天高群星近

☆天高く群星近し☆☆☆☆☆

業平卿紀行録4

2008年04月15日 | 文化・芸術

業平卿紀行録4

その後中臣の鎌足は、娘たちを天皇家の後宮に送り、天皇家の外戚となることによって権力を確立していったのであるが、これは彼らが滅ぼした蘇我氏の一族が勢力を強めたのと同じやり方だった。ここではこの歴史的な事件の背景、その経済的なあるいは政治的な動機などについては、深く論じることはできない。ただこうした政治的な事件をきっかけにして、今日的な用語で言えば、天皇を中心とした天皇全体主義とでもいうべき政治経済体制が確立されてゆくことになったのは事実のようで、それまでにも中国や朝鮮から多くの文物を手に入れてはいたが、遣唐使などの派遣も制度化されて、中国の国家体制に倣って、日本における律令国家体制がさらに整備されてゆく。

桓武天皇のお后であった藤原乙牟漏の曾祖父がこの中臣鎌子、すなわち藤原鎌足である。この若くして亡くなられた美しい后の父は藤原良継、祖父は藤原不比等である。こうして桓武天皇のお后であるこの藤原乙牟漏に生まれた子供が後の平城天皇と嵯峨天皇および高志内親王である。

この平城天皇は幼児期をそこで過ごしたためだったのか、父の桓武天皇が長岡京、平安京と遷都した後も、奈良の都を恋しく思ったのだろうか、平城天皇は弟の嵯峨天皇に譲位した後にも、上皇となって旧都の平城京に戻りそこに住んだ。そして、新しい都平安京に住む弟帝の嵯峨天皇から復権を企て、ふたたび奈良の京、平城京に遷都しようとして平城上皇が弟帝と争った事件が薬子の乱であった。

こうしてみると、ふだん散歩の途中にも、その前をただ何思うこともなく通り過ぎていた后藤原乙牟漏の高畠陵を思い出すとき感慨深いものがある。歴史を知るということはこういうことなのかも知れない。「后姓柔婉にして美姿あり。儀、女則に閑って母儀之徳有り」と『続日本紀』に記され、わずか三十一歳の若さでなくなったこの后の残した二人の兄弟、安殿親王、神野親王がその後に遷都をめぐって地位を争うようになることなど、このお后のご生前には知るよしもなかっただろう。

 

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業平卿紀行録3

2008年04月14日 | 文化・芸術

業平卿紀行録3

一昨年の秋に、この十輪寺からもさほど遠くない大原野神社を訪れたときには、昔に読んだことのある伊勢物語をあらためて取り出したり源氏物語のことを思い出したりして少し調べてみた。そして、この洛西地域一帯が、とくに大原野と呼ばれるあたりは伊勢物語や源氏物語などにもゆかりの深いところであることもわかった。また、比叡山に延暦寺を創建した最澄や高野山の弘法大師空海が入唐したのも、業平のまだ生きていた頃と同じ時代であることもわかった。

平城京から長岡京、さらに平安京へと遷都の繰り返されるこの激動する時代の背景は調べてみるとなかなか面白く、学生時代に学んだ日本史が本当に通り一遍のもので「歴史を学ぶ」ということからははなはだ遠かったことが悔やまれた。

しかし後悔は先に立たずで、これをきっかけに自分なりに少しでも日本史のおさらいをしておくことにした。そうすれば、これからも歴史的な遺跡を見ても視点も定まり、またそれらを観る眼も違ってくると思う。これから歴史を考える上で必要な前提になる。

日本の古代史で大きな歴史的な転換点となったのは、大化の改新である。大化の改新を拠点としてその後の日本史の基礎が据えられたともいえるからである。この歴史的な事件のきっかけになったのは西暦645年に起きた「乙巳の変」だった。

ときの中大兄皇子とその家臣である中臣鎌子の二人は、当時の政権を掌握していた蘇我入鹿を暗殺して蘇我一族を滅ぼし、それに取って代わってそれぞれ天智天皇、藤原鎌足として権力の中枢に上り、改新の詔を発して、あらためて帝道を唯一のものとして天皇制を確立した。また、帝を補佐する臣下の筆頭として藤原氏の地位を確立することによって、その後の政治体制の基礎を築いたからである。

 

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小野小町7

2008年03月22日 | 文化・芸術

小野小町7

小町の恋愛とその生涯が後の世にこれほど広く深く広まったことには、さらに南北朝時代から室町時代に生きた観阿弥、世阿弥の親子の力があったと思う。

彼ら親子は能という芸術を通じて、小町の恋愛と仏教の無常観を象徴的に描き出した。それが武士階級を通じてやがて民衆の間にも広まっていったと考えられる。しかし、卒塔婆小町や通小町など七小町として謡曲などの物語の主人公となった小野小町は、もはや仁明天皇に采女として仕えた歴史的な小町ではない。ひとりの生きて泣き笑う具体的な肉体をもった女性ではなく、すでに物語の中の小町は、人々に人間と人生の真実を告げる普遍的な小町そのものになっている。

勅命を受けて古今和歌集の編纂に従事した紀貫之たちは、同じ氏族の紀静子を母とする惟喬親王や、父の謀反の失敗ゆえに出世の路を閉ざされた在原業平と同じく、当時天下を牛耳りつつあった藤原氏のようには運命を謳歌することはできなかったにちがいない。そんな彼らに代わって、紀貫之は六歌仙の世代に属する人々の笑いや悲しみや恋の物語も美しい歌物語として編み残そうとしたようである。

古今和歌集の末尾には、

698         恋しとはたが名づけけん言ならん 
                      死ぬとぞたゞにいふべかりける

と詠じた清原深養父の歌を連想させるように、深養父に呼びかけながら、詞書きとともに貫之自身が次の歌を詠じて締めくくっている。

    深養父  恋しとはたが名づけけん言ならん下

1111        道しらば摘みにもゆかむ 
                      住之江のきしに生ふてふ恋忘れ草

この歌は明らかに鎮魂歌でもある。歴史の中に生まれ、そしてその中に姿を消していった多くの人々の恋の歓びや悩み、花の美しさや別れの悲しみを歌いながら時間の彼方に消えて行った人々の心を慰めるために歌ったようにもみえる。

しかも、貫之は、仮名序の中で小野小町のことを衣通姫(そとほりひめ)にたとえていた。そのそとほり姫が帝のことを恋い慕って詠んだ歌が貫之の歌の前に置かれてある。

      そとほり姫のひとりゐてみかどを恋ひたてまつりて

1110        わがせこが来べきよひなり  
                      さゞがにの蜘蛛のふるまいかねてしるしも

 

