天高群星近

☆天高く群星近し☆☆☆☆☆

保元の乱3

2014年08月05日 | 西行

 


摂関家の凋落

この乱で最大の打撃を蒙ったのは摂関家だっ た。忠通は関白の地位こそ保持したものの、その代償はあまりにも大きかった。武士・悪僧の預所改易で荘園管理のための武力組織を解体され、頼長領の没官や 氏長者の宣旨による任命など、所領や人事についても天皇に決定権を握られることになり、自立性を失った摂関家の勢力は大幅に後退する。

忠通は保元3年(1158年)4月の藤原信頼との騒擾事件では一方的に責めを負わされ閉門処分となり、同年8月の後白河天皇から守仁親王(二条天皇)への譲位についても全く関与しないなど[15]、周囲から軽んじられ政治の中枢から外れていった。

乱後に主導権を握ったのは信西であり、保元新制を発布して国政改革に着手し、大内裏の再建を実現するなど政務に辣腕を振るった。信西の子息もそれぞれ弁官や大国の受領に 抜擢されるが、信西一門の急速な台頭は旧来の院近臣や貴族の反感を買い、やがて広範な反信西派が形成されることになる。さらに院近臣も後白河上皇を支持す るグループ(後白河院政派)と二条天皇を支持するグループ(二条親政派)に分裂し、朝廷内は三つ巴の対立の様相を呈するようになった。この対立は平治元年(1159年)に頂点に達し、再度の政変と武力衝突が勃発することになる(平治の乱)。

参加者一覧

天皇方

貴族

武士(北面・検非違使・京武者)

清盛軍の武士

義朝軍の武士[16]

上皇方

貴族等

武士

僧侶

後日談

閏9月18日、朝廷は新体制の確立を図るために保元新制を発令するが、それに先立つ閏9月8日に以下の宣命を作成して石清水八幡宮に乱の勝利を報告した。

後白河天皇宣命案(石清水文書) 『平安遺文』2848

読み下し文

… 前左大臣藤原頼長朝臣、偏に暴悪を巧み、妄りに逆節を図りて、太上天皇を勧め奏して、天下を擾乱し、国家を謀危するの由、云云の説、嗷々端多し。 然る間去る七月九日の夜、太上天皇ひそかに城南の離宮を出でて、忽ちに洛東の旧院に幸して、戦場を其の処に占め、軍陣を其の中に結びて、頼長朝臣と狼戻の 群を成して、梟悪の謀を企つ。ここによりて同十一日、凶徒を禦がんが為に官軍を差し遣わす。而して宗廟の鎮護により、社稷の冥助を蒙りて、謀反の輩、即ち 以て退散しぬ。頼長朝臣は流矢に中りて其の命を終えにき。これ即ち神の誅するところなり。まことに人の所為にあらず。廿三日に太上天皇をば讃岐国に遷送し 奉る。其の外の党類、或いは刑官に仰せて召し捕らえ、或いは王化に帰して来服す。即ち明法博士等をして所当の罪名を勘申しむるに、首従なきの律により、各 斬刑に処すべきの由を奏せり。然れども殊に念ずるところあり、右近衛大将藤原兼長朝臣以下十三人をば、一等を減じて遠流の罪に治め賜う。合戦の輩、散位平 朝臣忠貞以下二十人をば、古跡を弘仁に考え、時議を群卿に訪いて、かつ法律のままに斬罪に処せり。それ法令は馭俗の始めなり。刑罰は懲悪の基なり。もし寄 せ重きによりて優じ、職高きが為に宥むれば、中夏を治め難く、後昆をも懲らしめ難からむ。これ眇身の為に行わず。ただ国家に私なからむとなり。…

