本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

『賢治昭和二年の上京』(140p~143p)

2016-01-20 08:30:00 | 『昭和二年の上京』
                   《賢治年譜のある大きな瑕疵》








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*****************************なお、以下は本日投稿分のテキスト形式版である。****************************
が、この点についてもM氏は全く触れていない。
 その第二は、
 なお以上のような諸点の改稿は、すべて私の独断によって行ったものではなく、…(略)…願わくは、多くの賢治研究者諸氏は、前二著によって引例することを避けて本書によっていただきたい。
の部分についてである。他人の著作を独断ではないといっても、宮澤清六と懇談した上で二人の考えが一致したから改稿するということがはたして許されるのだろうか。まして、他人の著書をいわば換骨奪胎しておきながら、その原本を引例することは避けて自分等が改稿した方の著作を読めと推奨するということは、物書きを生業とする者に悖る行為なのではなかろうか。
 そして第三は、
 注意深くこの「あとがき」を読んで気付くのだが、最初の方では
 関登久也が、生前に、賢治について、三冊の主な著作をのこした。『宮沢賢治素描』と『続宮沢賢治素描』、そして『宮沢賢治物語』である。
と言っておきながら、この最後の『宮澤賢治物語』についてだけはその後に言及がないことにである。これらの三冊は共通する部分がすこぶる多いのに、なぜこの『宮澤賢治物語』と『賢治随聞』の関連を一言も述べなかったのだろうか。まるで、『宮澤賢治物語』は無視されたかの如き印象を受けてしまう。
 以上の三つは私にとっては不可解なことであり、これらのことが後味の悪さを覚えた理由かなと思った。
 ただしほっとしたこともあった。それは、この「あとがき」から私としては新たに分かった次のことである。
 それはこの本のタイトル『賢治随聞』は少なくとも関登久也自身が名付けたもでのはなかったということである。私の知る限り、思いの外関登久也は賢治を神格化しようとすることは避けねばならぬと思い、そうならないようにと常に彼は自制していた人だと私は認識していたから、このようなタイトル『賢治随聞』、どうしても『正法眼蔵随聞記』を連想したくなるようなタイトルを関登久也が付けるはずがないと私は以前から不審に思っていた。たしかにそうだったので安堵した。
 逆に、このタイトルを付けた人の方が賢治を神格化してしまった一人ということになるのではなかろうかと私は思ってしまった。さてはて、この『賢治随聞』という本のタイトルは、関登久也以外の一体誰が付けたタイトルなのだろうか。
 何を「削った」のか
 そこで、『宮沢賢治素描』(関登久也著、眞日本社)及び『續 宮澤賢治素描』(関登久也著、眞日本社)と『賢治随聞』(関登久也著、角川書店)の中身とを比べてみた。M氏のかたるところの改稿理由を確認するためである。
 ざっと通読してみた限りにおいては、「削った」ものは
『宮澤賢治素描』においては
・饗應
・知己
・報恩寺
・寒修業
・掲示板
・禮拝
・絶筆
・祖父への歌
・幼兒
・地質調査
・心理憶測
・祭禮
・利他
・霊
・立腹
・靈
である。一方の『續 宮澤賢治素描』においては
・没書
・菓子製造
が「削った」ものである。
 例えば、前者から削られた「靈」は次のような内容であり、
 賢治は人一倍優秀な頭脳と且つ鋭い神経と直感力を持つてゐました。凡人の眼には見えない、空間にうようよゐる悪靈善靈をしばしば肉眼にはつきりと見ることのできる人でありました。…(略)…さういふ常人には見ることの出來ない様々な靈界のものを賢治はあきらかに見聞きしてゐるのです。その羅須地人協會時代にもさういふものを見てをります。夜中賢治がただ一人居るその家から、身顫ひするやうな賢治の叫びを近くの家の人が聞いて居りますが、後で聞くと白装束の男が布團の上に重石のやうに乗ツかつたとか、枕上に髪を振り亂した女の形相物凄いのが立つたとか、しばしばさういふことがあつたやうであります。
<『宮澤賢治素描』(関登久也著、眞日本社)183p~より>
同じく、後者から削られた「没書」は次のようなものである。
 農林を終へ、土質の調査なども完了して、ひとまず自宅に落ついた頃は、賢治の讀書創作に没頭した年時代であります。やはりその頃童話や童謡の雑誌に「金の星」といふのが東京からでて居りました。賢治はその「金の星」に投稿してゐた様子だつたと、その當時、店に手傳つてゐた一少年がこの間話して居りました。その投稿が何べんも没書になるので賢治は「今度はいいだらう。今度はいいだらう。」と屡々投稿し、一二度は掲載されたこともあつたやうだと申してゐました。掲載された時の賢治は例のあの柔和な面持ちに滿面の喜びを湛へ、大變喜んでゐたと申します。
<『續 宮澤賢治素描』(関登久也著、眞日本社)115pより>
