間」というコミュニティを存続させる為に罪にならない「殺し」なわけです。だって「殺虫」なんて商品名ですよ(笑)。しかしコレにも各コミュニティの価値観の差異があります、「殺鯨」の場合はその最たるもので国際問題までその軋轢は発展します。日本人にとってもそういうのはあるでしょ?どこかの部族が類人猿ボノボを食べる、好い気はしない、彼等には当たり前、、、、、なんてのも。
「殺し」から離れると、同性愛や、麻薬、お金、土地etc、その時代性なんかも加味されつつ揺れ動きます。その度に人は裁かれたり、報復したり。
という具合で「倫理」感という存在はヤジロべーのようなもので、いつも左右にブランブランしてるんだと(笑)。そのブランブランは最小のコミュニティ単位になると更にブアーンッブアーンッ!とうなりをあげて激しくなるような、この場合「家族」という「血縁関係」でのコミュニティはややこしいので除外します。恋人・友人・先輩後輩・職場などですかね。「それはないやろ~」「コレは人に迷惑をかける事だ!」「コレだけは守れ、分かったな!」なんてこないだまで言ってた人が自分の利益・立場なんかの状況が良くも悪くも変わる時、相手に求めたり自分が相手に布く「倫理」が自己に対する「他者」の存在を忘れる。そして当事者・当事者に近い者は不快感を覚える。そこには憤りや悲しみ・哀れみ、果ては失望へと変わるんですね、そうすると関係修復は非常に困難になる。気付いた方が提案し易い関係であれば比較的スムーズに解消できるのですが、そうじゃない場合はなんとも言えないシコリを残すんですね。この「残す」というのが厄介で、文字通り「残念」。この「念」が頭を擡げると全ての事の運びが牛歩の如く遅々となる、そうなると更に悪循環(笑)。恋人の友人・家族を巻き込んだり、共通の友人が仲介に骨を折り、仕事はみるみる後手に回り・・・・・、小さなシコリが巨大な山と化し行く手を遮るわけです。
そうそう、いややね~ソレ。
と思った自分がそういう事をしてるんですよ、こうならない為に完璧にこなすのは超人的な努力が求められます、まさに菩薩行。しかもこちら側の努力虚しく相手が暴挙に出ると、今度は阿弥陀の如く大きな慈悲で包み込まなければならない。僕の場合、、、、、コレ言っとかないとフェアじゃないので(笑)、この「倫理」の厳守にプライオリティを設けてしまってます。友人・仕事が第一、家族・恋人(がいる場合はその異性、笑)には・・・・・最悪に甘えますネ、信頼も何もあったもんじゃない、この2者には毎日心の中で謝ってます、これホントに(笑)まあ、前の2者にも最低限のラインでのルールですが、じゃないとボクが守りきれない。だからそれを踏み外したり、土足で踏まれたりすると・・・・・「残念」な対応になってしまいます。しかしそれまでの関係性における情・愛などから期待感を持ち、そしてその期待を外されるとまさに「失望」へと発展。自分で選んだ人々は己が映し鏡、自分への反省にもなります。ここへ行き着くと完全に他人以下、他人は平気ですれ違いますが、それもしたくない為関わりを避けるようになる。これは辛い(笑)。子供の頃だとドカンと喧嘩して仲直り出来るんですが、大人になると多くのバックボーンが確立されてしまっててそうはいかない、なので自分が認める相手には敬意を払い・裏切らない事が必要とされます。
友達にそんな事まで考えるのしんどいやん・・・・・、確かに。それをしなくて良いのが友達、だからボクもベタベタに甘えてます。でも「甘え」るのと「なおざり」にするのは違う。だってコミュニティに所属してない人間、いや生物なんていないでしょ?そこを無視した時点で「倫理」を犯してしまうのですから。要は1対1の関係や国対個の関係なら「倫理」なんて糞喰らっとけば良いのですが、他者を巻き込む場合はそのサイズに合わせた「ルール」を遵守する事が不可欠なのではと。だからボクはボクが所属するコミュニティに存在する人達にはそこを大きく求めます、むしろソレだけ。だって自分の大切な人が傷ついたり、大切な人が裏切るのはみたくないでしょ?。でも例外を設けてます「同性は裏切るな」、どうです(笑)。男は男の約束を守れ、女なんて裏切ればいい。女は女を大切に、男なんて騙せるだけ騙せばいいんです・・・・・この詳細はまたの機会に(笑)。
