《賢治年譜のある大きな瑕疵》
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“『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』の目次”へ。
*****************************なお、以下は本日投稿分のテキスト形式版である。****************************
大正15年12月2日に賢治は澤里武治に「澤里君、セロ
持って上京してくる…少なくとも三か月は滞在する」と
言って上京したのではあったが、賢治は天才であるから「熱しやすく冷めやすい」性向があるのでそんなことはけ
ろっと忘れてしまって、1ヶ月も経たずに帰花した。
と。こうとでも考えなければ澤里武治の例の証言と「通説○現」
との間にはあまりにも大きな矛盾が存在することになるからである。
実際、他ならぬ関登久也が次のように述懐していることからも、賢治のこの言動はあり得たと思っていた。
賢治の物の考え方や生き方や作品に対しては、反対の人もあろうし、気に食わない人もあろうし、それはどうしようもないことではあるが、生きている間は誰に対してもいいことばかりしてきたのだから、いまさら悪い人だったとは、どうしても言えないのである。
もし無理に言うならば、いろんな計画を立てても、二、三日するとすっかり忘れてしまったように、また別な新しい計画をたてたりするので、こちらはポカンとさせられるようなことはあった。
<『新装版 宮沢賢治物語』(関登久也著、学研)13p~より>
しかし私が以前このように認識していたのは、あくまでも賢治の昭和2年11月頃の上京はないものと決めつけていたがゆえにである。でも今はもう違う、この時期の上京もあり得るのだと悟った。
それゆえ、前掲のような佐々木実宛書簡の存在を新たに知ったことと当時の賢治の羅須地人協会の活動に掛ける熱い想いに鑑みれば、いくらなんでも次のようなこと
・11月29日に念願の羅須地人協会講義を行い、
・12月1日には羅須地人協会定期集会と持寄競売を開催し、
・併せて明けて1月~3月までの講義予定を立てて告知した。
であろう賢治が、舌の根も乾かぬ12月2日にすっかり心変わりしてしまって、「沢里君、セロ持って上京してくる、今度はおれもしんけんだ。少なくとも三か月は滞在する」と言って上京してしまった。
というようなことはいくらなんでもあり得ないだろう。
したがって、賢治の当時の心境から言っても、大正15年12月の上京の際に賢治がこのような言動をする訳がないと言えるだろう。言い方を換えれば、もしこの「少なくとも三か月は滞在する」ということをこの上京の際に賢治が澤里に言っていたとすれば、そのことによって「現通説」は自家撞着を来たす虞れがある、と私は思うのである。
3 澤里のもう一つの証言
ところで、澤里武治の同じような証言が別にもう一つある。
それは『宮澤賢治物語(49)』であり、これについては本書の第一章で既に触れたものたが、それを再掲すると以下のようなものである。
宮澤賢治物語(49)
セロ(一)
どう考えても昭和二年の十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません。その前年の十二月十二日のころには
『上京、タイピスト学校において知人となりし印度人ミー((ママ))ナ氏の紹介にて、東京国際倶楽部に出席し、農村問題につき飛び入り講演をなす。後フィンランド公使と膝を交えて言語問題につき語る』
と、ありますから、確かこの方が本当でしょう。人の記憶ほど不確かなものはありません。…(中略)…
その十一月のびしょびしよ霙(みぞれ)の降る寒い日でした。
『沢里君、しばらくセロを持って上京して来る。今度はおれも真剣だ。少なくとも三ヵ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。君もバイオリンを勉強していてくれ』
<昭和31年2月22日付『岩手日報』より>
当時公になっていた年譜
ここからは、澤里自身は「どう考えても」それは昭和2年の11月頃であるとの強い確信があるのに、どういう訳か目の前に提示された「宮澤賢治年譜」には昭和2年の賢治の上京はないことになっていることに怪訝そうにしている、そんな気の毒な澤里の戸惑いがありありと目に浮かぶ。
そこで、このとき澤里が証言するに当たって見ていたであろう「賢治年譜」は一体どの年譜であったのかを探ってみることにしたい。そしてそれは、「十二月十二日のころには」に続く「上京、タイピスト学校において…言語問題につき語る」に注目すれば案外探し出せるかもしれない。それも、この『岩手日報』への掲載は昭和31年2月22日だから、それ以前に発行されたものに所収されているものを確認すれば判るはずだ。
