東大刺傷事件のようにセンセーショナルな事件が起きると 短絡的に腹を立てて犯罪者の家にラクガキしたり電話で怒鳴り散らしたりするバカが出てくるようだが
それも犯罪であることに違いはないからな
「親」というのは最初は必ず全員初心者であって 誰もが子育てに失敗する可能性がある
失敗というものに対し 気分(主観)的に悔やんだり 懲罰だの禊(みそぎ)だので何かが解決したかのように錯覚するから 実効性のある具体的再発防止にならない
気分(主観)なんぞ 正直どうでもいい話であって 最も社会的に重要で優先されなければならないのは 被害者をこれ以上出さないための再発防止である
被害者を出さないために必要なのは 加害者も出さないことであり 加害者がどのような原因によって加害者になったのか なぜ「自律的な社会的責任判断選択能力が養われなかったのか」についての徹底した分析が必要であって こうした論理客観的対策に必要なのは危険学や失敗学のメソッドに則って刑法を一時停止させる必要がある
ヒトは誰でも間違える可能性がある存在であり 誰も完璧に一切の過ちを冒すことなく生涯を終えるヒトなど存在しないのである
その上 先天的な認知上の欠陥によって 「懲罰や禊で罪がキレイになったから解決だ」などと勝手に妄想する習性や 「自分だけは絶対に間違えない 大丈夫だ」という根拠のない自己過信に溺れる性質(正常性バイアス)があるため 問題の本質というものを簡単に見失うことに陥るのである
無差別殺人犯の類いを何人死刑にしても厳罰化しても 無差別殺人をやらかすバカがどうして発生するのかという原因究明にはならない
その結果 何度も似たような被害が繰り返している責任は 司法に限らず それを傍観放置している代議員や国民全員にも存在しているのである
子供の8割がイジメを傍観放置することや 日大のような組織腐敗を大半の職員達が傍観放置することからも ヒトという種の生物は周囲の多数に同調迎合する形で個人が自律的な社会的責任判断選択をしなくなるものなのである
大衆観念的には 周囲の多数に同調して主観的に安心していれば人間性が発揮されるものだと勝手に妄想しているが 実際には大多数が責任を多数他人任せに丸投げすることによって個人の自律が損なわれ あたかも多数によって個人の責任が薄まっているかのような錯覚によって 様々な問題が放置温存される原因なのである
東大刺傷事件の17歳が通っていた高校の見解では 「孤立が良くなかった」といった解釈をしているが 「多数に流されることが人間性だ」という根拠のない大衆観念に基づいた「決め付け」であって 多数がバカならバカに同調迎合しても人間性など発揮されなくなるのであり
人間性の本質である「個人が自律的な社会的責任判断選択を行う」ために必要なのは 8割の無責任な多数他人との同調迎合性ではなく 個人が自律的に「何が真理(本当のこと)なのか」を自ら識別判断できる能力を持つことである
イジメが起きている学級内で 傍観放置しておいた方が「身のため(利己的保身のため)」である
イジメという問題に対して自己保身よりも問題解決を優先することの方が重要だという自律的判断などしない方が イジメが起きている学級には馴染む上においては有利である
しかし こうした間違った環境への適応としての同調迎合性というものは 動物的な「社会性」ではあっても 断じて「人間としての社会性」ではないのである
ゴリラだのチンパンジーだのといった野獣の群れの中では 順位序列による不公平な封建的統率協調性が生息環境においての「繁殖の継続」にとって有利に働いた結果的収斂進化を促したとは言えるものの そうした「野獣の順位序列」を受け入れてしまう傍観放置性もまた本能的な行動バイアスでもある
主観的に「怖い」ことは誰もやらない
先天(本能)的に「やりたくない」からである
それが生物学上における「社会性(社会形成習性)」の実態であり 松沢哲郎はこの説明に対して 「チンパンジーの(先天的)行動習性から 人間としての社会性が立証できるかも知れない」などというトンチンカンなはぐらかしによって衆愚人気を集め これが文化功労賞として「評価」されたのであって 実際には理論的にも実証的にも何も立証することができずに11億もの研究費を不正流用するという不誠実極まりない結果しか残していないのである
本人が平気で嘘をつくのに どうして「チンパンジーの人間性」が立証可能だと言えるのであろうか 完全に頭がおかしい
霊長類研究所の実験観察のように 香港警察の武装警官やミャンマー政府軍兵士を鋼鉄とポリカーボネートの檻に監禁して 彼らがどのような行動を採れば既に行われた残虐行為の反証になると言えるのであろうか
遺伝的進化というものは あくまで「繁殖を継続」して存続しているという現存種の結果以上の何も促すことはない
特定環境下での断片的協調性だけを抽出してきて「人間性だ」「社会性だ」とこじつけることは 到底科学的論証にはならない
振り込め詐欺師の組織内部で食事を奢ってやっても それが「振り込め詐欺師の人間性の論証」になどなるわけがなかろう
ヒトには統率的協調性というものはあるものの それはあくまで「他の部族集団との環境資源の奪い合い競争に勝ち抜く」ことが「繁殖の継続」にとって有利に働いた収斂進化の結果であって それはヒト以前の野獣レベルの祖先の生息環境によって促された「本能的行動習性」に過ぎない
