けれど(Credo)

I:キリシタン信仰と殉教 II:ファチマと現代世界 III:カトリック典礼、グレゴリオ聖歌 IV:「聖と俗」雑感

丸血留の道(9)

2006年07月27日 | Weblog
 丸血留の道 第二 キリシタンに障碍を成す人の上に、御罰の顕れざる子細の事。

 「さてまた、キリシタンを迫害する人々が長い間命を保つけれども、行動を改めずいよいよ悪い状態になるのをでうすがそのままにしておかれるのは、天国の栄光のために選び出し給う人々に彼らが障碍を二つのものをつなぐものとして功徳の力を求めさせ給うためである。そのしるしとして、でうすは イスラエルのすべての人々に約束なさった国の所有権を認めさせ給うた時、その隣国の敵どもを追い払われることは容易であったけれども、そのまま多数の敵ど もをお残しになった。その理由は戦うべき相手がいない時には万事に怠りが多く、勝利を得る手段をも忘れるから、このように計らい給うのだと聖書に書かれて いる。それゆえ、キリシタンにも油断をさせることがないように、あるいはこの比べるもののない手柄を顕わさせ給うために妨げをする悪王どもを生きながらえ させ給うのである。もしネロ皇帝がいなかったならば、聖ペトロや聖パウロは丸血理与[殉教]の冠を戴かれたであろうか。デキウス(ローマ皇帝。249- 260在位)やダシアノ(イスパニア総督)がいなかったならば、聖ラウレンティウス(258年8月10日にローマで殉教)や聖ヴィンセンティウス(304 年イスパニヤ、サラゴサ市で殉教)は貴き丸血留になられたであろうか。ヘロデ大王(前73-後4年)がいなかったならば、ベトレヘムの無辜の幼児たちが殉 教者の地位に就くことはなかったであろう。国々に数々の悪王がいない場合には数万人の丸血礼数[殉教者たち]はどこの国から出て来られるであろうか。その 上悪逆非道なユダヤ人たちの仕業によって救い主ゼズ・キリシトの御功徳がすべての人間の救霊の道を達成なさったのである。上の道理によって御主でうすが悪王に罰を下すのを延ばし給うという事情は明白である。」

 「それゆえにでうすは人々に恐れを抱かせ給うために現世においても罰を下され給うたこともある。それというのは、丸血礼例数[殉教者たち]の事績に顕れているように、えけれじやを責め滅ぼそうとした悪王どもが、ある者の場合には悪魔に責められて自害した者もあり、あるいは猛獣に喰われて死んだ者もある。このことは皆代々の悪王どもの上に起こったことである。でうすはこのような罰を特に御教えを広め始め給うときに顕わし給うのである。例えばこの世の大名たちが国や郡あるいは天下を取ろうとする最初にとりわけ万民の恐れを持たせようとして厳しい処罰をするのと異ならないと考えなければならない。

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 神が悪を通じて善を達成し給う一つの例であろうか。迫害という悪を通して殉教という善を達成される神である。ローマやサラゴサの迫害とそこから生まれた 殉教者の例が引かれており、またイエズス誕生の後のヘロデのベトレヘムの嬰児大量虐殺が述べられている。悪が悪であることを止めることはないが、悪が行わ れるときに善が生まれるというわれわれ人間には素直に受け入れがたいことを神は実現なさるということである。現代の奸悪さは悪を悪でないと言いくるめるこ とである。迫害という宗教的なものを法的処罰として処理する共産主義者たちや中絶という嬰児虐殺を母胎の安全とか人口増加に対する措置として容認する現代 国家の政治家たちはここで言われている代々の悪王どもの末裔である。


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