東大で刺傷事件を起こした17歳は 自分が本当に何をしたいのかという「目的意識」が働いていないから非合理で意味のわからぬ行動や言動に陥っているのである
衆愚の大半は自分の意識的行動とは別に 実証不能の謎の行動バイアスによって人間性が担保されているかのような妄想を抱いて安心満足しようとする性質があり 故に「叡智界」といった根拠のないカントの妄想であっても鵜呑みにできるのである
「学力=知能」という方程式にも根拠はないが 何となく皆がそう「思って」いる環境下では 単なる「多数」が「正常」で「正解データ」として刷り込み学習されることで 根拠のない「常識」として多くの衆愚は鵜呑みにしているだけなのである
元々根拠のない「常識」に基づいて「学校の勉強は認知的ワクチン」などと言い出せば 多くの衆愚は何の疑いも持たずに鵜呑みにし 「勉強さえしておけばデマや嘘にも騙されなくなるはずだ」という読書猿のデマを鵜呑みにして満足する
東大刺傷事件の17歳の親も こうした衆愚観念的デマに過ぎない世間の「常識」を鵜呑みにする形で 頭ごなしに「勉強をしろ」と強要したのであって 「世間的(多数)に人気があるなら 正しいことを言っている」という主観的「印象」によって真実を見失っているのである
刺傷事件の17歳が「目的意識」を失ってしまっている原因とは そもそも大多数の衆愚に「目的意識」が働いていないのが原因である
衆愚観念的には 自分が生き続ける上において 多数に迎合しておかないと主観的に「怖い」から迎合しているだけであって 生き続けることに絶望してしまえば簡単に多数への暴力的報復攻撃という最終解決に暴走することになる
人間性の本質とは 多数に迎合同調して権威に服従忖度することではなく 自律的に社会的責任判断選択を行うことであって この選択において生存価だの気分的安心満足は優先されてはならない
単に多数や権威に服従忖度迎合同調しているだけであれば これは多数や権威に選択が依存してしまい 自律判断にはならない これが根本的な衆愚観念的な大間違いなのである
衆愚の観念的には 多数や権威に同調迎合服従忖度さえしておけば 主観的に安心満足感が得られることを あたかも論理客観的安全性と錯覚することで これを「道徳」と称して論理客観的根拠のない身勝手な「お花畑」的理想を鵜呑みにし 子供に押し付けているからこそ自律的に社会的責任を負わないバカが大量生産され続けてしまうのである
東大刺傷事件の17歳のような人は少数だと「思って」いるであろうが これは事実誤認である
一つの重大事象の陰には 無数の小さな事象が隠れている(ハインリッヒの法則)のであって 大衆の大半が「ヒトという種の生物には先天的に人間性が組み込まれているはずだ」などという科学的根拠のない生物学者や社会心理学者共のデマを鵜呑みにして 結局は主観的に満足安心できることへの多数人気を あたかも論理客観的根拠のある真実と誤認しているバカが大半を占めているからこそ 通り魔などの「重大事象」への発展を許してしまっているのである
ヒトという種の生物は 気に入らない相手を殴りたいと思うものである それと同時に怖い相手には逆らいたくなく 結局通り魔の類いが標的にするのは心療内科の医療関係者だの 単なる受験生といった弱者であって ヤクザや暴走族といった典型的な迷惑者には向かわないのである
自分が生きている世間が「生きづらい」からといっても 心療内科医や通りすがりの受験生に暴力を振るっても何の解決にもならないのだが そういった合理性というものがスッポリ抜け落ち 目的も何もない非合理で不条理な「八つ当たり」によって主観的満足を得ようとするようになるのは 自分が本当は何がしたいのか 何を目的として生きているのかという「目的意識」が働いていないのが原因である
「東大に入って医者になりたかったが 成績が振るわなかったので自暴自棄な気分になって無差別刺傷事件を引き起こして自殺したかった」などという「動機」には 元々「何のために医者になるのか」という目的意識がなかったからである
「東大卒で国境なき医師団で活動」していれば それはそれは世間的にも「立派な人間」ではあろうが それは主体性がなければできるものではない
本当に「病気から人々を助けたい」という意思がないからこそ 無差別刺傷事件なんぞを引き起こすのである
単なる世間的価値観「常識」に基づいた「憧れ」による世間的評価が目的だからこそ 「医者になれないから無差別刺傷事件を引き起こす」という支離滅裂な行動に陥るのである
世間的評価に依らず 自律的な社会的責任判断選択をすることこそが人間としての社会性であって 世間の多数評価に流されるからこそ特攻隊を「英霊」だと信じ込んで政府権力の手先となって無意味な暴力に加担した挙げ句 終戦で特攻の価値が失われた途端に「特攻崩れは荒れた」のである
自分の存在価値を 多数衆愚に丸投げし 本当に何をすべきかを自律的には一切選択していなかったからこそ 世間に対する無差別報復的に「荒れた」のであって 世の中の「常識」に本当に論理客観的根拠があるのかどうかを自分の頭で「考え」ずに ただ目先の気分的安心満足感を追求した結果が思い通りの評価にならなければ報復的に「荒れる」だけである
多数が「英霊」と称して評価していることに対し その評価に流される形で特攻隊に志願していただけであって 「特攻が世の中にとって本当に意味のある行動なのか」といった「考え」がなく ただ目先の主観的安心満足だけを追求していたからこそ 評価が得られなくなった途端に「荒れた」のであって これもまた先天的本能による行動バイアスに無意識に流されているに過ぎない
