心理学においては主観的に納得感のある判断を「合理化」と呼ぶことがある
気分の悪くなる話に耳を貸さないための非合理な屁理屈であっても心理学上は「合理化」と呼ぶのである
主観的納得感とか満足感というものを あたかも論理客観的な合理的根拠に基づいた合理性と錯覚する性質が「ヒト」にはあるからだ
イマヌエル:カントの「純粋理性批判」の内容には論理客観的合理性が著しく欠如しているにも関わらず 哲学界もマスコミも一切周知報道しない原因として
今まで自分が信じて疑わなかった頭の悪さを認めたくないという感情によって 論理反証に耳を貸さない 無視するという選択をしているからである
それが大多数を占めていれば 無視することも安心してできる
これを心理学上では「合理化」と形容しているのである
もちろん合理性などない
念の為に繰り返し説明しておくが 「絶対に知覚することのできない叡智界」に「人間は属しているのである」という話には論理客観的根拠が全く示されておらず カントの勝手な実証不能の観念を鵜呑みにして主観的に安心満足納得しているに過ぎない
なぜ叡智界は絶対に知覚することができないのか
なぜ知覚することも立証することもできない叡智界が存在し 「人間が属している」と言えるのか
そのどちらも根拠がないのである
「純粋理性批判」では 最終的には「天空の星々と人々との関係性」などという意味不明なファンタジー妄想で締めくくられている
当時の天文学では天体の動きは全て秩序立った永遠の完全性が保証されているものであるかのように錯覚されていて 人々の関係性においてもアナロジーを適用しておけば自動的(先天的)に人間性のようなもの(道徳)が発揮されるかのような錯覚を読者は「感じ」て満足納得して安心することで これを「合理化」だと錯覚するのである
養老孟司は「論理整合性が開かれているだけ自由ではないか」と述べたが 論理整合性がない話というのは支離滅裂な一貫性を欠いた話であって 理論として成立していないのである
やれ「人間は川だ」だとか「君子豹変す」だとか 「私は教科書に墨を塗らされた」だのと都合の良い屁理屈をこじつけて支離滅裂な その場限りの屁理屈によって「脳化社会」などという意味のない勝手な決め付け観念を正当化していたに過ぎない
「皆さんは電車やバスを使って徒歩や自転車を使わないから脳化している」だとか「都市 対 田舎」といった安易な対立構図にこじつけて その内容とは「約束を守るから脳化」などという全く意味不明で何の役にも立たない「説明のための説明」の見本市である
養老は「意識に意味はない」と述べ「右に行くか 左に行くか その好き嫌いに意味はない」というのが根拠説明だが
これは主観的好き嫌いや気分感情の話であって 論理客観的根拠を伴った合理的判断のことではない
ヒトは自分の主観的好き嫌いや気分感情のことを意識の本質だと錯覚しているため 「電話の相手が丁寧な言葉遣いをしていた」などという主観的印象だけで簡単に信じ込み簡単に詐欺師に騙されるのである
「今日中にATMを操作しないともらえるはずの給付金が受けられずに損をする」だとか 「今日中に金を振り込まないと親族が逮捕される」だとか 「今日中に金を用意しないと名義貸しの罪に問われる」などといった支離滅裂な話であっても 主観的に「焦って」しまうことで自己客観性を失って唯々諾々と詐欺師に金を払ってしまうのである
「焦る」というのは感情であり 先天的本能習性による思考のバイアス(偏り)であって 焦ることで論理客観性が失われる構造が脳にあるのは 過酷な自然界における生存競争においては 冷静に判断するよりも「怖い」と感じた瞬発的に行動を促した方が生存にとって有利に働いたことで収斂進化した結果的習性である
スポーツにおいても 世間やマスコミからのプレッシャーによってパフォーマンスに著しい悪影響を与えてしまうこともある
