梅,柿,桃,梨など果物の付いた地名は,全国各地に多くみられる。しかし,果物の品種名の付いた地名は,千葉県松戸市の「二十世紀」以外にはみられない。その地名も下記の通り7ヵ所にも及んでおり,それを冠した公共施設もある。
二十世紀が丘美野里町(にじゅっせいきがおか みのりちょう)。
二十世紀が丘戸山町(にじゅっせいきがおか とやまちょう)。
二十世紀が丘柿の木町(にじゅっせいきがおか かきのきちょう)。
二十世紀が丘中松町(にじゅっせいきがおか なかまつちょう)。
二十世紀が丘梨元町(にじゅっせいきがおか なしもとちょう)。
二十世紀が丘丸山町(にじゅっせいきがおか まるやまちょう)。
二十世紀が丘萩町(にじゅっせいきがおか はぎちょう)。
松戸市消防局二十世紀が丘消防署。 松戸二十世紀ケ丘郵便局。 松戸警察署二十世紀が丘交番。
町名は当地で誕生した二十世紀梨と二十世紀梨の梨産業に対する貢献を顕彰して命名されたものである。
二十世紀梨の発見者は当地の松戸覚之助(まつど・かくのすけ,1875.5.24~1934.6.21)である。
彼は明治8年千葉県東葛飾郡八柱(やはしら)村大橋(現・松戸市大橋)で果樹園を経営していた家に生れる。1888年(明治21)13歳のとき(4年制高等科2年生),近所にある分家の石川佐平宅に遊びに行った帰りに,同家のゴミ捨て場の近くに生えている梨の若木(実生の梨苗木2本)に気づき,その性状が自園のもの(覚之助の父が植えていた梨)と異なっていたので,これをもらい受けて,移植した。当初は,黒斑病などのために果実はなかなか実らなかったが,苦心して管理したところ,10年後の98年(同31)9月に,従来の梨とは違った色の白い,上品でおいしい味の梨の収穫に成功し,「青梨新太白」と命名。
この新しい品種の梨は,時の総理大臣大隈重信(1838~1922)やびわの新品種の発見者である田中芳男男爵(1838~1916)などからも賞賛され,1904年(同37)に東大の池田伴親(1878~1907)や同業者でもある東京興農園の渡瀬寅次郎(1859~1926,クラーク博士から薫陶を受けた札幌農学校1期生)らによって,20世紀の代表的な品種になるであろうとの意味で「二十世紀梨」と命名され,有名になった。
各地から苗木の注文が殺到し,全国的に栽培されるようになった。なかでも,04年に鳥取県に移植された20世紀梨は全国一の栽培地に成長した。梨園経営(錦果園)のかたわら,06年(同39)に著わした『実験応用梨(り)樹(じゅ)栽培新書』は梨栽培の指導書として好評を博した。昭和9年59歳で死去。
梨の原樹は35年(同10)に「二十世紀原樹」として天然記念物に指定されたが,45年(同20)米軍空襲の焼夷弾を受け衰弱し,惜しくも47年(同22)に枯死した。現在,この地には松戸市が建立した『二十世紀梨誕生の地』の記念碑と『二十世紀公園』(二十世紀が丘梨元町)がある。市内千(せん)駄(だ)堀(ぼり)にある松戸市立博物館には「二十世紀梨特別展示室」があり,原木の遺片などが展示されており,松戸翁の偉業がしのばれる。二十世紀梨の血は現在,生産量の最も多い「幸水」や「豊水」「新水」に受け継がれている。
現在,千葉県は首都圏にありながら,全国一の生産量を誇っており,松戸市に隣接し「ゆるキャラ」フナッシーで知られる船橋市は,全国有数の産地である。
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