本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

『賢治と一緒に暮らした男』 (33p~36p)

2016-01-27 08:30:00 | 『千葉恭を尋ねて』 
                   《「独居自炊」とは言い切れない「羅須地人協会時代」》








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*****************************なお、以下は本日投稿分のテキスト形式版である。****************************
さ話は日本のあちこちに広まっていたということを意味するのであろう。よって、宮澤賢治が白鳥に「面会謝絶」を喰らわしたということはほぼ間違いなく歴史的事実なのであろう。
 ただしその際に〝白鳥省吾は玄関先で面会を断られた〟という説もあるがそれはあくまでもゴシップであるし、白鳥が賢治に対して「私自身としても特に逢ひたい思つたこともありません」と主張しているのは、前述したような訳で白鳥が白を切ったということが十分あり得る。一方で千葉恭はこの件に関して詳述しているから、それを否定するほどの説得力は伊藤整の孫引き、岡本弥太の随想、白鳥省吾の反論のいずれにもないと感ずる。したがって、千葉恭の語っていることの方がその実相だったに違いないと私は判断した。そして、私は少しほっとした。

第2章 千葉恭を尋ねて廻る

1 千葉恭の生家探し
 さてここまで、私は入手出来た【千葉恭関連文献】の全てに目を通してみて来たのだが、千葉恭の下根子桜の別宅寄寓に関するあの「日」や「期間」はこれらの中のいずれにも、どこにも明確には記されていなかった。最初はそんなことは直ぐに判るだろうとたかをくくっていた私はすっかり落胆してしまった。こうなれば資料から探ることは諦め、原点に戻って千葉恭の出生地を直接訪ねてみようと奮い立った。
 千葉恭の古里盛町へ
 まずは、タウン誌『ふるさとケセン67号』に「千葉恭は明治39年生まれ、気仙郡盛町の出身…」と書かれていたので大船渡を訪ねた。この気仙郡盛町とは現大船渡市盛町のことだからである。そこへ行って千葉恭の生家や縁者を実際に訪ねて彼について教えてもらったり、近所の方に彼の人柄やエピソードなどを訊いてみたりしようとした。
 さりとて手がかりはこのタウン誌の情報しかなかったので、先ずは大船渡市立図書館を訪ねた。そして
「盛町は千葉恭という人の出身地ということですが、その人の関連資料を見せていただけないでしょうか」
とお願いしたところ、職員の方はとても親切に対応してくれ、資料の検索等もしてくれた。しかし残念ながら関連資料はほとんどなく、結局千葉恭の下根子桜の寄寓時期はもとより本籍地すらも判らなかった。因みに同館に所蔵されてあった関連資料は『宮澤賢治研究資料集成 第7巻』(続橋達雄編、日本図書センター)だけであった。
 とはいえ、ここはやはり千葉恭出身地なのだということも確信した。続橋編のこの本には『四次元』の「宮澤先生を追ひて」シリーズが全く同じ内容で載せてあったからである。おそらく千葉恭自身あるいは縁者が寄贈したのかも知れないななどと想像をめぐらしてみた。また、職員の方は千葉恭に関してはもっと調べてみますからと親切に請け負ってくれたので、その結果に期待した(なおこのことに関しては後日同館から電話連絡があり、残念ながら千葉恭に関してはあれ以上のことは解りませんというものであった)。
 さて図書館を後にして、次は地元の二、三の旧家を訪ねて千葉恭のことを訊いて廻った。が残念ながら、彼自身のことも含めて関連情報さえも全く得ることが出来なかった。大船渡一帯には千葉姓が多いのでなおさら判りにくいようである。
 ならばと次は地元の新聞社「東海新聞」社に訊いてみた。すると千葉恭本人のことは分からないがということだったが、〝盛町の生き字引といわれている〟古老を紹介してくれた。しかし、期待に胸ふくらませてその古老にお訊きしてみたのだがその古老でさえも彼のことは知らないということだった。
 結局は千葉恭の古里を訪ねては見たものの、生家どころか本籍地さえも分からずにしょぼくれて花巻の自宅に戻るしかなかった盛町探訪であった。それにしてもなぜかくも千葉恭のことが知られていないのだろうか。
 水沢農学校ルート
 さあて、では千葉恭に近づくにはどんな方途が次にあるだろうか。そこで思いついたのがやはりまたタウン誌『ふるさとケセン67号』の情報であった。このタウン誌には、千葉恭は大正13年3月に水沢農学校(現水沢農業高等学校)を卒業したと書いてあったからだ。
(ア) 水沢農学校同窓会
 そこで先ずは水沢農業高校に電話をして、同窓会担当の先生にお願いしてみた。
「大正13年卒の同窓生で千葉恭という人がおられるはずですが、その人の関連資料を見せて貰えないでしょうか」
と。おそらく、宮澤賢治と約半年一緒に生活したという人だから同窓生の間では著名な人物の一人だと思ったからであった。ところが私の想像とは裏腹に、担当の先生からは逆に「千葉恭という人はどんな人ですか」と訊き返されるというものだった。そこで私は
「千葉恭さんは宮澤賢治と約半年羅須地人協会で一緒に生活をした人で、賢治に関わる人物としてはかなり重要な人物だと思います。つきましては図書館等にある同窓会関連や千葉恭関連の資料を見せて貰えないでしょうか」
と重ねてお願いした。すると検討してみますからということで色よい返事を期待したのだが、その回答は「残念ながらお見せ出来ません」というつれないものだった。
 つい先だってまでは岩手県の各公立高校ではそれぞれの図書室や図書館を開放し、蔵書を一般市民にも閲覧させてくれていたはずだったのだがいつの間にそれが叶わなくなったのだろうかと訝しく思った。これじゃ、まして千葉恭の写真を見せてもらうとか本籍地を教えてもらうとかはまず無理であろうと判断した。個人情報の保護ということで、お見せ出来ませんと断られるのは見え見えだったからである。
(イ)『水沢農業高校同窓会名簿』
 さて水沢農業高校の同窓会担当の方にこれ以上お願いすることを諦めてはみたものの、やはりこのルートは捨てがたい。そんな時思い出したのが私の叔父の中に水沢農業高校の卒業生がいるということだった。早速その叔父に電話して同窓会名簿を持っていませんかと訊ねたところ、持っているよとの返事。私は押っ取り刀で叔父の家を訪れ、『水沢農業高校同窓会名簿』(平成5年版)を見せて貰った、そこに千葉恭の本籍地が書いていないかと期待しながら。
 するとある頁に
  〝第21回(大正13年3月卒業)52名〟
というタイトルがあった。五十音順に並べてある氏名を指で順に辿って行くと確かにあるではないか
  千葉 恭
と。一瞬喜んだのも束の間、直ぐ落胆に変わった。千葉恭に関してはあるのはその氏名だけで、本籍地も職業も勤務先も一切載っていなかったのだ。まただめだったか、私は肩を落とすしかなかった。
 というわけで、水沢農学校ルートから千葉恭の本籍地等を知ろうとしたのだが、何一つ新しい情報は得ることが出来なかったのである。 

