本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

『家の光』と『岩手日報』のある報道より

2016-09-20 09:00:00 | 『賢治、家の光、卯の相似性』
【『家の光 創刊号』表紙】〈『家の光〔復刻版〕』(不二出版)より〉
 そこで、私は例の
【1 大正15年4月1日付『岩手日報』の記事】

   新しい農村の建設に努力する
         花巻農學校を辞した宮澤先生
 花巻川口町宮澤政治郎氏長男賢治(二八)氏は今囘縣立花巻農学校の教諭を辞職し花巻川口町下根子に同志二十餘名と新しき農村の建設に努力することになつたきのふ宮澤氏を訪ねると
 現代の農村はたしかに経済的にも種々行きつまつてゐるやうに考へられます、そこで少し東京と仙台の大學あたりで自分の不足であった『農村経済』について少し研究したいと思ってゐます。そして半年ぐらゐはこの花巻で耕作にも従事し生活即ち藝術の生がいを送りたいものです、そこで幻燈會の如きはまい週のやうに開さいするし、レコードコンサートも月一囘位もよほしたいとおもつてゐます幸同志の方が二十名ばかりありますので自分がひたいにあせした努力でつくりあげた農作ぶつの物々交換をおこないしづかな生活をつづけて行く考えです
と語つてゐた、氏は盛中卒業後盛岡高等農林學校に入学し同校を優等で卒業したまじめな人格者である。
             <『大正15年4月1日付岩手日報』より)>
を思い出していた。そして、記者の取材に対して賢治が、
 現代の農村はたしかに経済的にも種々行きつまつてゐるやうに考へられます…(略)…。そして半年ぐらゐはこの花巻で耕作にも従事し生活即ち藝術の生がいを送りたいものです、そこで幻燈會の如きはまい週のやうに開さいするし、レコードコンサートも月一囘位もよほしたいとおもつてゐます
と答えていることと、板垣邦子氏が紹介していた『家の光』の提唱   
 農村が独自の立場を堅持し、なおかつ現代文明を摂取して農村にふさわしい文化を建設し、生活の豊かさをとりもどさねばならないというものである。退廃に堕した都会文化への憧憬を捨て、健全な農村文化を築くべきである。
とがどうやら通底しているのではなかろうかと私には思えたのだった。簡潔に言い換えれば、
    賢治が下根子桜に移り住んだことの理由と『家の光』発刊の理由とが相似である。……①
と私には見え始めたのだ。賢治が先か『家の光』が先かは私には今のところ判らぬが、当時の両者は似たような理念と想いを抱いていたのではなかろうかと。

 そして、さらに
【2 昭和2年2月1日付『岩手日報』の記事】

   農村文化の創造に努む
         花巻の青年有志が 地人協會を組織し 自然生活に立返る
花巻川口町の町會議員であり且つ同町の素封家の宮澤政次郎氏長男賢治氏は今度花巻在住の青年三十餘名と共に羅須地人協會を組織しあらたなる農村文化の創造に努力することになつた地人協會の趣旨は現代の悪弊と見るべき都會文化に對抗し農民の一大復興運動を起こすのは主眼で、同志をして田園生活の愉快を一層味はしめ原始人の自然生活たち返らうといふのであるこれがため毎年収穫時には彼等同志が場所と日時を定め耕作に依って得た収穫物を互ひに持ち寄り有無相通する所謂物々交換の制度を取り更に農民劇農民音楽を創設して協会員は家族団らんの生活を続け行くにあるといふのである、目下農民劇第一回の試演として今秋『ポランの廣場』六幕物を上演すべく夫々準備を進めてゐるが、これと同時に協会員全部でオーケストラーを組織し、毎月二三回づゝ慰安デーを催す計画で羅須地人協会の創設は確かに我が農村文化の発達上大なる期待がかけられ、識者間の注目を惹いてゐる(写真。宮澤氏、氏は盛中を経て高農を卒業し昨年三月まで花巻農學校で教鞭を取つてゐた人
            <『昭和2年2月1日付岩手日報』より)>
も私は思い出していた。
 当時『家の光』は〝農村文化建設の提唱〟をしていたと板垣氏は指摘している訳だが、まさに当時の賢治も〝農村文化の創造〟に取り組んでおり、そのために
    地人協會を組織し 自然生活に立返る
と賢治は日報の記者に答えていたということになる。そしてその具体的な活動の一つとして
 目下農民劇第一回の試演として今秋『ポランの廣場』六幕物を上演すべく夫々準備を進めてゐる
と賢治は目論んでいたということになろう。したがって、当時の賢治と『家の光』は酷似している部分が多いのではなかろうか。つまり、賢治も『家の光』も時代の流れの中にいたということではなかろうか。まあ当たり前といえば当たり前のことではあるが。そしてもちろん、相似性〝①〟の強さを私はますます確信したのだった。