そこで、そのような当時の主立った著書に所収されている「宮澤賢治年譜」から当該部分を抜き出して、時代を遡りながら以下に列挙してみる。
(1) 昭和28年発行
大正十五年(1926) 三十一歳
十二月十二日、東國際倶樂部に出席、フヰンランド公使とラマステツド博士の講演に共鳴して談じ合ふ。
昭和二年(1927) 三十二歳
九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作。
十一月頃上京、新交響樂團の樂人大津三郎にセロの個人教授を受く。
<『昭和文学全集14 宮澤賢治集』(角川書店、昭和28年
6月10日発行)所収の「年譜 小倉豊文編」より>
(2) 昭和27年発行
大正十五年 三十一歳(二五八六)
十二月十二日、上京タイピスト學校に於て知人となりし印度人シーナ氏の紹介にて、東京國際倶樂部に出席し、農村問題に就き壇上に飛入講演をなす。後フィンランド公使と膝を交へて農村問題や言語問題 つき語る。
昭和二年 三十二歳(二五八七)
九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作す。
<『宮澤賢治全集 別巻』(十字屋書店、昭和27年7月30日
第三版発行)所収「宮澤賢治年譜 宮澤清六編」より>
(3) 昭和26年発行
大正十五年 三十一歳(一九二六)
十二月十二日上京、タイピスト学校において知人となりしインド人シーナ氏の紹介にて、東京国際倶楽部に出席し、農村問題につき壇上に飛入講演をなす。後フィンランド公使と膝を交えて農村問題や言語問題につき語る。
昭和二年 三十二歳(一九二七)
九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作す。
<『宮澤賢治』(佐藤隆房、冨山房、昭和26年3月1日発行)所収「宮沢賢治年譜 宮澤清六編」より>
(4) 昭和22年第四版発行
大正十五年 三十一歳(一九二六)
△ 十二月十二日、上京中タイピスト學校に於て知人となりし印度人シーナ氏の紹介にて、東京國際倶樂部に出席し、農村問題に就き壇上に飛入講演をなす。後フィンランド公使と膝を交へて農村問題や言語問題につき相語る。
昭和二年 三十二歳(一九二七)
△ 九月、上京、詩「自動車群夜となる」を制作す。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店、昭和22年
7月20日第四版発行)所収「宮澤賢治年譜」より>
(5) 昭和17年発行
大正十五年 三十一歳(二五八六)
十二月十二日、上京タイピスト學校に於て知人となりし印度人シーナ氏の紹介にて、東京國際倶樂部に出席し、農村問題に就き壇上に飛入講演をなす。後フィンランド公使と膝を交へて農村問題や言語問題につき語る。
昭和二年 三十二歳(二五八七)
九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作す。
<『宮澤賢治』(佐藤隆房、冨山房、昭和17年9月8日
発行)所収「宮澤賢治年譜 宮澤清六編」より>
こうして、主立った「宮澤賢治年譜」から当該部分を抜き出して列挙してみると気付くことが二つある。
・その一つは、(1)を除いては、いずれにも「セロ(一)」の中の証言「上京、タイピスト学校において…言語問題につき語る」と全く同じと言っていいような言い回しがなされていること。
・そしてもう一つは、いずれの年譜にも昭和2年9月に賢治は上京していると記載されていること。
の二つである。
澤里が見た年譜
したがって、小倉豊文の(1)を除いてはいずれの「宮澤賢治年譜」も同一の「強い規制を受けていた」可能性があることが窺える。また、この関登久也の新聞連載が始まる以前までは、賢治は昭和2年に少なくとも1回、9月に上京していたということが公になっていたということが言えるだろう。これがそれこそ当時のいわば「通説」であったとも言えよう。
一方で、このとき澤里が証言するにあたって見ていた「宮澤賢治年譜」は少なくとも前掲(1)~(5)所収の「宮澤賢治年譜」のいずれでもないことが判る。なぜならば、澤里は
・宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません。
と語っているが、これらの(1)~(5)所収の年譜には皆一様に
・昭和2年 九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作す。
