本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

『賢治昭和二年の上京』(44p~47p)

2016-01-08 08:00:00 | 『昭和二年の上京』
                   《賢治年譜のある大きな瑕疵》








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*****************************なお、以下は本日投稿分のテキスト形式版である。****************************
て仮説「♣」をずばり証明できればそれに越したことはないが、
もしそこに反例が見つかれば、今までの私の取り組みはあっけなく水泡に帰す。したがって恐ろしい一面もあるものだが、基本的には私は真実を知りたいだけだから水泡に帰すことも甘受する覚悟はしているので、是非これらの人の書いた日記の現物を見てみたいものである。
 それにしても、直接証拠となりそうなことが書かれている可能性の高い彼等の日記が、存在していたはずと思われる彼等の日記がこうもものの見事にないとか、現在行方不明になっているとかしているのは一体どうしてなのだろうか。
 ここまでを終えての結論
 以上でとりあえず予定していたものについての検証等は全て
終了した。その結果、これまでに検討した証言等は仮説「♣」
を裏付けるものは幾つかあったが、一方で反例となり得るものは何一つないこともわかった。したがって、この仮説は案外荒唐無稽でないのかもしれない。これがここまで検討してきてみての感想である。
第四章 「宮澤賢治年譜」の不思議

 ここでは少し視点を変え、「宮澤賢治年譜」という視点から考えてみたい。

1 大正15年12月2日の「現通説」
 先に第三章の〟1「新校本年譜」による検証〝において既に
「新校本年譜」による仮説「♣」の検証は一通り終わっているが、
ここではその中の大正15年12月2日の「現通説」に焦点を当ててもう少し考えてみたい。
 「現通説」による検証
それはとりもなおさず次の「通説○現」に焦点を当てるというこ
とである。
一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る。「今度はおれもしんけんだ、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」と言ったが高橋は離れ難く冷たい腰かけによりそっていた(*65)。  ……………○現
そしてこの「*65」の註釈には次のようになことが書かれている。
*65 関『随聞』二一五頁をもとに校本全集年譜で要約したものと見られる。ただし、「昭和二年十一月ころ」とされる年次を大正一五年のことと改めることになっている。
  <それぞれ「新校本年譜」(筑摩書房)325p、326p~より>
 当然この「通説○現」に従えば仮説「♣」は危うい。霙の降る寒
い日にチェロを持って上京する賢治をひとり澤里武治が見送った日として大正15年12月2日が既にあるとしたならば、その上にさらに同じようなことが、翌年の昭和2年11月の霙の日にまたもやあったということはまず99%ありえないからである。
 したがって、真相はおそらくそのいずれか一方だけが起こり、他の一方は起こっていなかったということであろう。私の立て
た仮説「♣」が間違っているか、あるいは畏れ多いことではあ
るがこの「通説○現」が間違っているかのいずれかであろう。
 しかし、私としては前章における検証の結果、仮説「♣」は
思いの外検証に耐え得ることを知ったので。ここは逆に、不遜
ながら「通説○現」について少しく考察してみたい。
 註釈「*65」の意味
 まずは「*65」の註釈について少し調べてみたい。参考のために「旧校本年譜」の同日の記載内容と「新校本年譜」のそれとを比べてみた。すると、註釈「*65」があるかないかの違いだけで他は基本的には違っていないことが分かる。ということは、この註釈は「新校本年譜」担当者(以降A氏とする)が付けた註釈であるということが明らかになる。
 そして次のことも言えそうだ、A氏は註釈「*65」において次のように言いたかったのであろうということが。
・まず、この「大正15年12月2日」の中身については「旧校本年譜」担当者(以降B氏とする)が何を典拠としていたかはA氏にはしかとわからぬが、それは関登久也著『賢治随聞』を元に要約したのであろうとA氏自身は推測している、と。
・そして、『この日付については、澤里は「昭和2年11月頃」と証言しているがそれは「大正15年12月2日」と改めることとすること』というB氏からの申し送り事項があったので、A氏はその指示に従ったまでだ、と。
 そこには以上のような経緯があるのだということを私個人は悟り、この註釈「*65」の意味が自分なりに判読できた。そして、そうかだからこそ「…ものと見られる」とか「…ことと改めることになっている」というもどかしい言い回しをしていたのだ、とここに至って私は初めて腑に落ちてしまった。併せて、第一章の最初において「セロ……沢里武治氏から聞いた話」という節に至って急に私が違和感を感じたのは無理からぬことだったのだと自分を慰めた。