 さて、では板垣氏が「芸術については農民文学・農民劇・農民美術に関する記事が多く……農民文芸会のメンバーがしばしば登場し、なかでも犬田卯の活躍が目立っている」というところの、『家の光』への寄稿記事は具体的にはどのような内容のものだったのだろうか。創刊期の雑誌『家の光』そのものを見てみたいとものだと思っていたところ、不二出版が出版している『家の光〔復刻版〕』(T14年~S3年)があったのでそれによってその中身を知ることができた。
 まずは、同出版社は『家の光』について以下のように紹介していた。
本誌は、現在のJA全中の前身である産業組合の機関誌。農村が慢性的貧困にあえぎ、小作争議が急増するなか、農村生活の向上と自立、相互扶助・協同に基づく「共存同栄」社会の実現を謳った。
「一家一冊万能雑誌」と称されたように、内容は修養・解説・農業・婦人・子供等多岐に亘る。
近代日本の基底をなした農村の歴史を明らかにする重要資料として、地方文化史、女性史研究にも資するものである。
そして、この投稿のトップに掲げた表紙が『家の光』創刊号のそれであり、井上寿一氏が
創刊号(一九二五(大正一四)年)のカラーの表紙はのどかな田園風景である。農婦が菖蒲の花を活けている。遠くには鯉のぼりが泳いでいる。
 このような明るい表紙とは異なって、誌面には危機感が溢れていた。
<『戦前昭和の社会』(井上寿一著、講談社現代新書)より>
と述べているその表紙である。「「共存同栄」社会の実現を謳った」とあるように、『家の光』のタイトルの上の副題「共存同榮」から如実にそれが読み取れる。
 では創刊号(大正14(1925)年5月創刊)の中身はどうなっているのか。以下の目次で概観できる。
【3 創刊号の目次】

             <以下いずれも『家の光〔復刻版〕』(不二出版)より>
たしかに、その内容は修養・解説・農業・婦人・子供等多岐に亘っている。
 次に、この「創刊号」の巻頭言「共同心の泉」によれば創刊の趣旨については
  共同心泉
     志村 源太郎
 力の弱い一人一人が、とても出来ない仕事でも、二人が一人となりて、しつくり組合へば、案外たやすく成し遂げられる。故にわれ等の理想は、同心協力のであり、共存同榮の社會である。
 産業組合は此の理想を日常の生活に實現せんとするものであるから、之に最も大切なものは組合員の共同である。この共同を養ふところは、實に組合員の家庭そのものである。親も子も、夫も妻も、老いも若きも、互いに理解し、互いに勵まし、互いに慰め、心から協力和合し、一家を擧げて一様に愉快で幸福な家庭に於いて、はじめて眞の共同が養はれる。家庭は共同心の泉であつて、組合員の力強い共同は常に健全なる家庭から流れ出る。そのいを汲み取つて産業組合を培養すれば、必ずや、美しい花が咲き、實がなるのである。
 本誌目的は、この共同心の泉を家庭に於いて涵養せんとするに存する。
             <『家の光〔復刻版〕』(不二出版)より>ということで、
    雑誌『家の光』創刊の目的は、共同心の泉を組合員の家庭に於いて涵養するところにある。
ということのようだ。
 一方、『家の光』のは産業組合(「農協」の前身)の機関誌でもあるから、創刊号には
    肥料の購入は購賣組合より
という記事もあって、私としてはその内容に強い関心があるのだがそれは別の機会に回すことにしたい。