2 千葉恭の職場について
 簡単に判るだろうと思って始めたあの「日」及び「期間」の確定作業であったが結局判らずじまい、しょぼくれて徒然に本を眺めていた。
 岩手年鑑ルート
 そんな時たまたま手にしていたのが昭和13年版の『岩手年鑑』(岩手日報社、昭和12年12月25日発行)であった。なんとその年鑑には県職員等の名簿が載っており、穀物検査所の職員の氏名も載っているではないか。もしかするとと期待しながらその名前を追っていくと、
  黒澤尻出張所検査技手 立花兼更木派出所
      千葉 恭
という記載がそこにあるではないか。しめたこれだ、『岩手年鑑』の他の年のものも同様に調べればいいのだ。そうすれば千葉恭がいつから穀物検査所に勤め始め、いつ退職し、いつ復職したかがほぼ判るはずだとほくそ笑んだ。
 私は小躍りしながら早速岩手県立図書館に行って大正13年から昭和30年までの『岩手年鑑』の閲覧を願い出た。ところが残念なことに、これらの期間の全ての『岩手年鑑』を県立図書館は所蔵しているというわけではなく、あったのは次の年のものだけであった。
  昭和3年~6年、同8年~13年、同18年、22年~30年
そしてこれらの中で県職員等の職員名簿がありなおかつ千葉恭の名前が出ていたのは
 昭和8、9、10、11、12、18年
の分のみであり、それぞれ次のような事柄が分かった。
・昭和8年  岩手県穀物検査所二戸郡福岡出張所検査員(9月末時点)
・昭和9年    〃  黒沢尻出張所立花、二子兼更木派出所検査員 (10月末時点)
・昭和10年    〃  (11/20時点)
・昭和11年    〃  (11/20時点)
・昭和12年  岩手県穀物検査所黒沢尻出張所立花兼更木派出所検査員 (11/20現在)
・昭和18年  岩手県食糧管理事務所久慈出張所検査技手(5/1現在)
なお、昭和6年版については職員名簿(昭和6年8月末現在)は載っていたが、穀物検査所の氏名欄に千葉恭の名前の記載はなかったから、
・千葉恭は昭和6年の8月末時点では穀物検査所に勤めていなかった。
ということにはなる。しかし、残念ながらこれら以外の年の『岩手年鑑』については同図書館では所蔵していなかったり、所蔵していても職員名簿が載っていない『岩手年鑑』ばかりであったりであった。
 したがって、上記の事柄だけが岩手県立図書館所蔵の『岩手年鑑』より知ることが出来た千葉恭に関する全てであり、『岩手年鑑』によって穀物検査所を辞めた時期、復職した時期等がある程度解るのではなかろうかという目論見はあえなく潰え去ってしまった。
 しかし諦め切れない私は、発行元の岩手日報社本社に行けば『岩手年鑑』の全てを見せて貰えるのではなかろうかと思い立って本社に直接問い合わせてみた。しかし残念ながら、本社の事情も県立図書館とさほど変わらず、全ての年の『岩手年鑑』を保管しているということではないという。たとい岩手日報本社に行ったとしても不明な年の全て埋めることは出来ないということを覚るしかなかった。
 結局、『岩手年鑑』ルートからあの「日」及び「期間」を探ってみようという試みは中途半端に終わり、残念ながらそれらを推定するまでには至らなかったのである。多少のことは知り得たのではあるのだが。
 穀物検査所ルート
 さてこうなると残されているのは…と思いめぐらしてみると、まだやっていなかったことがあるではないか。千葉恭が勤めていたのは穀物検査所、後には食糧管理事務所だったからこのルートがら探ることがまだ残っているではないか。
 そこで先ずはインターネットで岩手県の穀物検査所や食糧管理事務所に関して検索してみたが、そのものズバリはヒットしないし、関連する役に立ちそうな情報も得ることが出来なかった。インターネットでは埒があきそうにもない。
 ならばと、これらの役所はいまはどうなっているのだろうかと思って再び岩手県立図書館に行って、岩手の穀物検査所や食糧管理事務所に関する資料の閲覧を願い出た。するとそこに所蔵されてあったのは穀物検査所に関するたった一冊の薄い冊子だけであり、その冊子には千葉恭に関しても役所の詳細もついても載っていなかった。逆に、現在は穀物検査所はもちろんの
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 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』      ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』     ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』


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