 現通説「大正15年12月2日」の典拠
 さて、私はここではっきりしておきたいことがある、それは、この日のことを「新校本年譜」がこう書いている以上はその典拠は澤里武治の証言以外にはない、ということをである。
 それは「新校本年譜」にある大正15年12月2日の記述についての註釈「*65」に
 関『随聞』二一五頁の記述をもとに校本全集年譜で要約したものと見られる。
とあることからも自ずから明らかであろう。
 もちろんこの〟関『随聞』〝とは関登久也著『賢治随聞』のことであり、その「二一五頁」には次のようなことが書かれている。
○……昭和二年十一月ころだったと思います。当時先生は農学校の教職をしりぞき、根子村で農民の指導に全力を尽くし、ご自身としてもあらゆる学問の道に非常に精励されておられました。その十一月びしょびしょみぞれの降る寒い日でした。
 「沢里君、セロを持って上京して来る、今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる、君もヴァイオリンを勉強していてくれ」そういってセロを持ち単身上京なさいました。そのとき花巻駅までセロをもってお見送りしたのは私一人でした。駅の構内で寒い腰掛けの上に先生と二人並び、しばらく汽車を待っておりましたが、先生は「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」とせっかくそう申されたましたが、こんな寒い日、先生をここで見捨てて帰るということは私としてはどうしてもしのびなかった。また先生と音楽についてさまざまの話をしあうことは私としてはたいへん楽しいことでありました。滞京中の先生はそれはそれは私たちの想像以上の勉強をなさいました。最初のうちはほとんど弓をはじくこと、一本の糸をはじくとき二本の糸にかからぬよう、指は直角にもってゆく練習、そういうことにだけ日々を過ごされたということであります。そして先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました。
(傍線〝   〟筆者)
<『賢治随聞』(関登久也著、角川選書)215pより>
 この「沢里武治氏聞書」の〝   〟部分を見ても、「新校本年譜」がこの聞書をその典拠としていることは明らかである。
 なぜならば、「新校本年譜」大正15年の12月2日については
一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る。「今度はおれもしんけんだ、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」と言ったが高橋は離れ難く冷たい腰かけ
によりそっていた。 ……………○現
となっていて、この日の記載内容は皆この「沢里武治氏聞書」の中にあるからである(傍線〝   〟部のこと)。
 併せて、澤里の証言のどの部分が「通説○現」では使われてい
ないかも同様に明らかになる。例えば「少なくとも三か月は滞在する」や「そして先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました」などがそうである。このことは極めて重要なことであり、私ならば絶対省略できな部分である。
 そしてもう一つ見過ごせないことがある。それは他でもない、
 みぞれの降る寒い日、セロを持って上京して行く賢治をひとり花巻駅で見送ったのは昭和2年の11月頃であったと思う。
という意味のことを澤里は証言しているということである。あくまでもこの「見送った」日は昭和2年の11月頃だと澤里は言っているのである。そもそも、それは大正15年12月のことであったなどというようなことを澤里は一言も言っていないのである。
 言ったことが言っていないことになり、言ってないことが言ったことになっているという摩訶不思議な現象が起こっている。ついてはその現象が起こっている理由や原因を、「旧校本年譜」の「大正15年12月2日」を編纂した担当者B氏は読者に是非明らかにしていただきたかった。
 まして、そのような思いは当事者の澤里にすればなおさらであったであろうが、おそらく担当者B氏から澤里は何も知らされていなかったであろう。そのことは例の岩手日報連載の『宮澤賢治物語(49)』の中の澤里の口跡「どう考えても」の一言から直ぐに読み取れる。
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 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』      ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』     ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』


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