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小野小町6

2008年03月21日 | 文化・芸術

小野小町6

小町が思いを男性に託して恨みを述べている歌としては、ただ一つ
残されている。それは小野貞樹に当てたもので次の歌。

                                       をののこまち

782         今はとて  わが身時雨にふりぬれば 
                           言の葉さえに移ろひにけり

          返し                          小野さだき  貞樹

783         人を思ふ心この葉にあらばこそ  風のまにまにちりもみだれめ

小町が当時のきびしい身分制度をのりこえられずに、恋を成就させることができたのは、この小野貞樹だけだったのかも知れない。この歌からも推測されるように、貞樹との交際は、小町が若き日々を過ごした宮仕えを離れてからのことであったように思われる。

もし若き日に小町が采女として帝にお仕えしていたとすれば、小町が帝に身近に接する機会もあったはずだし、当時は北家藤原氏の子女のほかには御門の正室や側室になることはむずかしかったから、帝の方もかなわぬ恋でありながらも、政略のからまない美しい小町に思いを寄せたことがあったとしてもおかしくはない。

同じ古今集の墨滅歌の中にも、天の帝が、近江の采女に我が名を漏らすなと詠っている歌がある。また、巻第十四の恋歌四には、世間の噂を心配する近江の采女に贈った帝の歌(702番)ものせられている。

702         梓弓ひき野のつゞら  
                すゑつひにわが思う人に言のしげけん

このうたは、ある人、天のみかどの近江の采女にたまひけるとなむ申す

703         夏びきのてびきの糸を 
                      くりかへし言しげくとも絶えむと思ふな    

この歌は、返しによみたてまつりけるとなむ

采女や更衣はそれほど帝とは身近なところにいた。

深草の少将が実際に誰のことであるのか少し調べてみても、桓武天皇から土地を賜った欣浄寺にゆかりのある深草少将義宣卿がその人であるとするには無理がある。この人は仁明天皇が生まれて間もない頃にはすでに亡くなっている(813年)。仁明天皇にお仕えしたと考えられ、この帝の亡くなられた(850年)後も交際のあったらしい小町や僧正遍昭とは、世代が会わない。

深草の少将のゆかりの寺とされるこの欣浄寺にはその後、仁明天皇から寵愛を受けた少将蔵人頭、良峰宗貞(後の僧正遍昭)が御門の菩提を弔うためにそこに念仏堂を建て、帝の祈られた阿弥陀如来像と御牌を前にして念仏にいそしまれたという。だから、畏れ多いこの帝が後の人々によって深草の少将に名を変えられたとしてもおかしくはない。また、この天皇は深草に葬られて、その御陵も深草陵と呼ばれている。ただ、これ以上の詮索はたいして意味があるとも思えないのでこれくらいにしておきたい。

 

 

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小野小町4

2008年03月19日 | 文化・芸術

小野小町4

小野小町にまつわる伝説には二つの方向があると思う。一つには深草の少将の百夜通いの話と、老いて落魄し行き倒れる小町である。

小町のこの二つの女性像には理由がないわけではない。いずれも小町の残したわずかな歌の中にその根拠があるように思う。

深草の少将の百夜通いの言い伝えは、まことに美しく幻想的でさえある。小町に恋いこがれた深草の少将が、小町のもとに百度訪れるという誓願を立てて通ったが、最後の雪の日に思いを遂げることのできないまま亡くなったという。                                              
小町の心も知らないで足が疲れくたびれて歩けなくなるほど繁く小町のもとに通っていた男のいたことは、事実としても次の歌からもわかる。

623    みるめなきわが身をうらと知らねばや  かれなであまの足たゆくくる

おそらく深草の少将の話は、安部清行や文屋康秀たちに返したような男を袖にした和歌が小町にいくつかあることに由来するにちがいない。

しかし、小町が単なる色好みの女性であっただけとは思われない。言い寄る者たちの中に彼女が深く思いを寄せた男性のいたことは明らかだ。それは次の歌などからもわかる。ただ、その男性とはかならずしも自由に会うことはできなかったようで、そのために夢の中の出会いを当てにするようになったり、その出会いに他人の目をはばかったり、世間の非難を気にかけたりしている様子がうかがわれる。だから、小町にとって真剣な恋は秘めておかなければならなかったようにも見える。

552    思ひつゝぬればや人の見えつらむ     夢と知りせばさめざらましを

553    うたゝねに恋しき人を見てしより    ゆめてふ物はたのみそめてき

554    いとせめて恋しき時は   むばたまの夜の衣をかへしてぞきる

657    限りなき思ひのまゝによるもこむ   夢路をさへに人はとがめじ

1030    人にあはむつきのなきには    思ひおきて胸はしり火に心やけをり

ただ、小町がおいそれと心を許さなかった、この百夜通いの伝説の深草の少将が実際に誰であるのかはよくわからないらしい。百夜通いの伝説の根拠についてはすでに黒岩涙香が江戸時代の学者、本居内遠の研究を引用している。それによれば、同じ古今和歌集の中にある次の歌、

762    暁の鴫(しぎ)のはねがき百羽がき     君が来ぬ夜は我れぞ数かく
     

が、三文字読み替えられて、

あかつきの榻(しぢ)の端しかきもゝ夜がき     君が来ぬ夜はわれぞかずかく
     

となり、それが、深草の少将が小町のもとを訪れたときに、牛車の榻に刻んでその証拠にしたという話になったという。歌の内容と伝説との関係から見る限り、その蓋然性については納得できるところはかなりある。

そうして恋する女性のもとに通いつめながらも、その思いも遂げられずに雪の夜に亡くなった男に対する民衆の共感と同情が、やがて伝説として伝えられることになったにちがいない。

 

 

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小野小町3

2008年03月16日 | 文化・芸術

小野小町3

古今和歌集の中でも実際にその贈答歌の中で、互いの名前が記録されて、小野小町との人間関係が成立していると考えられる可能性の高いのは、巻第十二恋歌二で(556に対する557)小町の返歌のある安部清行、また巻十八雑歌下(938)に小町の返歌がある文屋康秀、それに後撰集の中に歌を贈ったことが記されている僧正遍昭の三人である。

実名の記録されているこれらの人はおそらく小町と何らかの関係もあったのだろうけれど、業平についてはわからない。古今集巻第十三の恋歌三(622、623)にも在原業平の歌に次いで小町の歌が並べられてはいるが、紀貫之が意図的に編集したかも知れず、いずれも歌の上手な美男と美女として高名であったところから、並べて取り沙汰したということも考えられる。互いの贈答歌であるかどうかについての詞書きもなく、それぞれの歌の内容から言っても疑わしい。

しかし、実際二人の間に何らかの直接的な人間関係のあった可能性が決してないわけではない。むしろその可能性は大きい。業平の恋人だった二条の后(藤原高子)に文屋康秀が仕えていたことは、巻第一春歌上8からも明らかであるし、その文屋康秀自身が三河の国に下級官吏として赴任するときに、小町を誘っているから相当に親しい関係にあったことは推測される。

