感情か理性か どちらが正しいのかという話ではない
一人のヒトの中には様々な感情があり 攻撃的で殺伐とした感情もあれば 寛容で優しい感情もあり これらは個人が置かれた状況によって環境依存的にコロコロ変化するものである
コロコロ環境依存的に変化する感情のままに行動が決定してしまっていれば それはもはやサルと違いはない
ヒトが人間性を発揮するために必要なのは その場限りの感情変化に流されることなく 統合的に自己の様々な感情を客観視することによって 人生全体における目的意識に基づき行動選択をする理性こそが人間性や倫理の源となるのである
自己の様々な感情を統合的に客観視するのは理性である
しかし ヒトはデフォルトで動物であるため サルと同様にその場限りの環境依存的な感情によって行動が決定しがちな習性があり その場の感情に流され何の合理性もない行動に陥りがちである
あらゆる倫理の欠如の原因とは 思考が短絡的であるが故に生ずるものである
原発の津波に対する脆弱性が放置されたのも 組織に対して服従迎合しないことへの恐怖心に因るものであり
東芝やオリンパスによる粉飾決算も同様である
組織に対する服従迎合というのは 先天的な統率協調習性(社会形成習性)が促す目先の感情であり 主観的感情という動物的条件反射的行動バイアスこそが 個人の自律的な社会的責任判断を放棄させる最も大きな要因である
ウェンデル:ウォラックは倫理を道徳に求めるが そもそも道徳は科学でも哲学でもなく 論理的根拠がそもそもない
論理的思考の苦手な文科系大衆観念者にとっては 「理性や人知を超越した叡智」などという実証不能のオカルト観念にこそ倫理が存在しているのではないかと勝手に勘違いすることも簡単であろうが それはお花畑ファンタジーに過ぎない
規範とは いうなれば正解である
しかし現状のニューラルネットワークAIによるディープラーニングというのは 予め大量の正解を与えておく必要があり そもそも何が正解なのかを学習段階でAIは自律的に判別することは出来ない
だからこそMicrosoftのTwitterAIはヘイトスピーチに同調したのである
SNS上の多数である差別発言を 「大量である」というだけで正解とみなすことで AIはヘイトスピーチこそが正解だと見なしたのである
倫理とは 集合知のような多数決で導き出されるものではなく あくまで「個人が自律的に社会的責任を負う」ことである
ウォラックはこの部分が考慮に入っていない
東京電力社内の「文化」や体質に迎合同調しておいて倫理もスッタクレもありはしない
これは東京電力社内に限ったことではなく あらゆる集団や体制においても言えることであって 「集合知」に倫理や知能が存在するといういう発想はウォラックも含め こうした話を鵜呑みにしている大多数のバカの根拠のない妄想錯覚に過ぎない
ヒトという種の生物に先天的人間性や倫理が組み込まれていて 論理的根拠もなく自動的自然に倫理が発揮されるかのような妄想を鵜呑みにしておいた方が気分的に安心で満足だからこそ 多くの大衆は「理性を超越した倫理」のような話を簡単に鵜呑みにしてしまい 論理的根拠に基づいた真理を見失うことに陥るのである
安心満足も「感情」である
目先の感情が促す思考停止によって 何が真理なのかを見失っているという事実を自覚認識していないから 「理性を超越」などというオカルト妄想とのどちらが正しいのかも判断出来なくなるのである
将棋棋士の羽生善治は 盤面から直感的に指し手の良し悪しを感じ取ることが出来るという
一人のヒトの中には様々な感情があり 攻撃的で殺伐とした感情もあれば 寛容で優しい感情もあり これらは個人が置かれた状況によって環境依存的にコロコロ変化するものである
コロコロ環境依存的に変化する感情のままに行動が決定してしまっていれば それはもはやサルと違いはない