だからボクもそう人に思わせない様に日々心掛けているつもりではあるのですが、お客様・取引先様・ご朋友各位には多大なるご迷惑を・・・・ねえ(笑)。あ、でも家族・恋愛関係者は謝りません、無償の愛が存在するはずですから(笑)
まあ、人は人に対して常に責任を負って生きていかなければならないということでしょうか?自分のことも満足に出来ない罪深き人類が地球環境なんて他のコミュニティの責任なんてもてるのでしょうか?地球からしたら・・・・「ナンヤちっちゃいの?お前ら洗い流したらそれでしまいやで。」ってなもんでしょう。コレもまた別の機会に(笑)
でもね、書き出しの犬のウ○コの事。トイレはココ!と躾けられてる飼い犬は、犬でありながら人の倫理でしか生きられない・・・・・。
幸福論は別として、最たる被害者であるような・・・・・(笑)
現代では葬式請負業という立場に置かれた仏教についての新しい切り口を、といった内容。ボクが評価するのもおこがましい話ですが、良い本でした。興味の無い方にはつまらないと思います(笑)、仏教学上のお話なのである程度の専門知識も必要とされるとは思うのですが、我々一般人は「自己と取り巻く他者の心のバランスの関係性について」という風に捉え、読めば良い内容なのではと思います。本書の本題に触れるとまとめられそうに無いので、今日はそれで考えた事について(笑)
学校で教えられる「倫理」ってのは、人としての正道を有無を言わせず説き伏せられる感じで辟易としてしまうものですよね。しかし今までの経験や読み・見聞きした上で考えると、「倫理」というのは人が人と関わる上で両者の損得が±0になるようにする為のツール、という事なんでしょう。例えば犬はドコでもウ○コしますが(恐らく)、人はモチロンしません。または慎重に話さないとならない内容ですが・・・・・「殺人はいけない」というのも何故ダメなのかという理由を明確に言うのには結構時間を要するでしょ?「ダメなことやから」ってのはこの場合論理性に欠けますし、「残された人が悲しい」というのも説得力が無い。コレが通念として行き渡っておらず、罪にも問われないという下地であればそうはならない、、、、、ような。実際事件は絶えませんし、バレなければ良い、という思考も存在するわけで。
例を変えて、これが赤信号の場合だったら。無視したことがない人の方が少ないでしょう?立派に罪とカテゴリーされるはず。だがそれを問いただす人・機関は皆無といってよい程希薄。要は「人間社会」というコミュニティ自身が設定した「罪」という「倫理」自体が精神的危険度数の重い軽いで揺らぐ、だから危うい物に感じるのですね。「人」と「人」の関係悪化を防ぐ為に「殺人」は大罪になる、しかし赤信号を無視して渡る程度では断罪されにくい。その両方が合わさった時、赤信号を無視した歩行者を自動車で轢くと、その因子である歩行者よりも自動車の罪がクローズアップされる設定になってますよね、順序でいくと信号無視という罪をその歩行者が犯さなければ殺人という罪は起こらなかった、システムで考えると信号無視した者が根本のはず、しかしそれはそうならない。「ルール」と設定した「倫理」を無視した者がいても、それを「殺害」するとその小さな「ルール」よりも巨大な「倫理」が立ちはだかり、更に大きな「ルール」において罪に問われるんです。
それを人対人から人対生物に話を移すと、「殺牛」や「殺鶏」・「殺豚」・「殺魚」は「人間」というコミュニティを存続させる為に罪にならない「殺し」なわけです。だって「殺虫」なんて商品名ですよ(笑)。しかしコレにも各コミュニティの価値観の差異があります、「殺鯨」の場合はその最たるもので国際問題までその軋轢は発展します。日本人にとってもそういうのはあるでしょ?どこかの部族が類人猿ボノボを食べる、好い気はしない、彼等には当たり前、、、、、なんてのも。
「殺し」から離れると、同性愛や、麻薬、お金、土地etc、その時代性なんかも加味されつつ揺れ動きます。その度に人は裁かれたり、報復したり。