業平も、仁明天皇(在位833年~855年)、文徳天皇、清和天皇に蔵人として仕えたし、
僧正遍昭については、そもそも仁明天皇に仕えていた良岑宗貞がその崩御に殉じて出家して僧正遍昭になったものである。

また文屋康秀も下級官吏として仁明天皇やそれに続いて文徳、清和天皇に仕えた。一方の小町も女官として同じ仁明天皇に仕えていたから、在原業平とも交際の機会のあったとことは十分に考えられる。

これら業平や小町ら六歌仙の世代はいずれも紀貫之よりは一世代か二世代上で、たとえば平成昭和の人間が大正明治の人間を回顧するようなもので、その人間像の記憶もまだ生々しいものだったと思われる。紀貫之も土佐から京へ帰還する途上の桂川で、惟喬親王や業平を追憶している。

時代は平安遷都から日も浅く、いまだ権力も固まらず、薬子の乱や承和の変、応門の変などの騒乱が続いた。そうした歴史的な事件の詳細な実証的な検証は歴史家に任せるとして、ふたたび小町の残したわずかな和歌と人々が彼女に託した伝説から、人間の内面の問題により入り込んでゆきたい。

古今集巻一春歌上8

二条の后の東宮の御息所ときこえける時、正月三日おまへにめして、仰せごとあるあひだに、日はてりながら雪のかしらに降りかゝりけるをよませ給ひける
                                      文屋 康秀

8   春の日の光にあたる我なれど  かしらの雪となるぞわびしき

後撰集1196

石上といふ寺にまうでて、日の暮れにければ、夜明けてまかり帰らむとて、とどまりて、「この寺に遍昭あり」と人の告げ侍りければ、物言ひ心見むとて、言ひ侍りける 
                                      小野小町

岩のうへに旅寝をすればいとさむし苔の衣を我にかさなむ

返し
                                         僧正遍昭

世をそむく苔の衣はただ一重かさねばうとしいざふたり寝む

 

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小野小町2

2008年03月15日 | 文化・芸術
しかし、古今和歌集に収められてある小町の和歌を詠む限り、紀淑望の「艶にして気力なし。病める婦の花粉を着けたるがごとし」というのは少し言い過ぎのような気がする。やはり、紀貫之ぐらいの評価が妥当であると思う。そこにみられるのは、和歌の創作よりも、恋愛そのものに関心を示している女性らしいふつうの女性像である。小町の歌からは女性としてとくに特異なところはみられないと思う。ただ和歌からもわかるように、彼女自身も自分の美貌を自覚していたようで、そのことから多くの男性との交渉もあったのかも知れない。しかし、恋愛においてはむしろ受け身で控えめな女性ではなかっただろうか、彼女の歌からはそんな印象を受ける。

和歌については、小町の語彙は必ずしも豊かではなく、後の紫式部や西行の和歌にみられるような、哲学的ともいいうるほどの思想的な情感や、しみじみと自然に感応した描写や詠唱があるわけではない。恋愛感情を叙してはいても深みがあるとは思わない。おそらく当時は仏教思想などもまだ民衆にはそれほど深いレベルで浸透していなかったことも読みとれる。また紫式部のような教養豊かな環境には育たなかったせいもあると思われる。

小町の歌を詠んでいて、あらためて気づいたのは、古今和歌集に

623   みるめなきわが身をうらと知らねばや     かれなであまの                                  足たゆくくる

という歌の前に、

                             なりひらの朝臣

622   秋の野に笹わけし朝の袖よりも  あはでこし夜ぞひちまさりける

と在原業平の和歌が並べておかれていたことだ。そして、この二つの歌が、伊勢物語の第二十五段において、恋愛する二人の男女の贈答歌として取り入れられている。この段では女性は単に「色好みなる女」といわれているだけで、小野小町という女性の名はここでは明らかにされてはいない。

しかし、古今和歌集の読者にしてみれば、歌の贈り主が在原業平であり、返歌の作者が小野小町であることは分かり切ったことであったから、伊勢物語の読者は当然に二人が恋愛関係にあるとみるだろう。ここから、後世の古今和歌集の注釈家たちも小町と業平が恋愛関係にあったと言うようになったらしい。

ただ、古今和歌集を少し読んでみてわかったことは、後代の藤原定家の小倉百人一首と同じように、あるいはそれ以上に、この古今和歌集おいても、個々の和歌の美しさ以上に、それぞれの和歌の選択と配列の妙に紀貫之の絢爛たる美意識が編纂されているらしいことだ。その秘密を読み解く古今和歌集の注解釈がそのために特定の家系の秘伝のような趣をもたらすことになったのではないだろうか。

紀貫之が、小野小町の歌と業平の歌をあたかも贈答歌のように隣あわせに配列にすることによって、単独の和歌では醸し出せない交響曲のような躍動する美しさを生みだすことになった。そこから、逆に小町と業平との間に恋愛関係か推測されるようになり、また、それが伊勢物語にも組み入れられることになって、小町と業平の伝説になったと。この事実はすでに広く周知のことであるに違いないが、私には新しい知識であったので、これまで頭の中にバラバラに存在していた二人がはじめて結びついて、推理小説を読んだときのようなおもしろさを感じる。

たしかに、小町と業平は同時代人であったから、実際に恋愛関係にあり、それがそのまま、古今和歌集に取り入れられたと考える方が、より興味を駆り立てられるには違いないけれども、もしそうであるなら、伊勢物語の第五十段に登場する「うらむる人」も小野小町であって、業平と二人は「あだくらべ」(浮気くらべ)をしていたことにもなる。女の返した歌も小野小町が詠んだ歌ということになる。

しかし、二人の関係について歴史的な実証はむずかしいのではないだろうか。古今和歌集の成立は913年(延喜十三年)、伊勢物語は880年頃に原型ができ、集大成されたのは946年頃であるとされるから、紀貫之らが、業平と小町の二人に歌の世界で架空の恋愛を仕組んだとも考えられるし、それとも遷都してまだ間もない新しい町並みの京の都のどこかで、実際に二人は顔を合わせていたか。

 

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小野小町 (1)

2008年03月14日 | 文化・芸術

小野の随心院で、小野小町ゆかりの「はねず踊り」の催しがあるそうで、一度訪ねてみようと思い、その際、小野小町などについてもう少し詳しく知ってから行けば興味も増すのではないかと少し調べてみた。