とあるから、昭和2年の上京が少なくとも1回はあったことになっているからである。
よって、澤里は出版物としては当時まだ公になっていなかった特殊な「宮澤賢治年譜」(とりわけ、賢治は昭和2年には上京していなかったと記載されている年譜)、言い換えればいま現在流布している「宮澤賢治年譜」のようなものを基にして証言しなければならなかったという状況下に置かれた、という可能性が大である。
考えたくないことだが、当時であればそれが「通説」であった「宮澤賢治年譜」に基づいて澤里が証言することを誰かが阻んで
いて、当時公には知られていなかった「通説○現」に基づいて証
言することを迫られた、という可能性すら捨てられなくなってしまうのではなかろうか。
澤里が一人見送った日
さてもう少し『宮澤賢治物語(49)』(『岩手日報』連載版)を続けて見てみよう。「沢里武治氏聞書」には書かれていない次のようなこと(〝 〟部分)もこちらには述べられているからである。
ちなみに『宮澤賢治物語(49)』の続きは
その時みぞれの夜、先生はセロと身まわり品をつめこんだかばんを持って、単身上京されたのです。
セロは私が持って花巻駅までお見送りしました。見送りは私ひとりで、寂しいご出発でした。立たれる駅前の構内で寒い腰かけの上に先生と二人ならび汽車を待っておりましたが、先生は
『風邪をひくといけないから、もう帰って下さい。おれは一人でいいんです』
再三そう申されましたが、こん寒い夜に先生を見すてて先に帰るということは、何としてもしのびえないことです。また
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《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
本書は『宮沢賢治イーハトーブ館』にて販売しております。
あるいは、次の方法でもご購入いただけます。
☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』 ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著) ★『「羅須地人協会時代」検証』(電子出版)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/15/5a80598bbcac120b51bd44cddcf1ee92.png)
なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』 ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』 ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』
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大正15年12月2日に賢治は澤里武治に「澤里君、セロ
持って上京してくる…少なくとも三か月は滞在する」と
言って上京したのではあったが、賢治は天才であるから「熱しやすく冷めやすい」性向があるのでそんなことはけ
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との間にはあまりにも大きな矛盾が存在することになるからである。
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もし無理に言うならば、いろんな計画を立てても、二、三日するとすっかり忘れてしまったように、また別な新しい計画をたてたりするので、こちらはポカンとさせられるようなことはあった。
<『新装版 宮沢賢治物語』(関登久也著、学研)13p~より>
しかし私が以前このように認識していたのは、あくまでも賢治の昭和2年11月頃の上京はないものと決めつけていたがゆえにである。でも今はもう違う、この時期の上京もあり得るのだと悟った。
それゆえ、前掲のような佐々木実宛書簡の存在を新たに知ったことと当時の賢治の羅須地人協会の活動に掛ける熱い想いに鑑みれば、いくらなんでも次のようなこと
・11月29日に念願の羅須地人協会講義を行い、
・12月1日には羅須地人協会定期集会と持寄競売を開催し、
・併せて明けて1月~3月までの講義予定を立てて告知した。
であろう賢治が、舌の根も乾かぬ12月2日にすっかり心変わりしてしまって、「沢里君、セロ持って上京してくる、今度はおれもしんけんだ。少なくとも三か月は滞在する」と言って上京してしまった。