逆に応援されることでパフォーマンスが上がることもあるのだが 環境依存的に応援によって能力に影響を及ぼしてしまう論証でもある
こうした精神的影響というものはヒトの行動判断や思考能力も含めたあらゆる能力に影響を及ぼすものであり 当人が意図目的とする能力にとって常に都合良く情動が働くわけではなく
先天的本能が促す情動というものは 祖先の生息環境による影響を色濃く反映し 合理性のない無駄な行動判断を促してしまうことがある
学校や海上自衛隊でのイジメも 日本大学の組織腐敗も ナチスやポルポトやミャンマー政府軍による虐殺であっても その行動の結果には合理性が何もないにも関わらず非合理な暴走破綻へと邁進してしまうのは ヒトの先天的な認知上の欠陥に起因する錯覚によって促されてしまうのである
ミャンマー政府軍兵士が暴力を振るうのは 「暴力的威圧による恐怖心さえ与えれば服従統率が可能でだる」という前提によるものであるが これは軍隊内部において兵隊が暴力威圧的恐怖心によって服従統率されている事実を事後正当化する形での主観的「納得感」によるものである
「面倒臭くなったら 訳のわからぬことを言ってはぐらかす」と養老自身は明言している
多くのヒトは 「自分だけははぐらかされてなどいない」と主観的に「思って」いるようだが 養老の著作はほぼ全てが「はぐらかしの見本市」であり 養老の著作に意味があると「思って」いる多数人気が「養老が嘘つきではないことの論証」には全くならない
実際に養老が主張していた「脳化」云々の屁理屈には何の具体的応用性もなく リチャード:ドーキンスのお伽話とさしたる違いはない
養老はこうも言っている「わからないなら わからないなりに わかったとする そういうわかり方もあるのかと 思って頂ければ幸いです」と
要約すれば 論理客観的に理解できなくても 観念的に「わかった」ような気分や感覚や印象による「わかったような感覚(錯覚)」に陥って満足して頂ければ 養老の嘘がバレずに済むので「幸い」なだけである
一応念の為に言っておくが 養老は「論理客観的に理解できていないのに わかったような錯覚に陥ることが真実を見誤る原因」だとは言っておらず ただ「そういうわかり方もあるのかと 思って頂ければ幸いです」と言っただけである
養老に口頭で問い質しても 「そういうわかり方もあるんですよと言っただけ」だとはぐらかすであろう 養老とはそういうはぐらかしにおいては手練れであり 話のほぼ全てがはぐらかしの陳列である
これはペテン師や占い師の手口と一緒で 口頭で説明を求めても証拠や記録が残らない場面ならいくらでもはぐらかしが効くため 養老だの山極寿一は口頭での「話し合い」を求めるのである
サイコパスのペテン師に何を訊ねても無駄である 既に証拠の残っている書籍などから論理整合性の欠落や嘘を指摘しなければ 養老はどうにでもはぐらかせる根っからのペテン師である
ヒトは 他人を信じていたい習性がある
他人を疑い始めるとキリがなく 常に不安につきまとわれ また 他人の言うことに疑いを持つことに根拠のない罪悪感を「感じる」傾向がある
盲目的に他人を信用しておいた方が気分的には楽なのである
占い師やペテン師の常套句に「他人の言うことを信用しないのは心の狭い態度です」というのがある
誰も自分から「心の狭い態度」は採りたくないと「思って」いる(バイアス・偏り)ため 引き換え条件として「俺の言っていることを頭から信用しろ」という「究極の選択」を突きつけ 疑う客観性を相手から排除する手口である
学術権威の肩書を持った相手であれば それは多数によって言っている内容が検証されて保証されているものだと「思って」信じていた方が気分的に楽である
大多数のヒトが学術権威だと疑わずに信じ込んでいる相手を疑うことは 同調圧力に抗うことでもあるため 大多数のヒトは権威を疑うことに根拠のない恐怖心を抱き 疑うことをしなくなる