これまで、小野小町について知っていることと言えば、せいぜい百人一首に収められている「花の色は移りにけりな  いたづらにわが身世にふる   ながめせしまに」という歌を歌った、美人薄命の運命を嘆いた歌の作者であることくらいだった。小町がどんな女性であったのか、いくつまで生きたのか、ほとんど興味も関心もなかったし、ただ意識の片隅に、おとぎ話か伝説の住人として存在していたにすぎなかった。だから、この女性の百人一首の歌が、紀貫之の編纂になる「古今集」の巻第二春歌下にもともと収まられてある歌であるということも知らなかったし、どのような時代に生きた女性であるのかさえ知らなかった。少し調べて見て小町が在原業平と同時代に生きた女性であることを知って驚いたくらいである。それくらいの知識しかない。

小町という名前は今では美人の代名詞のように使われている。しかし、小町という名前そのものは、本名ではない。女性の場合は忘れられている場合が多い。源氏物語の「桐坪の更衣」のように、彼女の住まわっていた場所と身分の呼び名が、彼女自身を示す呼び名となったものである。

もともと小町の「町」とは、宮中で女官たちが住んでいた一角が局町と呼ばれていたことから来るらしい。内裏の北東にもかって采女町があった。その町がそれぞれの出身にしたがって呼ばれていたらしい。采女とは、群司や諸氏の娘たちの中から容姿端麗な女子が選ばれて、天皇の身近にあって食事などのお世話をした女性を言う。小野小町も采女であったらしいから、そう呼ばれるようになったのかも知れない。小町には同じ采女の姉がいたことは確からしく、姉の方は小野町と呼ばれ、古今集にも、小町の姉の歌が記録されている。伊勢物語に登場する惟喬親王の母、紀静子なども三条町と呼ばれていた。この姉の小野町に対して、妹の方が小町と呼ばれたらしい。「小」にはかわいいと言う意味もある。

『古今和歌集目録』に「出羽国郡司女。或云、母衣通姫云々。号比右姫云々」とあることから、奥州秋田の出身であるとされ、『小野氏系図』には小野篁の孫で、出羽郡司良真の娘とあるそうだ。しかし、諸説ありその信憑性は定かではない。ただ、その出自はとにかく、実在していたのはたしかなようで、古今集の仮名序の中で、撰者の紀貫之は六人の歌人(六歌仙)を取り上げ、在原業平の名前とともに、小野小町の名を挙げて、彼女の歌ぶりについて次のように解説している。

「いにしへの衣通姫の流なり。あはれなるやうにて、強からず。言はば、よき女の悩めるところあるに似たり。強からぬは、女の歌なればなるべし。」

古今集に採録されている小町の歌は、次の全十八首。これらの歌の中には、恋しき人との出会いを夢に願うとか、容貌の衰えを嘆くとか、男の誘いになびくそぶりなどの歌の多いことから、紀貫之らは、「強からぬは、女の歌なればなるべし。」と評したのかも知れない。真名序では紀淑望は「艶にして気力なし。病める婦の花粉を着けたるがごとし」と評している。後の世の源氏物語に出てくる桐壺の更衣のような女性をイメージしていたのかも知れない。しかし、百歳近く生きて、むしろ奔放で弱々しくなかったと言う人もいるようだ。


               題しらず

113   花の色はうつりにけりな   いたづらに我が身世にふるながめせしまに

              題しらず

552    思ひつゝぬればや人の見えつらむ     夢と知りせばさめざらましを

553    うたゝねに恋しき人を見てしより    ゆめてふ物はたのみそめてき

554    いとせめて恋しき時は   むばたまの夜の衣をかへしてぞきる

               返し

557    おろかなる涙ぞ袖に玉はなす  我はせきあへず   たぎつ瀬なれば

              題しらず

623    みるめなきわが身をうらと知らねばや  かれなであまの足たゆくくる

              題しらず

635    秋の夜も名のみなりけり  あふといへば事ぞともなく明けぬるものを

              題しらず                                    こまち

656    うつゝにはさもこそあらめ    夢にさへ人めをもると見るがわびしさ

657    限りなき思ひのまゝによるもこむ   夢路をさへに人はとがめじ

658    夢路には足もやすめず通ヘども   うつゝに一目見しごとはあらず

               題しらず

727    あまのすむ里のしるべにあらなくに うらみんとのみ   人のいふらむ

             題しらず                    をののこまち

782    今はとて  わが身時雨にふりぬれば    言の葉さへに移ろひにけり

                                           (返歌あり)

             題しらず                         こまち

797     色みえでうつろふものは    世の中の人の心の花にぞありける

             題しらず                                小町

822    秋風にあふたのみこそかなしけれ    わが身空しくなりぬと思へば

       康秀が三河の掾(ぞう)になりて、「あがたみにはえいでたゝじや」と、
       いひやれりける返り事によめる

938  わびぬれば   身をうき草の根を絶えて   誘ふ水あらばいなむとぞ思ふ

              題しらず

939     あはれてふ言こそ   うたて    世の中を思ひ離れぬほだしなりけれ


              題しらず

1030    人にあはむつきのなきには    思ひおきて胸はしり火に心やけをり

古今墨滅歌1104    おきのゐ、みやこじま        をののこまち

       おきのゐて身を焼くよりもかなしきは   宮こ島べの別れなりけり


小町の姉の歌                                  こまちがあね

              あひ知れりける人のやうやくかれがたになりけるあひだに、
              焼けたる茅の葉に文をさしてつかはせりける

790    時すぎて    かれ行く小野の浅茅には    今は思ひぞたえずもえける

                                     (歌番号は「国歌大観」による)


 

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音楽と詩

2008年02月15日 | 文化・芸術

音楽と詩

音楽には色彩も形象もない。絵画には視覚でとらえる対象がまだ残されているけれど、音楽においてはもはや視覚は役に立たない。物質性をもたないこの「音」をとらえるには聴覚しかない。だから音楽は絵画よりもさらに抽象的で観念的である。そして、その抽象性、観念性のゆえに、音楽は私たちのもっとも奥深い心の内面に入り込んでくる。

音楽それ自体は一つの抽象的な「話し言葉」にもたとえることが出来る。愛する人の話言葉のように心に響いてくる。それはカンデンスキーやミロの抽象画が「書き言葉」としてその印象が私たちの意識に伝わってくるのに似ている。しかし音楽は抽象絵画より以上に、そこから伝わる色彩も形象も抽象的である。ただその印象は視覚からではなく、聴覚を通じて心に達するゆえにその色彩も形象も観念的であり、絵画のように客観的な物質性をもたない。絵画の世界においても印象派からピカソ、ブラック、さらにミロやカンデンスキーへと進むにつれて、次第に具象性を失っていったが、それでも絵画にあってはまだ色彩と形象が残されている。

とはいえ、こうした抽象的な音楽であっても、器楽音だけで純粋に構成されるソナタや組曲や交響曲と違って、アリアなどの声楽曲はそこに言葉が伴われるだけ、具体的でわかりやすい。