というようなことはいくらなんでもあり得ないだろう。
したがって、賢治の当時の心境から言っても、大正15年12月の上京の際に賢治がこのような言動をする訳がないと言えるだろう。言い方を換えれば、もしこの「少なくとも三か月は滞在する」ということをこの上京の際に賢治が澤里に言っていたとすれば、そのことによって「現通説」は自家撞着を来たす虞れがある、と私は思うのである。
3 澤里のもう一つの証言
ところで、澤里武治の同じような証言が別にもう一つある。
それは『宮澤賢治物語(49)』であり、これについては本書の第一章で既に触れたものたが、それを再掲すると以下のようなものである。
宮澤賢治物語(49)
セロ(一)
どう考えても昭和二年の十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません。その前年の十二月十二日のころには
『上京、タイピスト学校において知人となりし印度人ミー((ママ))ナ氏の紹介にて、東京国際倶楽部に出席し、農村問題につき飛び入り講演をなす。後フィンランド公使と膝を交えて言語問題につき語る』
と、ありますから、確かこの方が本当でしょう。人の記憶ほど不確かなものはありません。…(中略)…
その十一月のびしょびしよ霙(みぞれ)の降る寒い日でした。
『沢里君、しばらくセロを持って上京して来る。今度はおれも真剣だ。少なくとも三ヵ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。君もバイオリンを勉強していてくれ』
<昭和31年2月22日付『岩手日報』より>
当時公になっていた年譜
ここからは、澤里自身は「どう考えても」それは昭和2年の11月頃であるとの強い確信があるのに、どういう訳か目の前に提示された「宮澤賢治年譜」には昭和2年の賢治の上京はないことになっていることに怪訝そうにしている、そんな気の毒な澤里の戸惑いがありありと目に浮かぶ。
そこで、このとき澤里が証言するに当たって見ていたであろう「賢治年譜」は一体どの年譜であったのかを探ってみることにしたい。そしてそれは、「十二月十二日のころには」に続く「上京、タイピスト学校において…言語問題につき語る」に注目すれば案外探し出せるかもしれない。それも、この『岩手日報』への掲載は昭和31年2月22日だから、それ以前に発行されたものに所収されているものを確認すれば判るはずだ。
そこで、そのような当時の主立った著書に所収されている「宮澤賢治年譜」から当該部分を抜き出して、時代を遡りながら以下に列挙してみる。
(1) 昭和28年発行
大正十五年(1926) 三十一歳
十二月十二日、東國際倶樂部に出席、フヰンランド公使とラマステツド博士の講演に共鳴して談じ合ふ。
昭和二年(1927) 三十二歳
九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作。
十一月頃上京、新交響樂團の樂人大津三郎にセロの個人教授を受く。
<『昭和文学全集14 宮澤賢治集』(角川書店、昭和28年
6月10日発行)所収の「年譜 小倉豊文編」より>
(2) 昭和27年発行
大正十五年 三十一歳(二五八六)
十二月十二日、上京タイピスト學校に於て知人となりし印度人シーナ氏の紹介にて、東京國際倶樂部に出席し、農村問題に就き壇上に飛入講演をなす。後フィンランド公使と膝を交へて農村問題や言語問題 つき語る。
昭和二年 三十二歳(二五八七)
九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作す。
<『宮澤賢治全集 別巻』(十字屋書店、昭和27年7月30日
第三版発行)所収「宮澤賢治年譜 宮澤清六編」より>
(3) 昭和26年発行
大正十五年 三十一歳(一九二六)
十二月十二日上京、タイピスト学校において知人となりしインド人シーナ氏の紹介にて、東京国際倶楽部に出席し、農村問題につき壇上に飛入講演をなす。後フィンランド公使と膝を交えて農村問題や言語問題につき語る。
昭和二年 三十二歳(一九二七)
九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作す。
<『宮澤賢治』(佐藤隆房、冨山房、昭和26年3月1日発行)所収「宮沢賢治年譜 宮澤清六編」より>
(4) 昭和22年第四版発行
大正十五年 三十一歳(一九二六)
△ 十二月十二日、上京中タイピスト學校に於て知人となりし印度人シーナ氏の紹介にて、東京國際倶樂部に出席し、農村問題に就き壇上に飛入講演をなす。後フィンランド公使と膝を交へて農村問題や言語問題につき相語る。
昭和二年 三十二歳(一九二七)