意訳

… 前左大臣の藤原頼長は、ひたすら悪事を凝らし、理由もなく反逆を企んで、太上天皇をそそのかして、天下の秩序を乱し、国家を転覆しようと図ってい るという噂が世上に飛び交った。そのような中、去る7月9日の夜に太上天皇がひそかに城南の離宮(鳥羽殿)を出て、洛東の旧院(白河北殿)に御幸して、そ こを決戦の場所に定め、武士を集めて頼長とともに狼の群れのようになり、凶悪な謀略を企てた。これに対して11日、凶徒を防ぐために官軍を派遣したとこ ろ、祖先の霊廟(石清水八幡宮)の加護により、土地の神の助けを頂いて、謀反の輩は退散した。頼長は流れ矢に当たって、その生命を終えた。これは神の罰で あり、まことに人のなしたことではない。23日、太上天皇を讃岐国に配流した。その他の党類も、ある者は刑吏に捕らえられ、ある者は天皇の徳に従って降伏 した。明法博士らに相当の罪を検討させたところ、主犯・従犯の区別はしないという律の規定により、みな斬刑に処すよう奏上があった。しかし特別に思うこと があり、右近衛大将の藤原兼長以下13人は、罪一等を減じて遠流の罪とした。戦闘員である平忠貞以下20人は弘仁(薬子の変)の先例にならい、公卿らに諮 問して、法律のままに斬罪に処した。そもそも法令は習俗を統制する始めである。刑罰は悪を懲らしめる基本である。もし関係の深さで優遇し、官職の高さを理 由に宥免したりすれば、天下を治めるのは困難になり、後世の者も厳罰を加えることができなくなる。これは私のために行うことではない。国家に私事はないの である。…

内容は、乱の責任は崇徳上皇と頼長にあり、頼長が流れ矢に当たって死んだことを神罰と して、上皇の配流とその他の者の処罰も国家による法に則った処 置とするなど、天皇方の勝利宣言といえるものだった。この朝廷の認識は、配流された藤原教長らが帰京を許され、頼長の子の師長が後白河法皇の側近になって も変わることはなかった。しかし安元2年(1176年)に建春門院高松院六条院九条院など後白河や忠通に近い人々が相次いで死去し、翌安元3年(1177年)に延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀といった大事件が勃発するに及んで、朝廷では保元の乱の怨霊による祟りと恐怖するようになる。7月29日、後白河は保元の宣命を破却し、「讃岐院」の院号を「崇徳院」に改め、頼長に正一位太政大臣を追贈することを命じた。保元の乱が終結して、およそ20年後のことだった。

年表

  • 年月日は出典が用いる暦であり、当時は宣明暦が用いられている
月日
宣明暦長暦)
内容出典
 
5月22日 鳥羽法皇、重態に陥る 兵範記
5月30日 鳥羽法皇の御万歳(崩御)の沙汰が始まる 兵範記
6月1日 源義朝源義康等の武士、院宣により内裏、院御所の守護を開始する 兵範記
7月2日 鳥羽法皇崩御 兵範記
7月5日 京中の武士の動きを停止する後白河天皇の勅命が発せられる 兵範記
7月6日 藤原頼長家人、源親治捕えられる 兵範記
7月8日 摂関家荘園の武士の動員禁止の綸旨
高階俊成、源義朝が東三条殿を接収する
鳥羽法皇初七日法要
兵範記
7月9日 崇徳上皇、白河北殿に入る 兵範記
7月10日 藤原頼長、白河北殿に入る 崇徳上皇の下に兵が集まる
高松殿の後白河天皇の下に武士が参集
兵範記
7月11日 後白河天皇方の軍勢が白河北殿に向かって出撃、崇徳上皇方と戦闘が行なわれ後白河天皇方が勝利する

藤原忠通を氏長者にする宣旨が下される
後白河方の武士たちに恩賞が与えられる

兵範記
7月12日 崇徳上皇出家 兵範記
7月13日 崇徳上皇、後白河天皇方へ身柄を遷される 兵範記
7月14日 崇徳方の中心人物・藤原教長が右大弁らによる取調べを受ける
藤原頼長死去
兵範記
7月15日 藤原忠実、藤原忠通に接触を開始する。 兵範記
7月18日 旧藤原忠実領、後白河天皇の綸旨によって藤原忠通に与えられる 兵範記
7月23日 崇徳上皇、讃岐に遷される 兵範記
7月27日 崇徳側逮捕者への罪名宣下(判決) がされる 兵範記
7月28日 平忠正らが処刑される 兵範記
7月30日 源為義平家弘らが処刑される 兵範記
8月3日 藤原教長、藤原頼長子息ら崇徳方に属した者達の流刑が執行される 兵範記

文学作品

物語

俳句

 

※出典 Wikipedia 「保元の乱」の項より
http://goo.gl/Qigg9
 

 



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