話し言葉ももともと「音」によって伝えられるから、言葉には本来的に音楽性が含まれているけれども、ただ言葉には人間のコミュニケーション手段として、意味が分かちがたく結びついている。だから、単なる嘆きや叫声の段階から言葉がさらに表象や意味(概念)と結びつけられるとき、抽象的な世界である言語の世界も、再び、具体性を獲得してゆく。そのもっとも洗練された姿が「詩」であることは言うまでもないが、この詩が音楽と結びついたとき、音楽による感情表現はより具体的な明確な輪郭をもって私たちの意識に伝えることができる。

そして、単なる感情の洗練や浄化の段階からさらに進んで高まると、何らかの思想や理念を作曲家や詩人は伝えようとする。ソナタやパルティータなど純粋な器楽曲と比べて、カンタータなどの声楽曲は言語表現をともなうだけ、その音楽の表象や思想をより具体的に把握しやすい。

先に取り上げたエマ・シャプランの歌う「VIDE MARIA」などの曲も、音楽の中により具体的な言語が入り込んでくるために、その抽象性はよほど失われ、具体的により表象的に音楽のテーマである感情や思想を把握しやすくなっている。

しかし、その歌曲が外国のものであって、しかもその言葉を解することが出来なければ、再びその音楽からは具象性は失われてしまう。外国語もその意味を解することが出来なければ、その声は私たちの耳には、あたかももっとも美しい一つの器楽音楽のように響いてくる。

とはいえ実際に私たちが日常聴いている海外の多くの歌曲についても、その歌詞の意味内容がわからないとしても音楽鑑賞には本質的には差しつかえはない。たとえ器楽や音声によって伝えられたその具体的な意味がわからなくとも、私たちは十分に楽しむことは出来るし、さまざまの喜怒哀楽の感情は浄化されて何らかのカタルシスをもたらしてくれる。それは音楽が言葉よりもさらに根元的で感情的な言語であるからだ。

「VIDE MARIA」でもシャプランが歌っている言語はイタリア語らしく、私には全く経験がなかったので聴いても意味がわからなかった。時折「マリア」とか「マドンナ」とか、耳にしたことのある固有名詞がいくつかわかるくらいで、歌われているその詩の内容はまったくわからない。

十分に歌曲自体は楽しめたけれども、同じ歌曲で誰かが映像を編集し、歌詞を英訳して投稿したものが同じYOUTUBEに見つかった。それを見てこの歌で歌われているらしい意味内容を何とか理解することができたけれど、イタリア語はからきしわからないから、この「英詩」が原詩をどれだけ忠実に訳し出しているのかもわからない。

それでも、この歌の英訳らしきものを手がかりにこの歌曲の原意をたどろうと思いついた。イタリア語から英語に翻訳するのは、それらはインド・ヨーロッパ語族として同じ語系に属していて、語源や語順を本質的に同じにしているし、かつ、民族的にも近接しているから、日本語に翻訳するよりも遙かに容易で、原作に忠実に訳しやすいように思われる。

ただ日本の多くの歌謡曲をみてもわかるように、歌曲においては、そこで歌われる詩自体は必ずしも優れている必要はない。むしろ、そこでは曲に一致していることが重要であって、詩としての洗練度はあまり問われない。

詩の内容は、愛することの悩みが歌われているらしい。こうした感情は万国共通で普遍的であるからこそ、外国産のこうした歌曲も私たちの共感の呼ぶのだろうし、そこに人類としての一体感も感じることもできる。

冬の野原が詩の舞台であるようで、そこで恋に悩む娘がマリアに祈る内容になっている。いかにもカトリックの国のイタリアにふさわしい。言語には民族や国民の固有の伝統や宗教の感情が分かちがたく結びついて表現されているから、そうした伝統や宗教的感情の異なる言語には翻訳するのはむずかしい。

英訳詞は誰が訳されたのかはもちろんわからないが、簡潔な力強い語句で、深い情感を現わしている。韻などは踏まれてはいないけれども、英語の詩的表現の情感の深さ、豊かさの一端を知ることはできる。

その後、ネットで原詩を探してみると見つかった。原文はイタリア語であるらしい。ドイツ語や英語なら何とかほんの少しぐらいなら意味をとれるけれども、イタリア語については全くだめである。誰かこの言語に堪能な人に訳し出していただければうれしい。

  Vedi Maria

L'aurora, a ferir nel volto,
Serena, fra le fronde, viemme
Celato in un aspro verno
Tu viso, il sdego lo diemme

Silentio, augei d'horrore !
Or grido e pur non ô lingua...
Silentio, 'l amor mi distrugge,
Il mio sol si perde,
Guerra, non ô da far...

Vedi Maria
Vedi Maria
Ardenda in verno,
Tenir le, vorrei,
Il carro stellato !
Madonna...

In pregion, or m'â gelosia
Veggio, senza occhi miei
Il canto, ormai non mi sferra E, nuda, scalzo fra gli stecchi

Aspecto, ne pur pace trovo
E spesso, bramo di perir
Aitarme, col tan' dolce spirto
Ond'io non posso E non posso vivir...

Vedi Maria
Vedi Maria ( etc... )

Che è s'amor non è ?
Che è s'amor non è ?

Vedi Maria...
Vedi Maria...
Madonna, soccorri mi
 
 
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Vedi Maria(見て、マリア) 

2008年02月14日 | 文化・芸術

インターネット オプションのフォントを、「MS P  ゴシック」か「MS P  明朝」にして見てください。

 

Vedi   Maria(見て、マリア)       Vedi   Maria  (Emma Shapplin

小枝の間から、                                    Between  the   branches  
飛び降りてきて私の顔をぶった。            Down  just   hit   my  face
そして、あなたは怒りをあらわにする。        And  anger  shows  me  yours
凍てつき、乾ききった冬。              frozen  in an   arid  winter
  静けさ。                             Silence
いやな小鳥たち。                      Birds  of  horror
私は口もきけずに叫んだ。                 I  shout  with  no  tongue
  静けさ。                         Silence
愛は私をうち砕き、                     Love  destroys  me
私のお日様もどこかに消えてしまう。        And my sun lost it's  way
だけど、私には戦いを挑む気持ちもない。 But  I  have  no  wish  to  wage  war
見て、マリア。                          See  Maria
見て、マリア。                          See  Maria
私は冬のさなかにも燃えているの。         I'm  burning  even  in winter
そう、私は止めたいの、               And   I    would   like  to  stop
駆けめぐる馭車座の星々を。              The  chariot  of   stars
聖母さま。                              Madonna
                      
嫉妬は私を虜にし、             Jealousy   is  holding  me  prisoner
私は眼に見ることもなく見る               And   I  see  without  eyes
この歌はもうこれ以上私を傷つけない。       This  song  hurts  me  no  more
私は裸足で走る。                       And  I  run  barefoot
野イバラの間を駆け抜けて。               among  the  brambles
私は待つけれど、安らぎを見つけられない。   I  wait  and  cannot  find  pease
ああ、どうすれば私は消えてしまえるの。       Oh  how  I  wish   could  perish
            
私はいくども叫ぶけれど、                    I  often    shaut
私は生きることも出来なければ死ぬことも出来ない。But  I  can  neither  live with
このような優しいマリアさまなくして。  Nor  live  without   Such  a  gentle  ghost
                                    
見て、マリア                           See  maria
見て、マリア                                                            See  maria

私は冬のさなかにも燃えているの。         I'm  burning  even  in winter
そう、私は止めたいの、               And  I  would  like  to stop
駆け巡る馭車座の星々を。               The  chariot  of   stars     
聖母さま。                              Madonna 

これは何?もし、これが愛でないとしたら、      What  is  this ,  if  not  love
これは何?もし、これが愛でないとしたら。      What  is  this ,  if  not  love

見て、マリア。                            See  maria
見て、マリア。                                                               See  maria
聖母さま、来て、私を救って。            Madonna     come   save  me !

