天高群星近

☆天高く群星近し☆☆☆☆☆

藤原忠実2

2016年01月24日 | 西行

人物

  • 孫の慈円は忠実を「執フカキ(執念深い)人」と評している。
  • 朗詠に優れ、藤原宗俊に学んだ箏は管弦の御遊でたびたび演奏し、各種古記録等に記載された御遊での演奏回数は息子・忠通に並んで多い。

摂関家領の復興

道長・頼通の時代までに拡大した摂関家領は、後三条天皇による延久の荘園整理や、代々の親族への分割譲渡により縮小してきていたが、忠実は摂関家の再興のために摂関家領の復興を行っている。

頼通の所領は正室の隆姫女王・嫡男の師実(忠実の祖父)・娘の寛子後冷泉天皇皇后、忠実の養母)にそれぞれ分割譲渡されていたが、忠実はこれを全て相続。加えて忠実は母・藤原全子(藤原俊家の娘)、祖母・源麗子(師実正室、源師房娘)の所領も相続した(『近衛家文書』)。忠実は自ら相続したこれらの所領を合わせて、殿下渡領とは別の摂関家の不分割家領とした。

また忠実は個々荘園の拡大も行った。代表的な例として、平季基が開発し頼通の時代に摂関家に寄進した島津荘薩摩国)がある。これは当初数百町歩しかない小規模なものであったが、忠実の代になって大隅国に約千五百町歩の新たな出作地を獲得している。

また、前述のように忠実は忠通に摂関の地位を譲った後も広大な所領(「宇治殿領」)を引き続き保有しており、後に「宇治殿領」は忠通に与えた「京極殿領」と娘の高陽院に与えた「高陽院領」に分けられたが、預所補任などは引き続き忠実が行った[5]。さらに前者に関しては仁平年間に忠通を義絶した際に悔返を行って頼長に与え(近衛家所領目録「庄々相承次第」)、後者は高陽院没後は回収するなど、依然として忠実が実質上の所有者であり続けた。この状況は保元の乱後に「宇治殿領」全てを忠通に譲渡するまで続いた[6]

こうした努力により忠実は豊富な財力を手にし、その邸宅は富家殿と呼ばれた。

官歴

系譜

脚注

  1. ^ その一方で、法皇は自分以外の者には決して見せなかった父・後三条天皇の宸記から部類記を作成するように忠実に命じて、完成した部類記をこの年の10月23日に堀河天皇に与えている(『中右記』、作成経緯については『中外抄仁平元年7月6日条)。これは天皇の補佐である摂関に必要な秘事を忠実に伝授すると同時に摂関である忠実を治天の君の指揮下に置こうとする方針があったと考えられている(松薗斉『王朝日記論』法政大学出版局、2006年。 ISBN 978-4-588-25052-1 P43-47)。
  2. ^ 公実は鳥羽天皇の生母藤原苡子の兄にあたる。
  3. ^ もっ とも、この謹慎期間にあっても忠実は大殿として摂関家領の経営を独占しており、後の政界復帰後に権力を振るえた背景には藤氏長者でありながら自領をほとん ど持ちえなかった忠通が、忠実の経済力に依存せざるを得なかったからだとする見方もある(樋口健太郎「院政期摂関家における大殿について」初出:『日本史 研究』484、2002年/所収:樋口『中世摂関家の家と権力』校倉書房、2011年)。
  4. ^ 上皇へ入内した后妃が皇后になった前例はなかった。「太上皇以夫人立后例不聞」(『長秋記』)。
  5. ^ 鎌倉時代に忠通の子孫である近衛家で作成された所領目録によれば、京極殿領は51か所・高陽院領は49か所あったという。
  6. ^ 樋口健太郎「院政期摂関家における大殿について」初出:『日本史研究』484、2002年/所収『中世摂関家の家と権力』校倉書房、2011年。
  7. ^ 『後二条師通記』『中右記』。『公卿補任』は22日とする。

関連項目

 

※出典

藤原忠実 - Wikipedia https://is.gd/ehrk5b

 


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