けれど(Credo)

I:キリシタン信仰と殉教 II:ファチマと現代世界 III:カトリック典礼、グレゴリオ聖歌 IV:「聖と俗」雑感

丸血留の道(26)

2006年08月13日 | Weblog
 丸血留の道 第五 でうすに対し奉て命を捧、丸血留に成ことは如何程の位ぞと云こと。

 「真に丸血礼数のこの上もない善なる香り、百苦千難の辛苦をもって求められた位の高さを少しでもよく考えてみなさい。真につまらない鉄の鎖であるけれども、丸血留の御身に触れられたコンスタンチイナ・アウグスタ皇妃から聖ペトロと聖パウロの遺骨を所望されようとしてぱつぱ(Papa(ポ)=教皇)に勅使を立てられたが、ぱつぱ聖 グレゴリウス(590-604在位)は『御信心のために御所望なさることは真に感動します。しかしながら、遺骨を差し上げるわけには参りません。せめて御 望みを叶えるために聖パウロを縛った鎖の擦り屑を少しだけ差し上げます』と返事をされた。ああ、貴い丸血礼数の位であることよ。ほんとにまあ有り難い鎖の 貴さかな。まことにこのように貴び敬うことは道理至極のことである。なぜなら、悪魔に憑かれた者にあの鎖を掛けるとたちどころに悪魔は堪えかねて直ちにそ の者から立ち去るからである。それゆえ、古より今に至るまで学者たち、こんへそれす(Confessores (ラ・ポ)複数形=証聖者)、善人たちがあの丸血礼数を崇敬なさることはどれほどであると思うか。善人たちが丸血留になりたいと思われるその望みはこれ以 上言葉に尽くしがたい。それゆえこのような善人たちは自分たちがその位に及ばないことを考えて貴い丸血礼数の遺骸を貴び敬い、少しなりともその御善徳にあ やかろうと願うのである。パドゥアの聖アントニオ(1195-1231 フランシスコ会士)という聖人の郷里に悪人が一人いたが、どのような御奉公がでうすのお考えに叶ったのか、その悪人を丸血留の道をもってぱらいぞへお召しになるとの御告げを、聖人になし給うた。それでこの御告げを受けられた後、聖人はその悪人に会われると深い敬いと謙りをもって礼を尽くされ、その足跡を吸い給うた。そうすると、その悪人と思われた人が間もなくひいですのために異教徒からずたずたに切られて、丸血留になられたのである。」

 「学者たちが論じたように、丸血礼数は持っている限りの罪を赦されることは言うに及ばず、ぷるがたうりよ(Purgatorio(ポ)=煉獄)の苦しみまでをもすべて免れ給うのである。これほどでうすの御心に叶う位となられるがゆえに、天国においても一段と優れたあうれよら(Aureola(ラ)=光背)という貴いしるしを戴かれるのである。また身体に受けられた傷の跡も際だって輝くのである。その上聖書にあるように、丸血礼数は身には白衣を着、手にはぱるま(Palma(ラ・ポ)=棕櫚の葉)を持ち、歓喜の歌を歌い、でうすの御側を離れず、でうすを貴び給うのである。(黙示録7:9-10参照)」

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 カトリック教会には聖人・殉教者の聖遺骨・聖遺物を尊崇する伝統がある。世人はこれを誤解して被造物を礼拝する誤った行為であると非難する。そうではな い。カトリック教徒は聖人・殉教者の遺骨そして彼らに属した遺物を神のように礼拝するのではなくて、彼らがまさに神の聖人・殉教者として最もよく神を礼拝 賛美したがゆえに、神を礼拝賛美するためのわれわれのよき模範として尊敬し崇めるのである。聖遺骨や聖遺物はその彼らの記念であり、彼らを尊敬するがゆえ にまたそれらもまた尊敬の対象とされるのである。


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