イマヌエル:カントの「純粋理性批判」に対し 西研(東京医科大学)が「近代哲学の最高峰」などと形容したことに対し NHKの番組制作者も含めてマスコミも大衆の大多数も何の疑いも持たずに鵜呑みにした
ヒトという種の生物は 本能的には論理客観的根拠に基づいた真実を求めているのではなく あくまで他の動物と同様に目先の安心満足納得感を求めているに過ぎず 目先の主観的安心感さえ得られれば詐欺でもペテンでも簡単に鵜呑みにするものなのである
真実と嘘や間違いの源は 主観によって促される感覚(錯覚)によるものである
一度真実だと思って信じると ヒトは既に信じ込んだ自分の頭の悪さを自覚して不安に陥ることを拒否して盲目的に信じ込むことをやめようとしなくなる
Microsoft社のTwitterAIが Twitter上の数多のヘイトスピーチを「正解データ」として学習した結果 ヘイトスピーチに同調したように
一度無意識にヘイトスピーチに便乗したヒトというのは自分の頭の悪さを自覚して不安に陥ることを避ける(認知的不協和を解消する)形で頑なに反論に耳を貸さなくなるのである
養老孟司は「人気」はある
だが 「人気」という「多数」が養老の主張の論理客観的根拠や整合性の保証には全くならない
ましてや「著作が売れて金が儲かった」という「世間的成功」も 養老の主張の保証にはならない
そもそもが「意識」というものの定義が曖昧なまま「意識に意味はない」という言葉のレトリックが持つ主観的印象を用いることによって 「養老が何か有益な理論を説明している」ような錯覚を作り出しているに過ぎない
真実か それとも嘘や間違いかを見極め 真実に基づいた行動選択ができないことには人間性もスッタクレもあったものではない
カルト宗教の教祖を信じていて人間性なぞ発揮できるわけがないのである
養老孟司は個人の主観的な好き嫌いや情動や印象と 論理客観的根拠に基づいた真実を識別する能力との区別をつけておらず ただ「意識に意味はない」と述べたに過ぎず 養老の著作においては あかたも「意識の全ては意味がない」かのようにしか書かれていないのである
「ヒトの意識の9割は無意識」と言われているが ヒトの意識というものは生育環境に依存した「常識」を根拠もなく「正解データ」として学習しただけであって ヒトのほとんどは自分の頭で物事を論理客観的に検証判断して真実か嘘や間違いかを見極めることなど人生の中で1割もしたことはない
だからこそイマヌエル:カントの「純粋理性批判」を鵜呑みにし 原発の津波に対する脆弱性も 日本大学の組織腐敗も傍観放置されることになったのである
ヒトという種の生物は その先天的な封建的統率協調性としての「社会性(社会形成習性)」によって 権威や上官や上司の命令を盲目的に唯々諾々と鵜呑みにして自律的な社会的責任判断を放棄する習性が存在しているのである
学術権威肩書など 自分よりも「上」とみなした相手の命令や主張であれば その行動判断責任は自分にはなく 「権威を権威としてみなしている多数の他人によって責任が薄まっている」ものだという「感覚」によって ヒトは自律的な社会的責任判断を簡単且つ安心して放棄することができるのである
言うまでもなく こうした「感覚」は錯覚である
カルト宗教の信者が 一度信じ込んだ教祖や教義を疑わなくなるのは それこそが主観的に安心満足だからである
安心なもの以外 「安心ではないもの」に対しては「恐怖」を抱くように脳は出来ている
ドーパミンによって促される脳の常習性というものは 安心と同時に恐怖を作り出すことで価値観(好き嫌いバイアス)を作り出す大脳辺縁系のシーケンスである
「学術権威の肩書を持った人物なら 必ず正しいことしか言わないはずだ」という「常識」には根拠がない
それは既に松沢哲郎で「立証」されている
京都大学の教授が満州で中国人捕虜を用いた凍傷の生体実験をしたことは あまり知られていない事実である