 

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音楽

2008年01月16日 | 文化・芸術
私の音楽
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クリスマス・イブ、Merry X'mas !

2007年12月24日 | 文化・芸術

ヨハネ書には、イエスの生誕について何ら具体的なことは記録されていない。この本でイエスの母マリアがはじめて登場するのは、カナでの婚礼にイエスとともに参加したときのことである(ヨハネ書第2章)。それに対して、ルカ書にはイエスの誕生の経緯がやや詳しく記されている(ルカ書第1章)。しかし、ルカ書もヨハネ書のいずれにも、イエスの生誕にヨハネが深く関わっていたことを伺わせる記述がある。

それにしても、イエスの存在はその母マリアなくしては考えられない。12月25日はイエスの誕生日であるという。今日はその前夜祭。イエスの言動についていくつかの記事を載せているこのブログでも世間並みにイエスの生誕を祝って。

ルカ書第1章第28節以下から。

天からの使いガブリエルは、マリアのところに来て言った。「歓びなさい。何と恵まれた方。主はあなたとともにおられる。あなたは女のうちにあって祝せられる。」

マリアの賛歌

そして、マリアは言った。

私の心はいたく主をあがめ、
私の魂は、私を救われた主なる神を歓び称えます。

主ははしためのような身分の低い私にも眼を注がれましたから。
今からすべての世代にわたって、私は恵まれた女と呼ばれるでしょう。
力ある方が、私に驚くべきことをなされましたから。
聖なるは主の御名です。

主を畏れる者に主の愛は、
代々に及ぶでしょう。

主はその腕に力をふるい、
思い高ぶる者を蹴散らされます。

主は力ある王を玉座から引きずりおろし、
卑しい者を高く引き上げられました。

主は飢える者を善き物で満たし、
富める者を空手で立ち去らせます。

主は僕イスラエルを愛の思いに堅く抱きしめられます。
主が私たちの先祖に語られたように、
アブラハムと彼の子孫にとこしえに。


天使祝詞

おめでとう、恵まれたマリア、
主はあなたとともにおられる。

あなたは女のうちにて祝せられ、
お腹の御子イエスも祝せられる。

主の母マリア、
罪人である我らのために、
今も臨終のときも祈りたまえ。

クリスマスおめでとう。Merry X'mas !


つたないこの記事をクリスマス・カードを送りきれなかった友人たちに。

  アヴェ・マリア

     アヴェ・マリア

            真珠の耳飾りの少女      

           

 

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山本常朝 ――『葉隠』の死生観

2007年12月11日 | 文化・芸術

山本常朝 ――『葉隠』の死生観

人間は文化的な生物である。だから、その成育の環境と伝統のなかで「教育」を受けてはじめて人間になる。教育や伝統などの文化的な環境が人格形成に決定的な影響を及ぼす。人は誰でも、両親を第一として、故人であれ、また海外であれ、青年の頃から多くの人格に接することを通じて人格形成を行う。そして、多くの人がそうであるように、私もまた、様々な出来事や人格から何らかの影響を受けながら、意識的にかあるいは無自覚的に自分の人格を形成してきたといえる。

その中にも、もちろんその影響の強弱はある。人格の中にも、強い影響力、感化力を持つものとさほどでもないものがある。

最近でこそ特に関わることもないけれども、二十歳前後の青年時代に触れる機会があって、かなり強い印象を残した人格に山本常朝という人間がいる。常朝とは、いうまでもなく『葉隠』の語り部である。私はそれを当時刊行されていた「江戸史料叢書」の中の上下本として読んだ。

『葉隠』といい山本常朝といえば、その武士道の主張で戦前の右翼思想家のイデオロギー形成に寄与したことから、左翼からは批判的な眼で見られることも多いようである。けれども、それは山本常朝自身の責任ではない。常朝自身の考え方には、右翼とか左翼とかいった狭い範疇を越えた普遍的な真実がある。


常朝の思想の核心は、武士の身分として「死の決意をもって主君に奉じる」ということにあった。武士の生き方としての死の覚悟である。彼の人生観、死生観はそれに貫かれている。

「毎朝毎夕改めては死に死に、常住死身に成りて居る時は、武道に自由を得、一生落ち度なく家職を仕果たすべき也」と語っている。
ある意味では彼は最高の「モラリスト」であるとも言え、少なくとも江戸、明治期には、我が国にこうした人格は少なくなかったのだろうと思われる。そして、まさにそれと対局にあるのが、戦後民主主義の人間群像なのだろう。

常朝自身は、また、それなりに風流人であったようである。彼の言葉の節々にも、詩人的な風格が香ってくる。彼自身は仏道修行や風雅の道は隠居や出家者の従事することとして、無学文盲を称して、奉公一篇に精を出したが、詩人としての気質に不足はなかった。「恋の至極は忍ぶ恋と見立て候」というのもそうである。彼自身がきわめて聡明であったことはその発言からもわかるが、また、なかなか美男子であったようだ。しかし、器量がよく、利発者であっても、それが表に出るようでは人が受け取らぬ事をよく知っていた。それで毎日、常朝は鏡に自分の顔を映して自分の器量を押さえたのである。 

                    
江戸と今日の平成の御世では大きく異なるのは言うまでもないが、それでも本質的に共通する部分もある。そこに、『葉隠』が今日にも普遍的に通用する真理を語っている一面も少なくない。たとえば彼は「武篇は気違ひにならねばされぬ者也」と言う。

現代の私たちが、ふつうに暮らしていても、特に男子には日常的にその誇りを試される場合が多い。その誇りを守る必要があれば、いつでも狂い死にせよ、と常朝は教えるのである。

だから、その配偶者は、いつ何時でも彼女の夫が街の路頭で狂い死にすることがあったとしても、その死には何らかの事情があることを思う必要がある。人生の伴侶として、その覚悟を求められるだろう。昔の武士の妻たちは皆そのことは心得ていたはずである。