 次は、著者の板垣邦子氏の指摘するところの、
『家の光』には農民文学・農民劇・農民美術に関する記事が多く、寄稿者や座談会出席者として犬田卯、佐伯郁郎、白鳥省吾、中村星湖、渋谷栄一ら当時活発な運動を展開していた農民文芸会のメンバーがしばしば登場
             <『昭和戦前・戦中期の農村生活』(板垣邦子著、三嶺書房)20p~>
について確認してみたい。
 例えば次のようなものが載っていた。
【4 大正15年7月号】◇農村文芸 「奥伊豆の村」 白鳥省吾

【5 大正15年8月号】◇農民と文藝 犬田卯

奇しくも例の〝面会謝絶〟事件の前後、『家の光』には白鳥と犬田の寄稿記事が載っていたことになる。
【6 昭和2年9月号】農民劇と農民映畫 犬田 卯

【7 昭和2年11月号】農民の實演劇に就て 犬田 卯

【8 昭和3年4月号】講話 「藝術と経濟」 中村 星湖

【9 昭和3年4月号】文藝 ◇農民詩講話 佐伯郁郎

 また、次のような家の光主催の座談会が行われて
【10 昭和3年4月号】 ◇農村文學座談會 「家の光座談会 話題 農民文學」

その出席者には、白鳥省吾、佐伯郁郎、中村星湖等の名前があった。
 たしかに、板垣氏が「なかでも犬田卯の活躍が目立っている」と指摘するとおりで、犬田の記事の多さが目立っている。とりわけ『家の光』の昭和3年1月号には、〝◇新年特別大附録〟と銘打って
【11 昭和3年1月号〝農村劇 「伸び行く麥」〟】

というものまで付いていた。如何に犬田が『家の光』の発行元産業組合中央会から重用されていたかということが容易に察せられる。
 そして、その大附録の中身は例えば



             <以上いずれも『家の光〔復刻版〕』(不二出版)より>
となっており、この附録を基にすれば、思い立った人々にとっては自分達でもなんとか実演できそうな内容になっていると感じた。

 一方では、賢治はこの当時の『家の光』を読んでいたのではなかろうか、と推測したくなる。板垣氏の前掲書によれば、
 創刊当時の『家の光』は一冊二十銭だったから『キング』や『主婦の友』と比べれば廉価だったようだが、『家の光』は店頭販売されずに産業組合を通じて読者に配布された。
ということだから、おそらく組合員でない賢治は購入できなかったと思う。が、川原の言うとおり賢治は、
 岩手県農会には盛岡に来れば殆ど寄り、当時、全国の各道府県農会報が毎月刊行して、賢治は之を二時間位借覧してゐた。
 又、岩手県農会は農業関係の蔵書が相当数あつたものだ。この蔵書を賢治は読んでゐた。
            <『宮沢賢治とその周辺』(川原仁左エ門編著)>
ということだから、県農会では『家の光』を入手できたと思うので、そこを訪れた賢治が『家の光』を読んでいたという蓋然性がかなり高い。なにしろ、かくの如く〝農民文学・農民劇・農民美術〟に関する記事がすこぶる多いのだから、賢治がこの月刊誌『家の光』に無関心ではいられなかったはずだと私は想像するからだ。

 いずれ、創刊期の『家の光〔復刻版〕』(不二出版)を見ることができた私は、犬田卯の『家の光』に懸ける意気込みが強かったのか、それとも産業組合中央会の犬田に懸ける意気込みが強かったのかのいずれかは定かに解らぬが、卯と『家の光』の想いはすこぶる似た点が多々あったと、両者の間にもかなりの強い「相似性」があったということを確信した。
 なお、『家の光』の大正15年10月号~昭和2年7月号には加藤武雄の長編小説「野茨」も連載されており、結局、『家の光』の寄稿者には
    犬田 卯、白鳥省吾、佐伯郁郎、中村星湖、加藤武雄
等の名が連なっていることになる。まさしくこれらの人達は加藤武雄も含め、たしかに農民文芸会の主要メンバーである。

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《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
 本書は『宮沢賢治イーハトーブ館』にて販売しております。
 あるいは、次の方法でもご購入いただけます。
 まず、葉書か電話にて下記にその旨をご連絡していただければ最初に本書を郵送いたします。到着後、その代金として500円、送料180円、計680円分の郵便切手をお送り下さい。
       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
 ☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』                  ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)

 なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』        ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和2年の上京-』      ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』

◇ 拙ブログ〝検証「羅須地人協会時代」〟において、各書の中身そのままで掲載をしています。


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