△ 九月、上京、詩「自動車群夜となる」を制作す。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店、昭和22年
7月20日第四版発行)所収「宮澤賢治年譜」より>
(5) 昭和17年発行
大正十五年 三十一歳(二五八六)
十二月十二日、上京タイピスト學校に於て知人となりし印度人シーナ氏の紹介にて、東京國際倶樂部に出席し、農村問題に就き壇上に飛入講演をなす。後フィンランド公使と膝を交へて農村問題や言語問題につき語る。
昭和二年 三十二歳(二五八七)
九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作す。
<『宮澤賢治』(佐藤隆房、冨山房、昭和17年9月8日
発行)所収「宮澤賢治年譜 宮澤清六編」より>
こうして、主立った「宮澤賢治年譜」から当該部分を抜き出して列挙してみると気付くことが二つある。
・その一つは、(1)を除いては、いずれにも「セロ(一)」の中の証言「上京、タイピスト学校において…言語問題につき語る」と全く同じと言っていいような言い回しがなされていること。
・そしてもう一つは、いずれの年譜にも昭和2年9月に賢治は上京していると記載されていること。
の二つである。
澤里が見た年譜
したがって、小倉豊文の(1)を除いてはいずれの「宮澤賢治年譜」も同一の「強い規制を受けていた」可能性があることが窺える。また、この関登久也の新聞連載が始まる以前までは、賢治は昭和2年に少なくとも1回、9月に上京していたということが公になっていたということが言えるだろう。これがそれこそ当時のいわば「通説」であったとも言えよう。
一方で、このとき澤里が証言するにあたって見ていた「宮澤賢治年譜」は少なくとも前掲(1)~(5)所収の「宮澤賢治年譜」のいずれでもないことが判る。なぜならば、澤里は
・宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません。
と語っているが、これらの(1)~(5)所収の年譜には皆一様に
・昭和2年 九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作す。
とあるから、昭和2年の上京が少なくとも1回はあったことになっているからである。
よって、澤里は出版物としては当時まだ公になっていなかった特殊な「宮澤賢治年譜」(とりわけ、賢治は昭和2年には上京していなかったと記載されている年譜)、言い換えればいま現在流布している「宮澤賢治年譜」のようなものを基にして証言しなければならなかったという状況下に置かれた、という可能性が大である。
考えたくないことだが、当時であればそれが「通説」であった「宮澤賢治年譜」に基づいて澤里が証言することを誰かが阻んで
いて、当時公には知られていなかった「通説○現」に基づいて証
言することを迫られた、という可能性すら捨てられなくなってしまうのではなかろうか。
澤里が一人見送った日
さてもう少し『宮澤賢治物語(49)』(『岩手日報』連載版)を続けて見てみよう。「沢里武治氏聞書」には書かれていない次のようなこと(〝 〟部分)もこちらには述べられているからである。
ちなみに『宮澤賢治物語(49)』の続きは
その時みぞれの夜、先生はセロと身まわり品をつめこんだかばんを持って、単身上京されたのです。
セロは私が持って花巻駅までお見送りしました。見送りは私ひとりで、寂しいご出発でした。立たれる駅前の構内で寒い腰かけの上に先生と二人ならび汽車を待っておりましたが、先生は
『風邪をひくといけないから、もう帰って下さい。おれは一人でいいんです』
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《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
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〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守 電話 0198-24-9813☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』 ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著) ★『「羅須地人協会時代」検証』(電子出版)
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