何度も繰り返すが 人間性の本質とは「個人が自律的な社会的責任を負う」ことであって 衆愚観念に則って人気や報酬や評価を得ることではない
学歴が高ければ就職に有利で年収も高いという現状世間の「結果」に基づいて「金儲け能力=頭が良い」という観念を鵜呑みにすることも簡単であり 中野信子はこうした短絡的価値観に基づいた知能論をでっち上げて衆愚人気を集めているのである
衆愚人気を集めていれば 本も売れて金も儲かるだろうが 「金儲け能力=知能」という方程式には認知科学的はおろか 何の根拠もない衆愚観念でしかなく 衆愚観念に寄り添って衆愚から人気を得ているだけのペテンに過ぎない
衆愚は 自分が世間的に評価されたり金儲けに成功するという価値観だけが優先し 「人間としての社会性とは一体何なのか」など本当は興味などないのである
社会安全性にとって最も重要な知見とは 何が本当に危険なのかを知ることである
社会安全性を担保できなければ それ以外のあらゆる「能力」には人間としての価値は存在しない
自分という「ヒトという種の生物」における先天的な認知上の欠陥を知り どのような間違いに陥り易いのかを理解していれば 同じ様な間違いには陥りづらくなるのだが
衆愚はそうした自分の先天的な欠陥を直視することを忌避し 「道徳」教育のような論理客観的には何の根拠もない身勝手な「理想的人間像」を漫然と子供に押し付けて主観的に満足するだけである
ヒトは気に入らない相手を殴りたいと主観的に「思う」ものであるが 暴力というものは自分がこれからも生き続ける社会全体の損失になる非合理なものであることを「理解」していれば 暴力で解決しようとは「考え」なくなることも可能である
しかし 暴力というのは簡単に目先の欲望を満たす上においては便利なものであり 衆愚の大半は「怖い」相手には逆らわずに媚び諂(へつら)い阿(おもね)り忖度服従してしまうため バカだと暴力の便利さを「学習」する形で暴力依存に陥ることになるのである
それが「暴力者の常識」なのである
自分よりも弱い相手なら 殴っておけば便利に使役することが可能である これは物理的に「強い」必要性はなく 抽象的な「権威」肩書だけで充分であり だからこそミャンマー政府軍は民衆虐殺という暴挙も簡単にできるのである
現代文明以前の社会においては 環境資源の独占競争においては集団暴力は「繁殖の継続」において有効に作用することで ヒトは集団暴力的差別や民族浄化のバイアスを持った個体種への収斂進化を果たしているのである
ヒトはヒトにまで進化する過程のほとんどが過酷な野生環境下における生存競争を勝ち抜いた野獣の末裔であって ヒトにまで進化する以前の方が圧倒的に長いのであり 情動を司る大脳辺縁系の構造自体は解剖学的にも野獣のそれとほとんど同じである
遺伝的進化の過程においては 殺し合おうが奪い合おうが騙し合おうが 「死ななければ成功」「繁殖を継続できれば成功」であって そこに人間性が伴う必要性など何もないのである
メスを集団強姦してでも繁殖さえできれば進化的には「成功」であって 無責任に誰彼構わずヤリまくるオスの方が遺伝子を遺しやすいのも「結果」である
集団強姦の被害者達の大半は何も言わないだろう
それは「圧倒的多数ではない」からだ
ヒトの男がどれだけ卑劣であるのかなど 被害者はもとより加害者が主張することなどないのである
「欲望そのものを欲することはできない」
これは定理であり真理である
自分の遺伝子は自分では選択不可能であり その遺伝子によって形成された大脳辺縁系によって促される情動バイアスも 様々な世間的「常識」バイアスも 自分では選択不可能である
だが 様々な価値観の中から統合的観点に立脚して「本当の目的」を選択することは不可能ではない
ただ 「難しい」だけのことである
「難しい」とは言っても 要は主観的に「嫌だ」というだけであって そんな個人的な好き嫌いは「やらなくても良い理由」「選択不可能性の根拠」には全くならない
大学入試で高成績を採っても 金儲けに成功したり世間的人気を得ても 自律的な社会的責任判断選択が可能になるわけではない
衆愚は「世間的評価さえあれば 世間的評価を失いたくないから悪いことをすることは合理的ではないからやらないだろう」という勝手な期待をしがちだが 欲望に踊らされているバカに合理性など通用しないのである
他人からの評価や承認ばかりが優先している中毒者であれば 際限なく欲望を満たそうとして嘘でも何でも平気でつくようになるものである
世間的評価を得られていない相手の話など 主観的には「信じたくない」というバイアス(偏見)もあるだろうが 主観的に「信じたい」かどうかで物事を判断している時点で自分の主観的「印象」を自己過信している傲慢さを発揮しており 論理客観的に正しいのかどうかを自分の頭で「考え」ていないのである
「考え」ていないバカの判断の多数決など クソの役にも立たないことは いちいち説明するまでもなかろう それはただの洗脳である
ヒトが洗脳されるのは 洗脳状態が安心満足で気持ち良いからであり 一旦洗脳状態に陥ると脱洗脳に対する恐怖心から拒絶反応を示すから脱洗脳ができなくなるのである
もっと平たく言えば バカは自分がバカだとは思っていないのであり
それは酔っ払いが「俺は酔っ払ってなどいない」と主張することや 振り込め詐欺師に引っかかっている人が「俺は騙されてなどいない」と頑なに主張するのと一緒である
Ende;