本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

『賢治昭和二年の上京』(36p~39p)

2016-01-07 08:00:00 | 『昭和二年の上京』
                   《賢治年譜のある大きな瑕疵》








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*****************************なお、以下は本日投稿分のテキスト形式版である。****************************
 セロを持ち上京するため花巻駅へ行く。みぞれの降る寒い日で、教え子の沢里武治がひとり見送る。
<『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)600p>
となっているから、もしこの日に花巻駅周辺で霙が降っていな
ければ、この「通説○現」の反例になるかも知れないし、仮説「♣」
の傍証となるかもしれないと思って盛岡気象台にお訊ねした。
 するとその回答は
・大正15年12月2日の花巻の天気は不明だが当日の降雨量は13.6㎜である。ちなみに当日の盛岡の天候は 朝夕雪、日中雨で、翌日の3日以降は雪が降っている。
ということであった。したがって、当日花巻に霙が降ったかどうかは判らない。盛岡の気象も踏まえれば花巻で霙が降った可能性も否定できない。よって私の目論見は崩れた。
 とはいえ、この盛岡気象台の気象データは「通説○現」を否定するものではないし、仮説「♣」を傍証するものでもない。も
ちろん反例となっている訳でもない。
 (8) 『詩人時代』編集部あて書簡
 ここからは私の早とちりの失敗談である。
 その顛末は次のようなものであった。
*******************<早とちりの顛末>*******************
 私は「やっぱり!」と叫んだ。というのは、『宮沢賢治とその周辺』(川原仁左エ門編著)を読んでいたならば、「昭和三年(二一九二八)」の中に
   賢治 三十二歳
 一月十六日 新潟市旭町二ノ五二四一『詩人時代』編集部あて書簡
 ――新年おめでとう存じます。お詞の詩らしきもの、とにかく同封いたしました。他にぴんとした原稿沢山ありましたらしばらくお取り棄てねがひます。病気も先の見透しがついて参りましたし、きつと心身を整へて、今一度何かにご一所いたしますから。乍末筆新歳筆硯のご多祥を祈りあげます。         十六日
<『宮沢賢治とその周辺』(川原仁左エ門編著)257pより>
とあったからである。
 今までは、まさかこの時期にこんな賢治の書簡があったということなどは全く知らないでいたので、これを新たに知って私はついつい抃舞してしまった。この書簡の内容は仮説「♣」の有力な傍証となると思ったからだ。つまり、賢治はこの昭和3年と考えられる1月16日付の書簡に
・(賢治は)昭和3年1月16日頃、自分は病気だったがその快癒の見通しも立った。
と書いていることになる訳だから、この書簡の内容により仮説「♣」の意味するところの
  賢治は昭和3年の1月頃病気になって花巻に戻った。
はさらにその信憑性が増したといえる、と私は喜んでしまったのである。
 ところがこの私の判断に対して、宮澤賢治研究家のI氏から
「昭和3年には、まだ詩人時代社編集部は存在していなかったのではないでしょうか」
というご指摘いただいた。私は慌てて『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)を捲った。
 まずは頁を繰りながら昭和3年前後の書簡を何度か見返してみた。見つからない。そこで通読することにした。すると、それは昭和8年の書簡の一つとして、
446 一月十六日 詩人時代社編輯部(吉野信夫)あて 封書
  《表》新潟市旭町二ノ五二四一 詩人時代社編輯部御中
  《裏》一月十六日 岩手県花巻町 宮沢賢治(封印)〆
新年おめでたう存じます。云々
<『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)421p~より>
とあり、以下全く同じものであった。私はしばし呆然としてしまった。この書簡は昭和8年1月16日付のものであったのだ。何のことはない私は糠喜びをしていたのだった。
 振り返ってみるに、こんな失敗をしてしまったのは私が『宮沢賢治とその周辺』を高く評価していたからだと思う。というのは、『国文学 解釈と鑑賞』は同書のことを
 ・従来の賢治年譜の欠けている所を補う目的で
とか
・賢治の研究が、原資料に基づかず、引用により孫引きの誤謬が増幅されるケースなども、正確な資料によって正されていること、特に宮沢賢治が生命を賭して尽力した、農業問題との関連に対する記述など全く他に類書が無く、賢治の生涯を知るためにも作品の研究を進めるためにも不可欠な資料である。
<『国文学解釈と鑑賞 平成三年6月号』(至文堂)106pより>
という評価していたからである(もちろんこれは偏に私の責任であり、至文堂を責めるつもりは毛頭ない)。
 その一方で、儀府成一は 
 ・ミスも多いが中々の労作である『宮沢賢治とその周辺』
<『宮沢賢治 その愛と性』(儀府成一著、芸術生活社)298pより>
と評価をしていたのだが、やはりここは前者の見方が正しかろうと、私の個人的なある感情を基に判断していた。
 それゆえ、『宮沢賢治とその周辺』において、「昭和三年(二一九二八)」の中に「一月十六日付書簡」があったことを知って私は喜ぶことはあっても疑うことは全くしなかった。他の資料と突き合わせることもせずに、
・賢治は昭和3年1月16日頃、自分は病気だったがその快癒の見通しも立った。
と同書簡で賢治自身が証言していた、とつい思い込んでしまった。そしてこのことが
・昭和三年 三十三歳(一九二八)
 △ 一月、…(中略)…この頃より、過勞と自炊による榮養不足にて漸次身體衰弱す。
<『宮澤賢治研究』(草野心平篇、十字屋書店版)所収「年譜」より>
となっていた「宮澤賢治年譜」があったことの一つの理由だったのではなかろうかと安易に判断してしまったのだった。
 そして、『宮沢賢治とその周辺』に載せてあった昭和3年「一
月十六日付書簡」は仮説「♣」を支えてくれるという確信を深め
させてくれた、と私は軽率にも喜んでしまったのだった。
 しかしそれは、私が先入観で物事を判断していたがゆえの早とちりの大失敗であった。
***********************<顛末終わり>*******************
 以上、これはあくまでも私の詰めが甘かったことによる失敗談である。おそらく、「昭和三年」のものであるとしている『宮沢賢治とその周辺』の記載も何らかのミスかと思われる。
 私は詰めの甘さを反省するとともに、一つの資料だけで判断することの危うさを教えて下さったI氏に深く感謝した。
(9) 「レコード交換會」
 関登久也は『宮澤賢治素描』の中の節「レコード交換會」において次のような意味のことを述べている。
 賢治は昭和2年10月21日付のある紹介状を作った。それは高橋慶吾を紹介し、慶吾が事務を執ってレコード交換会を行うというもので、不用なレコードや希望のそれを教えてほしい、というものであった。
と。そしてこの節の中には次のような関登久也の証言がある。
 交換会は結局は賢治氏が病床の人となつたり、慶吾さんの都合で良い結果を得なかつた様でありますが…
<『宮澤賢治素描』(關登久也著、協栄出版社)181pより>
ということは、昭和2年10月21日からそう遠くない時期に賢治は病臥したということが言える。
 するとかなり大雑把な話ではあるが、この時の病臥は仮説「♣」の中の「病気となり、昭和3年1月に帰花した」と符合する。したがって、関登久也のこの証言は仮説「♣」の多少では
あるが傍証となり得る。
 (10) 宮澤清六編「宮澤賢治年譜」
 昭和17年に出版された『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房)には宮澤清六編の「宮澤賢治年譜」が所収されており、そこに次のような記載がある。
昭和三年一月、…この頃より過勞と自炊による栄養不足にて漸次身體が衰弱す。 ………………♥
<『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房、昭和17年)259p>
 ということは、賢治は昭和3年1月には「漸次身體が衰弱す」という身体状況にあったということになる。したがってこの記載内容から、賢治は昭和3年1月中には帰花しており、家族の皆から心配されていたであろうことが推測される。なおかつ、これは賢治没後10年も経っていない頃の弟清六の編集による年譜だからまずは歴史的事実と判断できる。
 一方、皆さん既にお気づきのように仮説「♣」は
 賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月頃に帰花した。
のように本来は語句「頃」を付けねばならなかったものである。なぜならば、澤里武治の証言では
 どう考えても昭和二年の十一月ころのような気がします。
となっているのだから、「昭和二年の十一月ころ」上京して3ヶ月弱滞京したとすれば、帰花するのはあくまでも「1月頃」とならねばならないからである。
 ところが私はこの語句「頃」を始めからこの仮説に付けなかった。その理由はこのような「宮澤賢治年譜」があることを知っていたからである。その月の何日に帰花したかは分からないにしても、少なくとも昭和3年1月中には花巻に賢治が戻っていたことはほぼ確実であろうと判断していたからである。
 逆に言えば、この宮澤清六編「宮澤賢治年譜」中の「♥」は仮説「♣」を裏付ける有力な資料の一つになっている。