また、常朝は次のような言葉も残している。「人間一生誠に僅かの事也。好ひた事をして暮らすべき也。夢の間の世の中にすかぬ事計りして、苦を見て暮らすは愚か成る事也。此の事はわろく聞きて害になる事故、若き衆などへ終に語らぬ奥の手也。」

 

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理想の恋愛、理想の結婚

2007年09月13日 | 文化・芸術

畠山被告が娘への殺意否認 秋田・連続児童殺害初公判(朝日新聞) - goo ニュース

理想の恋愛、理想の結婚

人間であれなんであれ動物にとって、子孫を残すというのはその存在の根本的な使命と考えてよいと思います。そして、人間にとっては、その使命は結婚において家族をつくることによって果たされます。

聖書にもありますように、人は結婚することによって、それまで育てられた両親に別れを告げて、新しい伴侶と家族を形成することになります。そして、新婚の伴侶とともに生活の多くの時間を共同で過ごすことになります。生まれも育ちも違うそれぞれの自我をもった二人の人間が、一つ屋根に生活することからさまざまな問題が起きざるを得ないということなのでしょう。

だから、やはり人間の幸福ということを考えるとき、その結婚生活が幸福なものであるかどうかは、その人の人生を大きく左右するといえます。結婚の失敗は人生の失敗と言ってもよいくらいです。

もちろん、「成功」がすべて幸福であるというような浅薄な幸福観は持ちませんし、キリスト教でも、「悲しむ人は幸いなり」といった自虐的とも思われかねない幸福観もありますから、現代の多くの女の子たちが願うような、絵に描いたようなマイホームの小さな幸せがすべてだとは思いません。しかしそれでも、幸せな結婚生活は、多くの人が願ってしかも、なかなか手に入れることのできないものなのでしょう。

久しぶりに、家族の問題に関係のあるいくつかのブログやサイトを覗いたりしましたが、やはり、さまざまな家族があり家庭があるものだという感想をあらためてもちます。時々テレビニュースなどでも、立派な家庭のその豪邸が画面に写されてながら、一方でその家庭内殺人事件などが報じられているのを見聞きすると、それぞれの家庭内の事情というのは、なかなか外見からは、分からないものだということにあらためて気づきます。

昔、瀬戸内海を行く船のデッキの上で、アンナ・カーレニナの文庫本を読んでいた記憶があります。その本はその以前から長く読み続けていて、ちょうど終局に差し掛かっていて、もう第7巻目ぐらいに入っていた頃だと思います。

すでに多くの人に取り上げられてはいますが、この本の冒頭に、「幸福な家庭はどれも似通っているが、不幸な家庭はそれぞれに不幸である」ということばがあったことをその時思い出したことを覚えています。瀬戸内の深緑の海と、背後に流れゆく松島の美しい景色とともに記憶に刻まれています。

幸福な家庭はみんな似たようなものだけれど、不幸な家庭にはいろんな形の不幸があるということなのでしょう。結婚生活の悲劇を描いてこれほど印象深い作品はすぐには思い当たりません。もちろん、家庭や恋愛の悲劇を描いた文学作品は無数にあります。小説などの文学作品は、むしろ、それらがテーマだと言ってもいくらいです。シェークスピアの「ハムレット」も、漱石の「こころ」も恋愛の悲劇を描いたものです。

実際、誰しもが理想の出会いを願い、理想の恋愛と理想の結婚を求めながらも、その多くは悲劇に、時には喜劇に終わってしまいます。それほど、男女の人間関係は難しいということなのでしょうか。

しかし、もちろん結婚生活や恋愛の失敗は決して侮ることはできません。それが人生の破綻につながることも多いからです。自分の拳銃で恋人を殺した警察官の事件もそうですし、数年か前に秋田で、自分の子供を殺すことになった女性も、つきつめれば最初の男性との結婚に失敗して離婚したことが、事件を犯すことになった最大の理由だと言うことがわかります。また、ついこの間も、仙台でスーパーで働いていた女性が、後輩の女性に好きな男性との結婚を横槍され妨害されたことを恨んで、おそらく彼女自身も想像することすらなかったに違いない事件を起こしています。

               秋田連続児童殺害事件

ネット上でも、結婚の問題がどのように取り扱われているのかちょと調べてみても、そこにはいろんな夫婦関係が記録されていて、なかには「こんな夫もいるのか」など驚かされることもあります。こんな夫と結婚すれば、奥さんも耐えられないだろうなと同情心も起きたりします。

それでも、その多くの記事について読んでも、やはり昔から「夫婦喧嘩は犬も食わない」ということわざもあるように、イラクやアフガニスタンに比べれば、日本は平和だな、くだらない、と感じることも少なくありません。

          ※ ラファエロ 聖母子像  写真先

 

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『私は貝になりたい』

2007年08月26日 | 文化・芸術

『私は貝になりたい』

先日の23日の夜に、おそい晩食をとりながら何気なくチャンネルを回すと、俳優の中村獅童氏が旧日本軍の陸軍兵士の姿で演じていました。はじめは、それがどういうドラマであるのよくわかりませんでしたが、見ているうちに、このドラマが、はるか昔にフランキー堺と新珠三千代らの主演で映画化されて評判になっていた『私は貝になりたい』のテレビドラマ・バージョンであることが分かりました。映画は昭和59年に製作され、当時にも多くの人の話題に上っていた記憶があります。ただ当時まだ子供でしたから、その映画の内容にまでは思い及びませんでした。


残念ながら最近のテレビ番組では面白いドラマに行き当たることは少なくなったと思います。多くのテレビ局は、知恵も手間もかからない安易なグルメ番組やエロ・グロドラマでお茶を濁しているからです。面白い本格的なドラマを制作するだけの労をとることを、テレビ局の制作者たちは厭っているからです。だからテレビを見るのも、ニュース番組かドキュメント番組が主にになりつつありますが、さきに女優の竹内結子との離婚話で話題になっていた中村獅童の主演するこのドラマはなかなか面白くて、珍しく最後まで見ました。

途中から見始めたので、しかも、はじめのうちは漠然と見ていて、それほど集中もしていなかったので、内容は良く分かりませんでした。それで、日本テレビの番組紹介や『ウィキペディア(Wikipedia)』などを見てみると、この原作の作者である加藤哲太郎氏の生涯の概略などもすぐに分かります。それによると加藤哲太郎氏の父である加藤一夫氏は春秋社の創設にもかかわったアナーキストだったということです。そうした知識や情報を部屋にいながらにして瞬時に手にできるのですから、インターネットが普及して本当に便利になったものです。