という具合で「倫理」感という存在はヤジロべーのようなもので、いつも左右にブランブランしてるんだと(笑)。そのブランブランは最小のコミュニティ単位になると更にブアーンッブアーンッ!とうなりをあげて激しくなるような、この場合「家族」という「血縁関係」でのコミュニティはややこしいので除外します。恋人・友人・先輩後輩・職場などですかね。「それはないやろ~」「コレは人に迷惑をかける事だ!」「コレだけは守れ、分かったな!」なんてこないだまで言ってた人が自分の利益・立場なんかの状況が良くも悪くも変わる時、相手に求めたり自分が相手に布く「倫理」が自己に対する「他者」の存在を忘れる。そして当事者・当事者に近い者は不快感を覚える。そこには憤りや悲しみ・哀れみ、果ては失望へと変わるんですね、そうすると関係修復は非常に困難になる。気付いた方が提案し易い関係であれば比較的スムーズに解消できるのですが、そうじゃない場合はなんとも言えないシコリを残すんですね。この「残す」というのが厄介で、文字通り「残念」。この「念」が頭を擡げると全ての事の運びが牛歩の如く遅々となる、そうなると更に悪循環(笑)。恋人の友人・家族を巻き込んだり、共通の友人が仲介に骨を折り、仕事はみるみる後手に回り・・・・・、小さなシコリが巨大な山と化し行く手を遮るわけです。
そうそう、いややね~ソレ。
と思った自分がそういう事をしてるんですよ、こうならない為に完璧にこなすのは超人的な努力が求められます、まさに菩薩行。しかもこちら側の努力虚しく相手が暴挙に出ると、今度は阿弥陀の如く大きな慈悲で包み込まなければならない。僕の場合、、、、、コレ言っとかないとフェアじゃないので(笑)、この「倫理」の厳守にプライオリティを設けてしまってます。友人・仕事が第一、家族・恋人(がいる場合はその異性、笑)には・・・・・最悪に甘えますネ、信頼も何もあったもんじゃない、この2者には毎日心の中で謝ってます、これホントに(笑)まあ、前の2者にも最低限のラインでのルールですが、じゃないとボクが守りきれない。だからそれを踏み外したり、土足で踏まれたりすると・・・・・「残念」な対応になってしまいます。しかしそれまでの関係性における情・愛などから期待感を持ち、そしてその期待を外されるとまさに「失望」へと発展。自分で選んだ人々は己が映し鏡、自分への反省にもなります。ここへ行き着くと完全に他人以下、他人は平気ですれ違いますが、それもしたくない為関わりを避けるようになる。これは辛い(笑)。子供の頃だとドカンと喧嘩して仲直り出来るんですが、大人になると多くのバックボーンが確立されてしまっててそうはいかない、なので自分が認める相手には敬意を払い・裏切らない事が必要とされます。
友達にそんな事まで考えるのしんどいやん・・・・・、確かに。それをしなくて良いのが友達、だからボクもベタベタに甘えてます。でも「甘え」るのと「なおざり」にするのは違う。だってコミュニティに所属してない人間、いや生物なんていないでしょ?そこを無視した時点で「倫理」を犯してしまうのですから。要は1対1の関係や国対個の関係なら「倫理」なんて糞喰らっとけば良いのですが、他者を巻き込む場合はそのサイズに合わせた「ルール」を遵守する事が不可欠なのではと。だからボクはボクが所属するコミュニティに存在する人達にはそこを大きく求めます、むしろソレだけ。だって自分の大切な人が傷ついたり、大切な人が裏切るのはみたくないでしょ?。でも例外を設けてます「同性は裏切るな」、どうです(笑)。男は男の約束を守れ、女なんて裏切ればいい。女は女を大切に、男なんて騙せるだけ騙せばいいんです・・・・・この詳細はまたの機会に(笑)。
だからボクもそう人に思わせない様に日々心掛けているつもりではあるのですが、お客様・取引先様・ご朋友各位には多大なるご迷惑を・・・・ねえ(笑)。あ、でも家族・恋愛関係者は謝りません、無償の愛が存在するはずですから(笑)
まあ、人は人に対して常に責任を負って生きていかなければならないということでしょうか?自分のことも満足に出来ない罪深き人類が地球環境なんて他のコミュニティの責任なんてもてるのでしょうか?地球からしたら・・・・「ナンヤちっちゃいの?お前ら洗い流したらそれでしまいやで。」ってなもんでしょう。コレもまた別の機会に(笑)
でもね、書き出しの犬のウ○コの事。トイレはココ!と躾けられてる飼い犬は、犬でありながら人の倫理でしか生きられない・・・・・。
幸福論は別として、最たる被害者であるような・・・・・(笑)