ヒトの先天的な統率協調性を利用すれば 軍隊や警察のような組織を用いて理不尽な暴力者集団への対抗することも可能ではあるものの そもそも理不尽な暴力者集団が形成されるメカニズムやプロセス自体が先天的な統率協調性に起因するものなのであって 軍隊というものが文民統制を必要とするのは 軍隊というのは集団統率的暴力装置でしかないために 文民が統制しなければ戦時中の日本軍やミャンマー政府軍のような暴力の暴走しか招かないものだからである
ヒトは孤立を怖れる習性がある 「怖い」ことは本能的に誰もやりたがらない
だからこそ 個人は自律的な社会的責任判断選択をしなくなるのである
「皆で仲良く組織腐敗していれば安心」だからこそ日大の組織腐敗は長年に渡って傍観放置温存され続けてきたのであり 「組織の利益を優先」することで原発の津波に対する脆弱性は放置され続けてきたのである
主観に過ぎない安心満足ばかりを優先するからこそ 様々な組織腐敗や無責任性は温存され続けることになるのであり 主観的安心というのはそもそもが先天的な情動によって促されるものであり 情動というものは自己選択不可能な先天的本能習性に因るものであり 先天的本能習性というものは野獣に過ぎない祖先の生息環境下における収斂進化の結果でしかないのである
「目的」も含めて真実かどうかを見極め識別するために必要なのは 論理客観的検証性(理性)である
ミャンマー政府軍や香港警察が横暴だからといって感情任せに暴力やデマで対抗しても何の解決にもならないばかりか むしろ事態を悪化させるだけである
ミャンマー政府軍兵士が軍の命令に従わなかったり脱走したりすると 政府軍によって兵士の家族に危害が加えられるという暴力団みたいな手口で服従を強要されていることから 反政府勢力側では兵士が安心して脱走できるように兵士の家族をかくまうという合理的手法を用いているという
感情任せに暴力の応酬を繰り返しても問題の解決にはならない
そもそも「暴力で解決」したがる習性とは 野生動物が過酷な自然環境下において死なずに済む「行動習性」としてヒトの大脳辺縁系にも組み込まれた情動行動バイアスに過ぎない
物事を論理客観的に「考え」られないバカになると たとえどんなに学力学歴が高くても自律的な社会的責任判断選択能力は発揮されることはないのである
「世界は教科書でできている」だとか「学校の勉強は認知的ワクチンだ」などといった根拠のないデマを鵜呑みにしているから 大人達は子供に対して頭ごなしに「勉強しろ」「先生の言うことをきけ」などと盲目的服従性を強要するようになり これが子供達から主体性を奪い自律的判断能力までをも剥奪してしまう結果に陥るのである
宮台真司が「自分の頭で考えるのは10年早い 丸暗記しろ」などと言い出したのは 自分が「教師からそう言われた」などと強要されたことを事後正当化するための条件反射的な「連鎖」行動に他ならない
自分が教師から理不尽な判断を強要され しかも盲目的に服従した既成事実を事後正当化し 認知的不協和を解消する形で非合理で理不尽な「連鎖」は生じるのである
しかも こうした「連鎖」は非常にヒステリックで感情的で頑なであり 論理的反論の全ては頭ごなしに否定したがるものでもある
なぜ感情的なのかと言えば それこそが主観的安心満足であって 主観的安心満足を侵されることに対する本能的拒絶反応だからである
松沢哲郎などの生物学者共が 遺伝的進化における「典型的な間違い」を一切訂正したがらずに 支離滅裂なはぐらかしに徹しているのも 既存の権威性を失うことを怖れる本能的拒絶反応に他ならない
ヒトという種の生物の先天的欠陥に基づかなければ ヒトはいつまでも「何が本当の人間性なのか」を見極めることはできないのであり 「先天的に人間性が組み込まれている」などという耳当たりの良いファンタジーで満足しているから 真実が見えなくなっているのである
環境プラスチックが世界的に大問題になっているにも関わらず 相変わらずプラスチックゴミが路上にポイ捨てされているのをよく見かける
温室効果ガス削減もそうだが 地球環境保全において最も重要なのは 一人一人の「意識」なくしてあらゆる問題は解決しないのである
ヒトはすぐに「天才」だの「英雄」だの「権威」だのといった特定のカリスマ的な個人が社会問題を解決してくれるものだと頼りがちであるが そういったパターナリズムこそが個人の自律的な社会的責任判断選択能力を損なわせる先天的習性による行動バイアスなのである
「多数や皆がやっているから安心だ」では 人間性の論証にはならないし ただの同調圧力で「怖いから誰もやりたがらない」でも人間性は損なわれることになる
何度も繰り返すが 人間性というのは「自律」的な社会的責任判断選択能力であって 孤立や少数派に分類されてでも真実を追求する個人の判断こそが最も重要なのであり そうした個人の自律は世間的評価や報酬には結びつかないことも充分にある
より多くの人が 「自分が本当に望むべき社会の在り方」としての「本当の目的」に基づいた行動選択をしなければ 組織腐敗や無責任性は温存されることになり あらゆる諸問題の大半は解決せずにバカげた「連鎖」によって何度も繰り返され続けることにもなり 被害に遭わなくても良かったことでも被害は繰り返され続けることになるのであり その責任は「多数で薄まる」わけではない
個人の判断というものが社会的責任にもつながっていることを自覚しなければならないのである
「誰かに判断責任を丸投げしておいても構わない」という発想は 幼稚な「甘え」でしかないのである
Ende;