ヒトが人間性を発揮するために必要なのは その場限りの感情変化に流されることなく 統合的に自己の様々な感情を客観視することによって 人生全体における目的意識に基づき行動選択をする理性こそが人間性や倫理の源となるのである
自己の様々な感情を統合的に客観視するのは理性である
しかし ヒトはデフォルトで動物であるため サルと同様にその場限りの環境依存的な感情によって行動が決定しがちな習性があり その場の感情に流され何の合理性もない行動に陥りがちである
あらゆる倫理の欠如の原因とは 思考が短絡的であるが故に生ずるものである
原発の津波に対する脆弱性が放置されたのも 組織に対して服従迎合しないことへの恐怖心に因るものであり
東芝やオリンパスによる粉飾決算も同様である
組織に対する服従迎合というのは 先天的な統率協調習性(社会形成習性)が促す目先の感情であり 主観的感情という動物的条件反射的行動バイアスこそが 個人の自律的な社会的責任判断を放棄させる最も大きな要因である
ウェンデル:ウォラックは倫理を道徳に求めるが そもそも道徳は科学でも哲学でもなく 論理的根拠がそもそもない
論理的思考の苦手な文科系大衆観念者にとっては 「理性や人知を超越した叡智」などという実証不能のオカルト観念にこそ倫理が存在しているのではないかと勝手に勘違いすることも簡単であろうが それはお花畑ファンタジーに過ぎない
規範とは いうなれば正解である
しかし現状のニューラルネットワークAIによるディープラーニングというのは 予め大量の正解を与えておく必要があり そもそも何が正解なのかを学習段階でAIは自律的に判別することは出来ない
だからこそMicrosoftのTwitterAIはヘイトスピーチに同調したのである
SNS上の多数である差別発言を 「大量である」というだけで正解とみなすことで AIはヘイトスピーチこそが正解だと見なしたのである
倫理とは 集合知のような多数決で導き出されるものではなく あくまで「個人が自律的に社会的責任を負う」ことである
ウォラックはこの部分が考慮に入っていない
東京電力社内の「文化」や体質に迎合同調しておいて倫理もスッタクレもありはしない
これは東京電力社内に限ったことではなく あらゆる集団や体制においても言えることであって 「集合知」に倫理や知能が存在するといういう発想はウォラックも含め こうした話を鵜呑みにしている大多数のバカの根拠のない妄想錯覚に過ぎない
ヒトという種の生物に先天的人間性や倫理が組み込まれていて 論理的根拠もなく自動的自然に倫理が発揮されるかのような妄想を鵜呑みにしておいた方が気分的に安心で満足だからこそ 多くの大衆は「理性を超越した倫理」のような話を簡単に鵜呑みにしてしまい 論理的根拠に基づいた真理を見失うことに陥るのである
安心満足も「感情」である
目先の感情が促す思考停止によって 何が真理なのかを見失っているという事実を自覚認識していないから 「理性を超越」などというオカルト妄想とのどちらが正しいのかも判断出来なくなるのである
将棋棋士の羽生善治は 盤面から直感的に指し手の良し悪しを感じ取ることが出来るという
直感(主観)主義者はこうした特殊な例だけを根拠に直感的感覚こそが常に正解を導き出せるものだと言い張るが これはとんでもないこじつけである
野依良治のように物事を深く考えている人物の直感であれば 羽生善治の直感同様にある程度の信頼性もあるかも知れないが 女子受験生を一律減点したり 研修医を無給で働かせたりする大学職員の直感なんぞ何の信頼性もないのは言うまでもなかろう
相模原障害者施設やまゆり園虐殺事件の植松聖の野蛮行為も 植松の主観的感覚に依るものである
130年以上もの間に 誰も優生学に対する論理反証をしてこなかったのも これは一種の「集合知」によるバイアスである
70億のバカの集合知に 一体何の価値があると言えるであろうか
ヒトの多くは多数派に同調しておいた方が安心で満足であろう その安心満足という主観的感覚こそがヒトの頭の悪さの原因なのである
Ende;