本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

『賢治昭和二年の上京』(56p~59p)

2016-01-09 08:30:00 | 『昭和二年の上京』
                   《賢治年譜のある大きな瑕疵》








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*****************************なお、以下は本日投稿分のテキスト形式版である。****************************
一方、先生と音楽のことなどについて、さまざま話し合うことは大へん楽しいことです。間もなく改札が始まったので、私も先生の後について、ホームへ出ました。
 乗車されると、先生は窓から顔を少し出して
『ご苦労でした。帰ったらあったまって休んで下さい』
 そして、しっかり勉強しろということを繰返し申されるのでした。
(傍線 〝   〟筆者)
<昭和31年2月22日付『岩手日報』より>
となっている。そしてまた、これだけ具体的でつまびらかな澤里の証言から判断して、澤里がこのような作り話をしているとは到底私には思えない。
 したがって、柳原昌悦の次の証言
 一般には澤里一人ということになっているが、あのときは俺も澤里と一緒に賢治を見送ったのです。何にも書かれていていないことだけれども。  ……………○柳
と『宮澤賢治物語(49)』とを互いに補完させて推論すれば、
・澤里と柳原が一緒に賢治の上京を見送ったのは大正15年12月2日のことである。
そして同時に
・現在は通説となってはいないが、チェロを持って花巻駅を発つ賢治を澤里が「見送りは私ひとりで」と述懐する昭和2年11月頃の霙の降る日の上京もあった。
と結論する事の方がやはりかなり合理的だと言える。
 チェロの猛練習で賢治は病気に
 では次は、『宮澤賢治物語(49)』の続き、翌日2月23日付『岩手日報』に載った『宮澤賢治物語(50)』を見てみよう。
  セロ(二)
 この上京中の手紙は大正十五年十二月十二日の日付になっておるものです。
 手紙の中にはセロのことは出てきておりませんが、後でお聞きするところによると、最初のうちは殆ど弓を弾くことだけ練習されたそうです。それから一本の糸をはじく時、二本の糸にかからぬよう、指は直角に持っていく練習をされたそうです。
 そういうことにだけ幾日も費やされたということで、その猛練習のお話を聞いてゾッとするような思いをしたものです。先生は予定の三ヵ月は滞京されませんでしたが、お疲れのためか病気もされたようで、少し早めに帰郷されました。
<昭和31年2月23日付『岩手日報』より>
 この証言の中身を知って、やはりチェロの練習は並大抵のものではなく、賢治もかなり難儀したであろうことが容易に察せられる。
 実際、チェリストの西内荘一氏(元新日本日本フィルハーモニー交響楽団主席チェリスト)でさえも、18歳頃の自分について
 遅く始めているからできないのは僕だけですし、指の骨が固くなってますから思ったようには弾けないし、いやになってレッスンに行かないことがあったり、食事も喉を通らず、体重が三十キロぐらいになってしまって、部屋にこもってただチェロばかり弾いているというような精神的にもおかしい時期もあったと思います。
<『嬉遊曲、鳴りやまず―斎藤秀男の生涯―』(中丸美繪著、
新潮文庫)156pより>
と述懐しているくらいだからである(これが以前「後述する」と言った西内の述懐である)。ましてや30歳を越えて習い始めた賢治にしてみれば、「最初のうちは殆ど弓を弾くことだけ練習されたそうです」であったであろうことは想像に難くない。
 したがって、賢治自身が上京当時のことを述懐しながら澤里に語ったのであろうこの猛練習の中身や賢治が味わった計りしれない苦難は、話しのスジとしては理に適っているから実態は澤里のこの証言どおりであったであろうと私は判断している。
 それゆえ、この西村氏の追想を知った私は、この連載『宮澤賢治物語(49)、(50)』で語られている昭和2年の11月頃から約3ヶ月間の滞京は事実であったという確信がますます強まってくる。
 ところで、こちらの証言の中で特に気になるのが次の二項目である。
・まず第一は、澤里も指摘しているように「(賢治が出した)手紙の中にはセロのことは出てきておりません」
・その第二は、「病気もされたようで、少し早めに帰郷されました」
 まず前者について。たしかに書簡集の『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)を見てみると、賢治が大正15年12月中に出した書簡にはセロの「セ」の字も全く出てこないから澤里の言うとおりである。タイプライターのこと、オルガンのこと、エスペラントのこと、観劇のこと、図書館通いのこと、二百円もの無心のこと等を事細かに父政次郎宛書簡では報告をしているのに、チェロに関しては一切そこには出て来ない。なぜチェロのことは書簡に書かれていないのだろうか。
 ここは素直に考えて、大正15年12月の上京の目的の中にチェロの練習は当初は全く予定になく、滞京の終盤に至って初めて突如チェロが欲しくなったという見方ができるのではなかろうか。
 そして後者については、あまりもの無視のされようにただただ驚くしかない。いや、もっと正確に言うといつの間にか全く無視されることになったということに、である。「下根子桜時代」に3ヶ月弱もの長い間賢治は滞京していたが無理がたたって病気になったという一大事があったということを澤里が証言しているのに…。

