本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

『賢治昭和二年の上京』(152p~155p)

2016-01-22 08:00:00 | 『昭和二年の上京』
                   《賢治年譜のある大きな瑕疵》








 続きへ
前へ 
 “『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』の目次”へ。
*****************************なお、以下は本日投稿分のテキスト形式版である。****************************
ともまた明らかであろう。
 したがって、「羅須地人協会時代」の2年4ヶ月余の営為を我々のような周りの者が「菩薩行」と讃えすぎたり、むやみやたらにその時代の賢治を神格化するようなことは、このようなことを教え子達に正直に語っている賢治の想いをないがしろにする行為であるとしか私には思えなくなってきた。教え子達に素直に吐露している賢治のこの心情をありのままに私は受けとめるべきだと覚悟した。
 そしてそもそも、仮に賢治像としては「不都合な真実」があったとしても、そのことが明らかになることによって賢治がさらに評価されこそすれ賢治の評価が損なわれることはないと私は確信しているし、多くの人々もそう思っているではなかろうか。それどころか、これまで以上に賢治のことを私達は理解できて、賢治に近づけるようになると思う。そのような賢治は真実の賢治だからである。
 また一方で、宮澤賢治自身こそが一番、創られた己が像など望んでいないだろうということも私は確信している。ひたすら求道的な生き方を探ったはずの賢治にとって何が一番かけがいのないものかというと、それは「真実を求め続ける姿勢」だと私は思うからである。
 だから、私は次のように言いたい。
◇宮澤賢治にとって「不都合な真実」など何一つない。真実を葬り去ることの方がむしろ不都合なことだ。賢治についての全てが、真実に立脚していてこそ始めることができるからだ。
と。

4 結論
 さて長かった「賢治昭和二年の上京」の真実を探る旅もそろそろ終わりを迎える。
○◇仮説「♣」について
 幸い、定立した仮説「♣」についてはさしたる反例も見つからず検証に耐え得ることができたし、一方では「○澤」及び「○柳」という強力な証言等もあることから、この仮説は歴史的事実であり、真実であろうことがほぼ明らかになったと私はいま確信している。
○◇「通説○現」について
 よって、宮澤賢治大正15年12月2日の現通説は
 セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る。「今度はおれもしんけんだ、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」と言ったが高橋は離れ難く冷たい腰かけによりそっていた。   …………「通説○現」
となってはいるが、賢治がこのようにして澤里一人に見送られて上京したのはこの日ではなくて、実はその約一年後のことであるとならざるを得ない。
 そして、宮澤賢治の大正15年12月2日についてせいぜい言えることは、柳原の証言に基づいて
一二月二日(木) 上京する賢治を柳原や澤里が見送った。
ということだけであろうし、この時に賢治がチェロを持って上京したということもない、というのが私見である。
○◇「現賢治年譜」の長すぎる空白について
 一方、あまりにも長すぎる「現賢治年譜」における「昭和2年11月4日~昭和3年2月8日」間の空白の真相は
 賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月に帰花した。     ………………♧
であり、この「3ヶ月弱の滞京」によってこの空白期間の大部分を埋めることができるというのが私の辿り着いた結論の一つである。
○◇「不都合な真実」「♧」について
 一方で、この「♧」という「真実」は「不都合な真実」なので「宮澤賢治年譜」から抹消してしまいたいと思った一部の人達がおり、実際それが為されたのではなかろうかという危惧があることを私は問題提起をせざるを得ない。
 がしかし、それはおそらく私だけの「危惧」であり、この一部の人達の行為が実際あったはずがないという想いも私には強い。とはいえ、現実に次のような三つの事実が残っているということに鑑みればやはりそのような行為があったかもしれないという不安を私は拭い去ることもまたできない。
・単行本『宮澤賢治物語』において著者以外の人物による改竄が行われたという事実
・理に適わない理由をかたって『賢治随聞』が出版されたという事実
・「校本年譜」や「新校本年譜」において澤里武治の証言が恣意的に使われているという事実
 私は、これらのこととどう折り合いを付ければいいのこれから暫くは悩みが続きそうだ。だからおそらく、先に述べた「リトマス試験紙」は当分私の頭の中の引き出しに仕舞ったままとなるかもしれない。
○◇澤里・柳原の苦悩について
 最後に、先に第二章の「1」で
 柳原は証言「○柳」を公にすることを憚っていたに違いな
い。しかし、実は柳原がそのようなことを憚る必要は全くなかったのであり、…
と述べたことに関してである。
 ここまでを振り返ってみれば、『宮澤賢治物語』が何者かによって改竄されたそのあおりで、当の澤里武治、そして同級生の柳原昌悦はいわれない苦悩をさせられたに違いないであろうことが私にはひしひしと感じられる。
 以前澤里武治の実家を訪れた際に、長男の裕氏が見せてくださった新聞連載版『宮澤賢治物語』を貼ったスクラップブックと、単行本『宮澤賢治物語』を思い出しながら私は次のように推察する。
 賢治をひたすら崇敬している澤里武治のことだから、『岩手日報』に連載された『宮澤賢治物語』をスクラップブックに貼りながら、おそらく食い入るように読んでいたと思う。そしてそれが単行本『宮澤賢治物語』として出版された際には、いち早くそれを購入して恩師のことを思い出しながら読み始めたと思う。
 そして愕然としたに違いない。自分の証言が改竄されていたことに気付いたからだ。もし私が澤里ならば、この改竄はおそらく関登久也によってなされたと疑ってしまうような事態だから、澤里は知れず悩んだに違いない。
 一方で、澤里の証言が正しく使われずに定着してしまった「通
説○現」に対しては、柳原昌悦も苦悩したと思う。もし私が柳原
ならば、それは澤里が嘘の証言をしているからだと恨みがましく思うような事態になったしまったからだ。
 かくのごとく、『宮澤賢治物語』を改竄した何者かのせいで不条理な苦悩を味わわされたであろう澤里であり、柳原である。そしてこの改竄行為を知り、さらには道理に合わないとしか私には思えない『賢治随聞』の出版を知って、関登久也も天国でさぞかし嘆息し、憤ったに違いない。この三人は誰一人、何一つ悪いところはないのに、理不尽な苦悩をさせられたことに私は同情を禁じ得ない。
 だからもちろん、柳原は証言「○柳」を公にすることを憚る必
要は全くなかったのである。関登久也が改竄した訳でもないし、澤里武治が嘘を言っていた訳でもないからである。
 さぞかし天国の賢治は、なぜ私の愛弟子澤里や柳原、そして同信の関をこれほどまでに悩ませ苦しめたのかと、改竄等に関わった人達のことを苦々しく思い、嘆き悲しんでいると思う。

