郵趣手帖の収集日記

切手収集について、日々感じたことや考えたことを気ままに紹介。

小判と菊の混貼

2009年09月30日 | 郵便史
新小判2銭と菊1/2銭を2枚と1銭を1枚貼った、ドイツ宛の私製はがき便。
消印のデータは「横浜/35-7-25/午2」。別に大した使用例では無いと思うけど、3種類の切手で、しかも小判と菊が貼ってあるので気に入っているカバー。
適正1枚貼りでは少々寂しいけど、こうしたものなら賑やかしくてリーフに貼っても華やかに見えるから、自分の好みとしてはけっこう好きなんです。

オーストラリアの航空カバー

2009年09月27日 | 郵便史
画像は、オーストラリアの国内航空便カバーで、貼付されている切手は1929年5月20日発行の航空切手(右)と、1930年7月31日発行の加刷切手(左)。
消印のデータは、Melbourne 1930,8,14 → Sydney 8,15(裏面)→ Tooraweenah 8,16となっており、Tooraweenahの消印は同じタイプの消印なのだけど、裏面は黒色で表面は紫色と使い分けている。これって、何か性格が違うのでしょうかね。
このカバーで面白いなと思ったのは、国内便なのに経由地が"SYDNEY"と指定されていること。日本では、こういうの見ないですよね。

菊2銭の1枚貼り

2009年09月22日 | 郵便史
菊切手2銭の発行日は、明治32年1月1日なのだけど、同年4月1日に料金改正があって、この改正後の料金を見越して緑色の刷色で発行されている。つまり、この切手は外信用印刷物としての利用が第一に考えられていたわけ。それと国内用の第4種便も使用例として多く残されている。
画像の使用例は、発行後3ヶ月間だけ使用された第1種便のカバーからの一部分で、データは「武蔵/東京小石川/丗二年一月/十一日/ヘ便」。
第1種の使用例は短期間だったので、少ないものの基本料金ということで、探せばそこそこ見かけることができる。
菊2銭の使用例として、外信便や第4種便のページの前にさりげなく貼っておきたいカバー。

応挙の虎

2009年09月20日 | 郵便史
画像は、応挙の虎を4枚と郵便配達を1枚貼った38円料金のカバー。内訳は、書留料金が30円で、封書基本料金が8円だから、郵便配達30円は発行目的で使用された解りやすいカバーである。
消印のデータは、「遠敷/25.2.20/福井県」。
年賀の応挙の虎は、25年2月1日発行だから、まぁまぁ良い線での使用例と言ったところ。
カタログコレクションには勿体ないカバーかも知れない。

YANGTSUNのエラー印

2009年08月31日 | 郵便史
画像は、菊はがき(青枠)の使用例でも、ちょっと捻った在中国局の使用例で気に入ってるもの。
消印は、欧文年号2字で使用局は「YANGTSUN」。日付は1900年12月28日と読める。
在中国局のこのタイプの消印には、時々エラー印があり画像の消印も日付部が逆さまになっている。このことは、先頃亡くなった大西二郎氏が三十数年前に指摘されているけど、一般的にはあまり気にされていない気がする。他局でも幾つか見たことがあるのだけど・・・。

樺太・知取

2009年08月26日 | 郵便史
画像は、楠公はがきに樺太の年賀印でデータは「樺太・知取/13.1.1」。
抹消印だけでなく、印面下にも捨印を押してくれているので、印影がクッキリ、スッキリで大変に好ましい。
知取の人口は、昭和3年に16,262、昭和16年に18,216人だから、昭和13年だと17,000人を超えるぐらいだったのだと思う。
現在では、マカロフ市と呼ばれている。

剥ぎ取り

2009年08月25日 | 郵便史
画像は、追放切手の剥ぎ取り使用例。
2銭楠公はがきの上に、第3次昭和5銭切手を1枚貼って、その下に第3次昭和10銭切手を3枚貼ったもの。
消印データは「北中山/22.11.23」。局員が追放切手だった5銭切手に気づいて剥ぎ取ったのは良いとしても、その下から楠公はがきの印面が出て来たのは愛嬌と言うもの。
それにしても、この時期のはがき料金は50銭のはずなのだけど、なんで料金があわないのだろう・・・。