4 「宮澤賢治年譜」の書き変え
 さて、では今「いや、もっと正確に言うといつの間にか全く無視されることになった」とつぶやいたことに関して次に少しく説明したい。
 「宮澤賢治年譜」リスト
 まずは、再び主だった「宮澤賢治年譜」の中から特にある二つの事項に着目して抜き出しながら、年代順に並べてみたのが次表である。
【表6 「宮澤賢治年譜」リスト】
(1) 昭和17年発行
大正十五年 三十一歳(二五八六)
十二月十二日、上京タイピスト學校に於て知人となりし印度人シーナ氏の紹介にて、東京國際倶樂部に出席し、農村問題に就き壇上に飛入講演をなす。後フィンランド公使と膝を交へて農村問題や言語問題につき語る。
昭和二年  三十二歳(二五八七)
九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作す。
昭和三年 三十三歳(二五八八)
一月、肥料設計、作詩を繼續、「春と修羅」第三集を草す。この頃より過勞と自炊に依る栄養不足にて漸次身體衰弱す。
二月、「銅鑼」第十三號に詩「氷質の冗談」を發表す。
三月、梅野健三氏編輯の「聖燈」に詩「稲作挿話」を發表す。
   <『宮澤賢治』(佐藤隆房、冨山房、昭和17年9月8日 発行)所収「宮澤賢治年譜 宮澤清六編」より>
(2) 昭和22年発行
大正十五年 三十一歳(一九二六)
△ 十二月十二日、上京中タイピスト學校に於て知人となりし印度人シーナ氏の紹介にて、東京國際倶樂部に出席し、農村問題に就き壇上に飛入講演をなす。後フィンランド公使と膝を交へて農村問題や言語問題につき相語る。
昭和二年  三十二歳(一九二七)
△ 九月、上京、詩「自動車群夜となる」を制作す。
昭和三年 三十三歳(一九二八)
△ 一月、肥料設計、作詩を繼續、「春と修羅」第三集を草す。この頃より、過勞と自炊に依る栄養不足にて漸次身體衰弱す。「銅鑼」第十三號に詩「氷質の冗談」を發表す。
△ 三月、「聖燈」(花巻町)に詩「稲作挿話」を發表す。
   <『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店、昭和22年
7月20日第四版発行)所収「宮澤賢治年譜」より>
(3) 昭和26年発行
大正十五年 三十一歳(一九二六)
十二月十二日上京、タイピスト学校において知人となりしインド人シーナ氏の紹介にて、東京国際倶楽部に出席し、農村問題につき壇上に飛入講演をなす。後フィンランド公使と膝を交えて農村問題や言語問題につき語る。
昭和二年  三十二歳(一九二七)
  九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作す。
昭和三年 三十三歳(一九二八)
一月、肥料設計、作詩を継続、「春と修羅」第三集を草す。この頃より過勞と自炊による栄養不足にて漸次身体衰弱す。
二月、「銅鑼」第十三号に詩「氷質の冗談」を発表す。
三月、梅野健三氏編輯の「聖燈」に詩「稲作挿話」を発表す。
<『宮澤賢治』(佐藤隆房、冨山房、昭和26年3月1日
発行)所収「宮沢賢治年譜 宮澤清六編」より>
(4) 昭和27年発行
大正十五年 三十一歳(二五八六)
十二月十二日、上京、タイピスト學校に於て知人となりし印度人シーナ氏の紹介にて、東京國際倶樂部に出席し、農村問題に就き壇上に飛入講演をなす。後フィンランド公使と膝を交へて農村問題や言語問題 つき語る。
昭和二年 三十二歳(二五八七)
九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作す。
昭和三年 三十三歳(二五八八)
一月、肥料設計、作詩を繼續、「春と修羅」第三集を草す。この頃より過勞と自炊に依る栄養不足にて漸次身體衰弱す。
二月、「銅鑼」第十三號に詩「氷質の冗談」を發表す。
三月、梅野健三氏編輯の「聖燈」に詩「稲作挿話」を發表す。
<『宮澤賢治全集 別巻』(十字屋書店、昭和27年7月30日
第三版発行)所収「宮澤賢治年譜 宮澤清六編」より>
(5) 昭和28年発行
大正十五年(1926) 三十一歳
十二月十二日、東京國際倶樂部に出席、フヰンランド公使とラマステツド博士の講演に共鳴して談じ合ふ。
昭和二年(1927)  三十二歳
  九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作。
  十一月頃上京、新交響樂團の樂人大津三郎にセロの個人教授を受く。
昭和三年(1928) 三十三歳
 一月、肥料設計。この頃より漸次身體衰弱す。
 二月、「銅鑼」第十三號に詩「氷質の冗談」を發表。
 三月、梅野健三氏編輯の「聖燈」に詩「稲作挿話」を發表。
<『昭和文学全集14 宮澤賢治集』(角川書店、昭和28年
6月10日発行)所収の「年譜 小倉豊文編」より>

  -------昭和31年1月1日~6月30日 関登久也著「宮澤賢治物語」が『岩手日報』紙上に連載---------
(6) 昭和32年発行
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