3 直接証拠探し
 さて、幾つかの証言によって仮説「♣」をここまで検証してきた訳だが、正直その行為は隔靴掻痒の感が否めない。いくら
数多くの証言が仮説「♣」の反例とならなくとも、所詮今まで
の証言等はこの仮説の傍証でしかない。傍証をいくら積み重ねていっても、たった一つの直接証拠には敵わない。そこで私は澤里以外の人の直接証拠を探してみようと思い立った。
 では私が考えた直接証拠とは何か、それは日記である。賢治が下根子桜に住まっていた当時、すなわち大正15年~昭和3年
の間の誰かの日記に仮説「♣」の正しさを直接証明できる証言
等が記載されていたり、逆にこの仮説を否定することになる反例が書かれているのではなかろうかと思ったのである。
 そしてその「誰かの」であるが、私は次のような賢治周辺の人の日記にその可能性があるのではなかろうか考えた。
・伊藤忠一
・関登久也
・藤原嘉藤治
・堀籠文之進
 ・阿部 晁
・高橋末治
 では、まずは
 伊藤忠一の場合
 なぜ、伊藤忠一を考えたのかというと、『賢治随聞』(関登久也著、角川選書)所収の〟座談会「先生を語る」〝の中で、伊藤が
 大正十五年一月だったと思う。日誌を見たら先生が一月****************************************************************************************************

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       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
 ☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』                ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)           ★『「羅須地人協会時代」検証』(電子出版)

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 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』      ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』     ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』


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