けれど(Credo)

I:キリシタン信仰と殉教 II:ファチマと現代世界 III:カトリック典礼、グレゴリオ聖歌 IV:「聖と俗」雑感

丸血留の道(25)

2006年08月12日 | Weblog
 丸血留の道 第五 でうすに対し奉て命を捧、丸血留に成ことは如何程の位ぞと云こと。

 「このように大いに優れ、功徳も深く...(脱落?)でうすの御心に適う御奉公であることをよく知っておられるので、丸血礼数は大きな喜びをもってまるちりよの苦難を堪えられ、命を捧げられるのである。それゆえに、尊いあぽうすとろ(Apostolo(ポ)=使徒)である聖ペトロは悪王の命令によってくるすにかけられるときに『御主イエズス・キリストと同じ仕方でくるすにかけられて死ぬことは私のためには似合わない高い位である。どうか逆さまにかけてくだされ』と高官たちに頼まれた。同じくあぽうすとろ・聖アンデレを悪人どもがくるすにかけるとキリスト教徒がこれを見て、是非ともくるすからおろし奉ろうと嘆くのを聖人は聞かれて『私をくるすからおろさないでください。そのような処置をちょっとでもとらないでほしい』と人々に頼まれたということである。またあぽうすとろである聖パウロをシラスという人と同じようにユダヤ人たちが投獄したときに、牢番の者が逃がそうとしたが、少しも同意されなかったのである。」

 「丸血礼数、あぽうすとろすはすべてこのまるちりよを いつも願っておられるので、責め苦を与える人々を少しも憎み給わなかった。ただ大切な友人のように思っておられた。人によってはもっと強く責められようと して彼らを罵り嘲ることもあったようである。これほどの心持ちでおられるから、囚人となられても狭くて暗い牢獄の苦しみをもこれこそ天国と思われれるので ある。この例は特にあぽうすとろの場合に見られた。高官の前で罵られ誹謗され、数々の恥辱を受けられても、イエズス・キリストのために快く堪えられた。あぽうすとろ聖 パウロはイエズス・キリストのために囚人となられたことをどれほど喜ばれたと思うか。聖パウロは『わが縄目に会えることのキリストのためなるは...』 (フィリッピ1:13)と書いた。聖クリゾストモスはこれを注釈して『女性が指輪を大切に用いるように、聖パウロは縛られた鎖を願われた』と言っている。 聖ハヒラスという丸血留は最期の時の遺言として『私が死んだ後、棺桶に入れるとき、縛られた鎖も一緒に納めて欲しい』と頼まれた。何と驚くべき遺言である ことよ。生きておられる時も天の賜物と思われた御自分の責め道具となった鎖をさえ、死んだ後までも離そうとされないほどであるから、イエズス・キリストの ために責め苦・打擲に堪えて死ぬことをどれほどめでたいことと喜ばれたかを考えなさい。」

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 殉教者は自分を迫害し殺す者を憎まず自分に与えられる苦しみを喜んで堪え忍ぶ。彼らは自分が苦しめられた人ばかりでなく、それによって苦しめられた責め 道具までをいとおしむ。彼らは自分たちを迫害し殺す者のために彼らの救いを神に祈る。宗教の名を名乗るテロリストたちの「いわゆる殉教」は、キリスト教の 殉教とは正反対であり他人を憎み殺すために自分の命を同時に捨てる犯罪者の死である。彼らを使嗾する者の罪はなおさら重いと言わなければならない。


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