中国人兵士の捕虜を 薄着で猛吹雪の中に連れ出し 手足がどのように壊死してゆくのかを検証するという実験を京都大学はやらかしたのである
ノーベル賞受賞者を何人輩出していても それは京都大学の教員の人間性の立証には全くならない
それは東大でも同じことであり 未だに東大では一般教養過程でイマヌエル:カントの「純粋理性批判」やフリードリヒ:ニーチェを「哲学」だと教え込んでいるという大失態を継続し続けているのである
学生達は苦労して難解な入学試験をパスしたことで あたかも「東大教員なら正しいことしか教えられることはないものである」という盲目的信頼によって 科学的批判精神を簡単に失うことにもなる
何度も言うが 学力偏差値は認知学的にも知能の論証にはならない
学力偏差値の高い東大医学部の学生が どうして毒ガステロをやらかしたのかについての論理客観的原因究明も 具体的実効性のある対策も一切されていはいないのである
多くのヒトは「東京大学名誉教授」という肩書さえあれば 常に論理客観的に整合性のある正しいことしか言わないものだと「思って」いるため 養老の著作の支離滅裂な話には何の危険性も主観的には「感じ」ることがないのである
主観的に安心なものに対しては 怖くないので 危険だとは「思わ」ないからである
逆に言えば 多数が信用している権威を疑うことは 権威を権威だとみなしている多数派の同調圧力にも逆らうことになる恐怖心や羞恥心によって 大多数のヒトは日和見傍観放置しかしなくなるのである
ノーベル平和賞を受賞したジャーナリストのマリア:レッサは「沈黙は共謀に等しい」と述べた
学校でのイジメが成立するのは 学級内の8割による日和見的傍観放置によるものであり ヒトはそもそも「個人が自律的な社会的責任判断選択」などせずに その場限りの利己的安全の方を優先する卑屈なものなのであって 決して「先天的に人間性が組み込まれている」ような都合の良い存在ではないのである
ヒトは ヒトに進化する以前の期間の方が圧倒的に長く 進化的にはヒト以前の野生動物としての行動習性の方が圧倒的に優位に働くものなのである
哺乳類にまで進化したのが1億年前だとしても ヒトにまで進化したのはたった5万年に過ぎず 哺乳類としてもヒトにまで進化してからは1/2000の期間に過ぎず 哺乳類以前の本能習性も遺伝的進化過程においての影響がないわけではなく ヒトの先天的本能習性というもののほとんどはヒト以前の野生動物に由来するものなのである
解剖学的にも情動を司る大脳辺縁系の構造は他の野生動物との違いなどなく ヒトが他の動物と異なるのは大脳新皮質の容量(大きさ)だけであって 情動という「主観」の方に人間性が存在するなどという論説には根拠がない
断片的に特定実験環境下において利他的行動を都合良く抽出してきて「人間性だ」とこじつける論証は多いが これは衆愚が「自分は先天的に人間性を発揮する優秀な存在だ」と勝手に安心満足させて人気を得るだけの「科学的根拠を飛躍したデマ」に他ならない
「信じたい話」だけを信じていた方がヒトは安心満足し 精神的に平穏でいられる
その精神的(気分的)平穏こそが人間性か何かだと「思って」おけば安心満足でもある
大脳辺縁系によって作り出される常識的価値観(正解データ)というものは 深層学習型ニューラルネットワークAIにおける「正解らしい確率何%」というバイアス(偏り)しか導き出すことはない
ハトの群れの中を自転車で通過する時 ハトは自転車の車幅程度しか道を譲らない
ハトは経験則的に「車幅程度に避けておけば轢かれたりはしないものだ」という「常識」によって安心しているためである
ヒトが自動車のスマホ運転をするのも 経験則的に安心しているためである
それは飲酒運転でも同じで 飲酒運転をしても「今までずっと事故を起こしたことがない」という経験則によって安心して飲酒運転をすることが平気でできるようになるのである