 なお、次頁に現在の「宮澤賢治年譜」と私見のそれとを比較するための【表9 現及び私見・宮澤賢治年譜の比較】を作成してみた。
          ‡‡
 さてこれでやっと長旅はゴールを迎えた。いままでのこの「賢治昭和二年の上京」の真実を探る旅を振り返ってみれば、途中ですごすごと引き返すこともなく無事にここまで辿り着けたことが素直に嬉しい。その上、幾つかのことが明らかになったり、新たに見え始めたものもあったりして、今までよりは「羅須地人協会の真実」がまた少し解ってきたような気がする。
【表9 現及び私見・宮澤賢治年譜の比較】
  <現・宮澤賢治年譜>
大正15年12月2日
セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋武治がひとり見送る。「今度はおれもしんけんだ、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」と言ったが高橋は離れ難く冷たい腰かけによりそっていた。 
    <私見・宮澤賢治年譜>
大正15年12月2日
  柳原昌悦、澤里武治に見送られて上京。
大正15年12月末
チェロ一式を購入し、大津三郎から三日間のチェロの特訓を受ける。
昭和2年1月1日
  一年の計「本年中セロ一週一頁 オルガン一週一課」を立てる。
昭和2年9月
  上京、詩「自動車群夜となる」を創作したと見られる。
昭和2年11月頃
 霙の降る寒い夜、賢治はチェロを背負った教え子澤里武治と花巻駅へ行く。そして、「今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれ はやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」と澤里に言ってチェロを持って上京。
昭和3年1月
 3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり帰花。漸次身體衰弱。
昭和3年1月20日
花巻銀行常務代理として阿部 晁宅訪問。
****************************************************************************************************

 続きへ
前へ 
 “『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』の目次”へ。

 ”検証「羅須地人協会時代」”のトップに戻る。

《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
 本書は『宮沢賢治イーハトーブ館』にて販売しております。
 あるいは、次の方法でもご購入いただけます。
 まず、葉書か電話にて下記にその旨をご連絡していただければ最初に本書を郵送いたします。到着後、その代金として500円、送料180円、計680円分の郵便切手をお送り下さい。
       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
 ☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』                ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)           ★『「羅須地人協会時代」検証』(電子出版)

 なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』      ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』     ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』


最新の画像もっと見る

コメントを投稿