 前者は賢治の意外な一面であるし、後者はあまり知られていないエピソードだと思うのでともに削ってほしくないところである。それとも、これらがM氏が言うところの「こんにち時点では、調べて正すことのできがたいもの、いまは不明に埋もれたものは」だったのだろうか。私からすればそうとも言い切れないと思われるのだが(本書101pの<補足>参照)。
 改稿の必要性ありや
 さて、M氏は「改稿」の理由と仕方を
 『宮沢賢治素描』正・続の二冊は、聞きがきと口述筆記が主なものとなっていた。そのため重複するものがあったので、これを整理、配列を変えた。明らかな二、三の重要なあやまりは、これを正した。こんにち時点では、調べて正すことのできがたいもの、いまは不明に埋もれたものは、これは削った。…(中略)…仮名を使った数人の人名は、本名にもどした。たとえば大本教の出口王仁三郎や、昭和十年の座談会出席者三名のK・C・Mなどである。また、賢治を神格化した表現は、二、三のこしておおかたこれを削った。その二、三は、「詩の神様」とか「同僚が賢治を神様と呼んだ」とかいう形容詞で、これを削っても具体的な記述をそこなわないものである。
と述べている訳だが、私が通読して比べてみた結果は以下のとおりである。
○「重複」について
 確かに、『宮澤賢治素描』と『續 宮澤賢治素描』には重複する箇所はいくつかあったが、それはもともと始めから二冊構成になっているものだから、それほど違和感はなかった。
 そもそも、M氏は『宮澤賢治素描』正・続を一冊にして出版したかったということだが、そのことは既に関登久也自身が以前に行っている(その結果が、昭和32年に出版された『宮澤賢治物語』である)のだから、わざわざ新たに他人がそれらを改稿して『賢治随聞』として出版するということは道理に合わない行為である。
○「整理、配列」について
 『賢治随聞』においては大部組み替えが行われているが、それほど組み替える必要性も正直なかろうと思えた。
○「明らかな二、三の重要なあやまり」について
 これについてはその箇所を見つけることができず、結局何のことか分からずじまいであった。
○「こんにち時点では…これは削った」について
 たしかに前掲のようにいくつか削られたものがある。しかし、例えばその中の「立腹」は既に『イーハトーヴォ創刊號』4p(宮澤賢治の會、昭和14年)に高橋慶吾自身が載せているものであり、このような理由には該当しないような気もするので削った理由がいま一つ分からない。また、湯口村の遊坐俊次郎の証言「饗應」「知己」はなかなかいい話なのでこれも同様である。
○「仮名」について
 折角、関登久也が当事者に配慮して仮名にしたのであろう「邪教」や「法論」等があったが、それらは『賢治随聞』では本名になっている。ここは、当事者のことを配慮した関登久也の対処の方がベターでだったのではなかろうか。
 一方、例の座談会の出席者三名のK・C・Mについてだが、M氏が本名に戻したと言っている訳だから、M氏は当初からこの三名が誰であったかを知っていたということをいみじくも私達に教えてくれていることになる。これは注目に値することであり、今後覚えておかねばならぬことである。
○「賢治を神格化した表現」について
 M氏は「二、三をのこしておおかた削った」と言っているが、『賢治随聞』にはなくて『宮澤賢治素描』や『續 宮澤賢治素描』にあったそのような関登久也自身の記述部分は見つからなかった(私が見落としてしまったのだろうか)。
 一方の、「二、三をのこし」とM氏がかたっているような箇所だが、私がざっと『賢治随聞』を通読して気付いた部分だけでも
65p:遊坐さんは、「宮沢先生は特別だ、あの人は神様なんだからどうにもしようがあるまい」と言って遊坐さんも賢治へご馳走することはあきらめているようでした。
73p:小原さんはその高等農林を卒業し、いま福島県の方へ赴任しておられますが、宮沢賢治を神のごとくに尊崇し、何年か前には…
77p:そのときのことを回顧して兄の倉蔵さんが「宮沢先生は神様みたいな人だったから、酒も飲まないだろうと思っていたのに、その日は酒も飲んだし、煙草も吸ったし…」
87p:私の実母などは賢さんといえば人間ではなく、神仏に近い人だと信じていたくらいで…
の計4箇所あった。案外「のこし」ている。なお、これらの「神格化した表現」はあくまでも取材された側のものである。関登久也自身の行った神格化表現ではない。
 こうして調べてみると、『賢治随聞』の「あとがき」でM氏が挙げている改稿理由に、その「改稿」の実態が沿っていないと私には見える。だから、何もわざわざM氏が他人の著書『宮澤賢治素描』正・続を一冊にして改稿・出版する必要性などなかったのではなかろうかとやはり思えた。
 したがって、遺族でもないM氏がこの時期に『賢治随聞』をわざわざ出版したことは不可思議なことであるし、理に適わないことなのだから
◇改稿の必要性は全くなく、その出版のされ方は奇妙で
ある。
としか私には思えない。それゆえに他人事ながら、M氏のこのような改稿は僭越な行為であると周りから非難されたりしたことはなかったのだろうかと私はついつい心配してしまう。

2 思考実験(改竄の背景等)
 さて先の検討の結果、私としては改稿の必要性など全くない
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