草むらの中に潜むスズメの群れの中を自転車で通過しようとすると 最初に飛び立ったスズメに追随する形で群れが一斉に同じ方向に飛び立つことで むしろ自転車の直前を大量に横切ることがよくある
草むらの中にいるスズメの多くは自転車が来たことを認識して飛び立っているのではなく 他のスズメが飛び立ったことに追随し 「何だかわからないけど皆が飛び立ったので 自分も飛び立っておいた方が良さ(安心)そうだ」と追随しているだけであるため むしろ自転車の直前を群れて飛び立つことになるのである
「ハーメルンの笛吹き男」は実話に基づくものだという
ヒトもまた スズメと同様に自分の頭で物事を検証したり認識したりして自分で判断して行動を採るとは限らず 条件さえ整えば簡単にデマや嘘やエコーチェンバーに陥って真実を見誤るものである
振り込め詐欺が入れ替わり立ち代わり多数で電話をかけてくるのも 「多数」であるというだけで気分的に安心して信じ込んでしまうヒトの習性を利用しているのである 「全てが電話によるものだ」と気づけば詐欺であることに気付くチャンスはあるのだが 「言葉遣いが丁寧だ」といった主観的印象が論理客観性を阻害して詐欺師の言いなりに金を振り込んでしまうことに陥るのである
学生時代になまじ学力偏差値が高かったりすると 「自分は頭が良いんだ」という錯覚によって「自分が信じているものは間違いがないはずだ」という過信に溺れることで東大医学部の学生はテロリストにもなれるのである
通り魔やテロリストが高い確率で学生時代に学力偏差値が高いのも 学力偏差値が知能の論証になるという根拠のない「常識(正解データ)」を鵜呑みにし 論理客観的根拠が伴わないことには自分の頭で考えたことが一切ないからである
養老孟司はこう述べたこともある 「自分で気づいたことと 他人から教えられて知っていることは 脳の機能として同じだ」と
こんな話が間違っていることをいちいち説明すること自体がバカバカしいのだが 「誰かも教えられていないことに気付く能力」と 「他人から教えられて知っているだけ」のことが同じ脳の機能なわけがないのである
むしろ「他人から教えられて知っているだけ」であれば 間違ったことを教え込まれても間違いに気付かず鵜呑みにしている可能性も含まれるのであり 脳の機能としては全く異なるものである
誰にも教えられていない事柄に気付く能力があれば たとえ間違ったことを教えられても間違いだと気付くことができる
それに対して単に教えられたことを知っているだけでは自分では何も気付くことができない
これは脳の機能として全く別物である
結果的な出力が同じだとしても そのプロセスは全く別物であり 機能としては決して「同じ」ではない
遺伝的進化における「典型的な間違い」についても 遠藤秀紀などの一部の生物学者達が指摘しても大多数の生物学者やマスコミは全く理解せず 漫然と間違った説明を平気で続けている
それで良く「受信料をよこせ」などと言えたものだと どんだけ面の皮が厚いんだと恐怖しか感じないが NHKなどのマスコミは生物学者の多数決を短絡的に科学的根拠だとみなし 安心して「典型的な間違い」に基づいた説明を続けているのである
私が学生時代の時代には 「〇〇のために進化を選んだ」とか「進化を考えた」といった説明をされていたが 遺伝的進化のプロセスの中には選択可能性も「考え」も意図目的戦略も介在する余地は全くないのであり 「教えられた」ことに対して世の中のほとんどのヒトは自分の頭で物事の真偽を論理客観的に判定していないからこそ 未だに「典型的な間違い」が訂正されないのである
遺伝的進化には意図目的戦略が存在していて 遺伝的進化さえすればあらゆる問題が解決するという遺伝的進化万能妄想によって 優生学は信じ込まれてきたのである
