尾が九本に分かれたという狐の妖怪。
女難の象徴。鳥羽上皇が寵愛した玉藻前や、悪婦として名高い妲己、褒姒などの正体もこれとされる。
美しい女に化け、男を支配して惑わし、あらゆることを自分のためにやらせる。このような妖婦というものの伝説は昔からあるが、それは悲しいものである。
なぜなら女性というものは、本質的に悪というものになりきれないからだ。
女性のなす悪は、馬鹿というものなのである。男のなす悪とは違う。男は悪でできることがあるが、女の悪は、いつも悲しく消えていくのだ。残るのは恨みばかりだ。
男にだまされ、傷つきすぎた女性の魂が、世を恨み、あらゆるものの邪魔をしてやろうと邪を願うとき、その魂は妖狐に落ちる。そして猛然と男を食いはじめ、この世界に恐ろしい難をばらまく。
女性とは愛の姿だ。その愛を獣扱いしたから、愛が獣になったのである。
男は妖狐を見ると大軍をもって滅ぼそうとするが、女を馬鹿にしてだますということをやめない限り、九尾の狐は次々と生まれ続け、この難は永遠に続くであろう。