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逆さに見た極東アジア

2008-08-10 | 歴史、考古学
日本列島もこうして南北逆転させて眺めてみると、
随分と印象が変わってくるものだ。
そういえば横溝正史の探偵小説で、
金田一耕助が推理を練り上げるときに
しばしば逆立ちをしていたが、まぁ、あれと同じ。
当時の大陸・半島の住人にとって、日本列島とは
いかなる土地として映ったのか? それを
とことん彼らに同一化して想像してみる。

再び地図に眼を転じる・・・どんな事を感じるか?
約九十度に湾曲した日本列島の日本海沿いが、
大陸からの客を迎えるゲートのようではないか。
能登半島はあたかも生物の鋭敏な触覚を想わせ、
対岸の動静を探っているかのようだ・・・

日本海側の地域の過去をざっと振り返ってみると、
近世以降は華々しい歴史の舞台になっていない。
見方を換えると、戦乱の少ない平穏な地域。
したがって外国人には上陸しやすいということ。
この特徴は日本サイドには善悪両面をもたらす。
今は裏日本と言われてネガティブなイメージだが、
これは明治時代に便宜的に付けられた呼称。
偏見を捨てて、ロングスパンで捉えてみるなら、
新しい日本海文化圏の姿が視えてくるはずだ。

画像の中の地名や国名は七世紀前後のもの。
「越」というのは畿内から見た呼び名で、
現在の新潟県から福井県にかけての地域を指す。
かの継体天皇の出自に関わる地でもある。
渤海から日本海を渡って日本に向かうとすると、
新潟や福井の若狭を目指すのが最短距離になる。
もう一方の<関門海峡→瀬戸内海→大阪湾>
という正式ルートは迂遠で実際には使いにくい。
大和朝廷の監視が多いということもあるが。

越の国は、ツングース系の渤海を経由して
より濃厚な唐文化を受け入れる窓口であった。
ということは、大和は越を通じて
大陸の先進文化をあまた摂取してきた。
その意味では、古代の表日本ということになろう。
大陸から半島を経て瀬戸内海ルートで伝わるのは
厳密には新羅化もしくは百済化した中国文化。
純度では日本海経由とは比較になるまい。
こうした渤海との交流の記録は、残念なことに
大和政権側には僅かしか残っていない。
もしも越の国に政権があったと仮定したら、
先進的で華麗な日本海文化圏の様相が
史料の形で生き生きと後世に伝わったことだろう。
のみならず日本の古代史全体の相貌も、
甚だしく通説とは異なったものになるに相違ない。


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