映画では、主人公の加藤哲太郎をフランキー堺が、妻となる倉沢澄子を新珠三千代らが演じていたようです。これらの俳優の名前は私たちの世代には懐かしいものですが、この映画『私は貝になりたい』は加藤哲太郎氏の書いた小説の「原作」に比較的に忠実であるそうです。今回のテレビドラマの場合は、小説の原作の内容よりも、加藤哲太郎氏本人の実際の人生の体験により忠実に脚色されているようです。

加藤哲太郎氏の書いた小説では、主人公は上官の絶対的な命令にしたがって捕虜を殺害し、その罪を理由に絞首刑にされることになっています。しかし、実際には加藤哲太郎氏は捕虜を殺すことはなかったし、絞首刑にされることなく、英語塾を開きながら戦後も生き延びたそうです。だから映画よりもテレビドラマのほうが、処刑をまぬかれた加藤哲太郎氏個人の実際の体験に忠実なドラマ構成になっています。


加藤哲太郎氏が自分の体験をもとに書いた小説に忠実か、あるいは、加藤哲太郎氏自身の実際の「個人史」に忠実かという違いはあっても、フランキー堺の映画にも、中村獅童のドラマにも伝えられている基本的なメッセージは同じものです。

それは、大きくいえば、戦争の残酷さと不条理さであり、また、人間そのものが持っている深い闇です。平和な時代においては、そうした人間の原罪とでもいうべき傾向は隠れていて表面に現れてくることはありません。しかし、戦争などという極限状況で、人間の悪やエゴイズムをとことん体験した人々は、ときに絶対的な人間不信の絶望に陥り、「生まれ変わるなら『貝』になって生まれ変わりたい」とまで主張するようになります。おそらく、この言葉も加藤氏が実際に獄中かで「戦犯」の誰かから実際に聞いた言葉なのかも知れません。


こうしたドラマを見てあらためて、現代の国家が巻き込まれる戦争の本質を問うこともできます。「イラク戦争」やビン・ラーディンとの対「テロ戦争」、北朝鮮やイランとの核兵器所有をめぐる現代史の特殊な問題など、今なお、人類は戦争の呪縛からは完全には解放されていません。

また、ドラマとは直接関係はありませんが、靖国神社に祭られている「A級戦犯」をめぐって、中国や韓国からの抗議によって、事実上現在の日本の首相に靖国神社参拝の自由は失われています。さきにアメリカの下院でも、いわゆる「従軍慰安婦問題」をめぐる決議もあったばかりです。

そもそも、「A級戦犯」という言葉、概念自体が、世界大戦の戦勝国であるアメリカや連合国の政治的な立場にたつた価値観であり、この概念はそうした歴史観とは切り離せません。「A級戦犯」として絞首刑にされた人々ばかりではなく、捕虜収容所やバターン行軍などにおいて捕虜を連行し、虐待した罪で多くの人々がBC級戦犯として処刑されました。このドラマの主人公のような「BC級戦犯」など処刑した、いわゆる東京裁判の正当性については、インドのパール判事もかって主張したように、さまざまな批判と論争があります。BC級戦犯の中には、当時の日本軍人が軍事関係の国際法に無知で捕虜の取り扱い方なども教育されてもいなかったことも被害を大きくしたとも思われます。

いずれにせよ、旧満州国からの開拓民たちの逃避行で、ロシア兵や中国人の略奪、暴行、強姦などの極限状況を体験した者や、とくに戦争などの極限状況を経験することによって、人間性について絶対的に絶望し、このドラマの主人公のように、人間にではなく「貝に生まれ変わりたい」というほどの人間不信が生まれるのもやむを得ないのかも知れません。またそれは、とくに日本人だけが残虐であるといったことではなく、特定の個人や国家、国民の問題ではなく、一定の状況下においてはほとんど必然的に発生する、人類に本質的で普遍的な犯罪性の問題であるともいえます。

そうした体験からさらに、人間の眼から見て「不条理」な現実をそのまま放置する神への絶望や、その事実に絶望して信仰すら失い、そこから無神論を自己の信念に転向するということも当然に起こりえます。

それに万が一にも先の世界大戦に日本が勝利していれば、マッカーサーやトルーマンはまぎれもなく日本軍によって処刑されたでしょう。彼らも「人道に反する罪」によって裁かれ、彼らも首をくくられることになったに違いない。そうしてお互いの裁判官席と被告席とを入れ代えることとなったでしょう。

アメリカ空軍による東京大空襲のような、じゅうたん爆撃によって老若男女の一般市民たち非戦闘員に対する焼殺や、広島、長崎の原爆投下にみるように、病院、学校などを含む非軍事施設と非戦闘員の一般市民に対する大量殺戮が当時の国際法規に照らしても「犯罪」であることは明らかでです。それなのに裁かれたのは、敗戦国日本の軍人たちだけです。
マッカーサーら勝利国の指導者たちは裁かれてもいない。少なくとも原則においては旧日本国軍の攻撃目標は、軍人と軍事施設に限られていた。そして当時にあっては、戦争をはじめること自体は犯罪でも何でもなかった。

旧日本軍の軍隊そのものが本質的にもっていた封建的で事大的で暴力的な組織機構とくらべて、アメリカ軍の組織体制のほうが、より「民主的」で開放的かつ人間的であったことは事実かも知れません。旧大日本帝国の軍隊組織には多くの欠陥や問題の存在していたのは事実でしょう。しかしそれも、質量ともに圧倒的に軍事力に劣っている日本軍がアメリカ軍との対抗上、精神主義を強調せざるを得なかったという側面もなかったとは言えません。

また、ドラマとは直接関係はありませんが、その延長線上の問題として、「戦争や核兵器は、絶対的無条件に「悪」として否定されるべきものであるか」とか、その一方で、「人間の生命と生存は、いかなる場合にも絶対的に無条件に肯定され確保されなければならないものなのか」といった根本的な問いは残ります。イランや北朝鮮などの核兵器所有など現代史の問題にもつながります。

ドラマでは加藤哲太郎の妻になる倉沢澄子役を飯島直子さんが演じていた。澄子の夫哲太郎に対する献身的な夫婦愛や、優香さんが演じていた妹の不二子の兄に対する兄妹愛は深く一途で、ともに人間性に対する救いと希望を残してくれたようにも思えます。

ただ、こうした現代のドラマを見ていても、戦前の昔から生き抜いた当時の俳優たちの面影を記憶に持つ私たちのような世代の眼には、現代の若い俳優たちが演じる戦前の「日本兵」や「日本の母」になんとなく違和感を感じます。日本人という全体的な「類型」としての「印象」が戦後60年を経てすっかり変質したからかもしれません。現代の日本人には、戦前の教育を受けて育った俳優たちが演じた「日本兵」や「日本の母」たちが持っていた「らしさ」は失われてすでにないからです。アメリカ文化に浸された「戦後」六十余年の長い時間の流れと堆積はどうしようもないようです。

 

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天高群星近