フランシス:ゴルトンがたまたまチャールズ:ダーウィンの従兄弟だったことからも あたかもダーウィンの進化論説との整合性が伴っているものだという錯覚を促し 「進化によって人間性が組み込まれる」などという根拠のないデマまでもが未だにフィックスされずに衆愚人気を得ているのである
養老孟司は「客観的事実などない」とか「論理整合性がないだけ開かれている」などという科学を根底から否定するような発言をしておきながら 「これだから科学の素人は困る」などと あたかも自分が科学的に常に正しい判断しかしない「科学の玄人」であるかのようにマウントをかけ 他人の意見を訳のわからぬ屁理屈ではぐらかし 論理的根拠もなく否定するペテン師である
養老は論理客観的真実など興味を持っておらず ただ世間的人気さえ維持できれば金になると思って利己的利益のためにはぐらかしを続けているだけであり
自分が昆虫採集を続ける上において余命の範疇で嘘がバレなければ良いという利己的観点から 最近人気を集めている落合陽一に話を丸めて阿(おもね)ることで 自身の衆愚人気を維持保守する以外には何の興味もないのである
だから言っている内容に論理整合性がない
論理整合性がないということは 相手に合わせてのらりくらりと言い逃れを繰り返しているだけであって どちらかで嘘をついているのである
養老の言うことに論理整合性がないのは 「脳化」などの養老の観念を「閉じる(正当化する)」ために論理整合性の方を「開いて」いるのである
論理整合性のない支離滅裂な話(嘘)というのは 「自由」なのではなく「身勝手」というのである
それは養老に騙されている大多数の衆愚マスコミも同罪であり 同罪になるくらいなら傍観放置して日和見に徹しておけば責任が薄まると「思って」いるから誰も養老に対する批判には耳を貸さないのである
組織腐敗が温存されるメカニズムというのは ヒト全般に普遍的に見られる先天的習性に起因するものであって 決してナチス政権やポルポト政権やミャンマー軍事政権や戦時中の日本軍や北朝鮮などの独裁国家だけのものではないのである
だから日大でも東電でも 名だたる大企業でも組織腐敗は起きるのである
ヒトという種の生物には 先天的な認知上の欠陥が存在していることを前提にすれば 間違ったことは「恥ずかしいこと」でも「罰の対象」にもするべきではなく むしろ失敗は誰でも陥る可能性のあるものであり 同じ失敗を繰り返さないための教訓財産として周知すべきものである
ヒトは間違えるものである 間違えたこと自体が「悪い」のではなく 間違えたことを認識していながら間違いを改め再発防止対策を徹底しないことこそが「悪い」ことなのである
私が個人的に腹立たしいのは 私の勝手な感情論に過ぎず たとえ多数から批判を受ける状況になったとしても懲罰的なバッシングには意味がない
ヒトは気に入らない相手を殴ると満足して「解決」だと錯覚するが これもまた所詮は先天的本能習性に起因する錯覚に過ぎず 主観的満足とは動物的な情動行動を促すだけの無意識な条件反射に過ぎず 祖先の過酷な生存競争環境下に適応収斂進化した結果以上の意味はなく 合理性はない
「意識に意味はない」のではなく 「無意識な情動に意味がない」のであって むしろ主体的な論理客観的検証性という本質的な「意識」こそが人間性の源となるのである
論理客観的検証性は 真実と嘘や間違いを判別する能力であり これなしに人間性もヘッタクレも発揮することは原理的に不可能なのである
養老孟司本人に何を訊ねても まず無駄である
既に養老の著作では無数の「嘘」が陳列されており 今更取り繕うことはできないはずだが ヒトの多くは自分の頭で考えて真偽の判断が出来ないため 訳のわからぬ話ではぐらかされて思考停止に陥れられるだけである
落合陽一のような識者であっても 口頭での話し合いでははぐらかすことが可能なのであり 一般凡人が養老の嘘を見抜くことはほぼ不可能と考えるべきである
Ende;