睡蓮の千夜一夜

馬はモンゴルの誇り、
馬は草原の風の生まれ変わり。
坂口安吾の言葉「生きよ・堕ちよ」を拝す。

記憶と質量

2019-01-09 09:00:00 | ひびつれづれ


10年くらい前によく見ていたHP「煙の行方」がまだあった。

古き良き時代の三昧(さんまい)や古びた火葬場の佇まいを写真
つきで紹介してくれるサイトだった。

畑の隅や里山の目立たない所にあるレンガ造りの三昧はいつも
ひっそりと年に数回の出番を待っていた。
山の家の近くにあった三昧は知らぬ間に姿を消している。

小学生のときに先祖累代の墓(土葬)を改装合祀する機会があり、
母はぼくを連れて墓の掘り起こしに立ち会った。
ぼくの覚え方は映像で記憶するタイプらしく、今でもその時に
見た状況が頭の中に一枚の写真や動画として残っている。
土くれになった骨と[願文(がんもん)]天台宗

映像の記憶は歳を取るたびに色褪せていくが、
モノクロになっても映像自体はほぼ鮮明に覚えている。
これがいいんだかわるいんだか...もの書きとしてはプラスかな。

はるか昔にふいにくらった痛いセリフを今も憶えているのは
なんだかな...うつむく顔と後ろ姿を思いだすたびに胸が痛い。

深夜に病院のベッドで目覚め、
窓の外に冴え冴えと白い月を見た、
何かが死んで、何かが生れたとき。

この記憶のしかたには大きな欠点がある。
じぶんが興味がないことは覚えられない。
同じことを何度聞いても忘れてしまう。

記憶力がいい人、物覚えがわるい人の両極評価は
ぼくにとって同意語みたいなもの。
なるほどと納得する。

幸福感にあふれた経験は一過性に忘れてしまい、
辛いことや哀しいことはちゃんとおぼえている。
これは質量の違いみたいだ。

それで今日はというと、
なんか軽いんだよね、
羽がはえるんじゃないかというくらい。

今日は重しがわりに仕事をする。
与えられたテーマに世相の断片を知ることになるが
均衡なQualityを保持しながら、今日は軽くいこう。

 



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