終戦直後の書留+配達証明

2009年08月20日 | 郵便史
画像は、昭和20年8月27日の日付印を押しただけのカバーで、こうした使用例は切手が貼ってないのであまり人気はないのだけど、こうしたカバーも郵便史的には面白いので、ピンと来た時には入手することにしている。
で、画像のカバーはどうして入手したのかと言うと、終戦から12日しかたっていない混乱期に、書留のみではなくて配達証明という希少なオマケまでついたカバーだから。
「こんな時期でも郵便は何事も無かったかのように淡々と手紙を運んでいたのだなぁ」という感じが伝わってきますね。

新小判5銭3枚貼

2009年08月18日 | 郵便史
新小判5銭の国内便カバーの二重丸形印なんてのは、恐れ多くて持っていないけど、丸一形印のものなら入手しやすいので何通か持っています。
その中でも3枚貼というのはこれ1通だけで、内心ちょっと少ないかもと思っているのは、かなりのひいき目ですかね。
3枚で合計15銭というのは、2倍重量4銭+書留6銭+起訴書類5銭だと思います。ちゃんと朱色の書留印と起訴書類印が並んで押してありますし。
データは、「信濃上田/三十年十二月/二十二日/ホ便」→「信濃戸倉/三十年十二月/二十二日/ニ便」。

終戦から3日のはがき

2009年08月15日 | 郵便史
画像は、終戦から3日後の8月18日に中国の河北省石門市宛に発信された「楠公はがき」。
中央の青色の四角いスタンプは、「差出人戻し」の熊本逓信局のスタンプで、「本郵便物は當分送達困難に付返戻致します 熊本逓信局」となっている。
終戦になったので、心配して送ったはがきが「送達困難」という理由で戻されたのを見た差出人は、どんな気持ちだったのだろうか。
文面の中に「戦敗国となった父母は年老いて余命も無いから諦めは付くが、若き者達の生活様相を思えば断腸の思いがする」と書かれている。
終戦3日後の中国宛使用例として郵便史的に重要な資料なので、大切にしている。

元祖唐草印

2009年08月11日 | 郵便史
画像は、大正8年から使用が開始された大形横型7本波の機械印で、データは「大阪中央/9/1.8/前11-12」。
この機械印は、ご存知のとおり米国ユニバーサル社製D型自動押印機のもので、東京中央、日本橋、大阪中央の3局で使用されている。つまり3局集めれば上がりとなるわけだけど、大阪中央と日本橋は入手しているものの、東京中央が未収となっている。
日本切手のカタログ収集でも、僅か3局だけとなると集めておきたい。

東京大正博覧会

2009年08月08日 | 郵便史
「東京大正博覧会」という臨時郵便局の消印があるというのは、櫛形印を熱心に集めている人でないと知らないと思う。
「東京大正博覧会」というのは、大正3年3月20日~7月20日まで東京の上野公園で大正天皇即位を記念して開催された博覧会で、第1会場と第2会場に分かれていました。恐らく臨時局も2カ所に設けられていたらしく、画像の上の局名は「東京大正博覧会一」で、下の局名は「東京大正博覧会二」になっています。
この「一」と「二」が揃ったのは中々お目にかかれないのではないかしら。

鯖江兵営前の最初期使用例

2009年08月07日 | 郵便史
7月27日のブログに鯖江兵営前の機械印を紹介したけど、手元にある同局の機械印の束を見直していたら画像の昭和12年6月6日のものが見つかりました。
関氏による『右書時代の機械印』に使用局リストが掲載されているのだけど、それによると12年7月22日が記録されている。それよりも1ヶ月ちょっと早い使用例。

渡島江差の丸一形印

2009年07月30日 | 郵便史
画像は、北海道の江差局の丸一形印。データは「渡島江差/四十二年一月二日ホ便」だから丸一形印でも後期の使用例。
僕がちょっと驚いたのがホ便であること。別に江差を田舎扱いするわけではないけれども、今の感覚からするとホ便まであるとはね・・・。
これだけの便数は、今だったらそれなりの都会じゃないとありそうもない。

鯖江兵営前

2009年07月27日 | 郵便史
画像の消印は、数ある唐草印使用局の中でも気に入っている局の1つ。
データは「福井・鯖江兵営前/13/12.20/后0-4」。鯖江には歩兵36連隊というのがあって、その前に設置されていた郵便局が、この消印の局というわけ。
この使用例のばあい、貼付切手が乃木大将というところも消印とマッチして面白い。差出人は、この36連隊に應召された人で、餞別をくれた人への礼状である。
右書唐草印の中では、ちょっと入手しづらい局だと思うけど、どうだろうか?