大阪で古書探しをするなら、天神橋筋または中崎町である。
規模は比較に成らぬが、東京の神保町界隈に相当しようか。
そう云えば東京では昨日「春一番」が吹いたらしい。
私が暮らしていた頃も、毎年計ったように
2月25日頃に吹いたのを思い出す。
当日に限って気温が急上昇するものの、翌日以降は
三寒四温の言葉通り天候が推移するのも例年通りであった。
今日は昼前に天神橋筋商店街に立ち寄った。
ここは南北方向に全長2.6キロメートル、
約600店舗を擁する日本一長い商店街だ。
古書の類いを商う店の数は概算で30前後。
それら一軒一軒を丹念に見て廻れば相応に時間を費やすが、
愛書家や古書蒐集家にはこの上ない悦楽であり贅沢だろう。
纏まった金銭は有るのに纏まった時間が取れぬ、若しくは
その逆の状態は過去に幾度となく経験しているけれども、
古書たちは歴年の時を吸って其所此所に残り続ける。
日焼けした背表紙を書棚から抜き出す刹那にも、
経年で黄ばんだ函から本体を引っ張り出す間にも、
また、微かに黴の臭い立つ頁を繰る際にも、
視えない“時の砂”が沙羅沙羅と音を立てて流れ出す。
とある古書肆の天井まで届く書架の一隅に見出したのが
『現代日本文学アルバム16/三島由紀夫』。
三島由紀夫から連想されるもののひとつ「二・二六事件」
は奇しくも75年前の今日の出来事であった。
実は十代半ば頃に舐めるように繰り返し繙いたもので、
疑いもなく国文学への関心の起点となった一冊である。
これ以外に本日は『連環画・中国の故事名言』を発掘した。
故事名言の由来を中国人画家の挿絵とともに語っており、
細緻な筆遣い、動感ある画面構成は賛嘆に値する。
こちらも面白さの余り綴じ糸が解れる程に読み込んだ記憶
があるが、後に東洋史や東洋思想を探求する端緒となった。
二冊で可成りの重量となり、商品を容れて貰った紙袋の底
が今にも破れそうで心許なかったが、無事に帰り着いた。
思うに、心の世界にもバランスシートのようなものが在り、
現世で当人がそれまで何を獲得して何を棄損してきたのか、
その一切があちら側の世界の尺度・単位で記録されている。
それは象徴の世界、非計量の世界の存在で客体化すること
能わざるものであるから、仔細に閲覧することなど固より
叶うまいが、時折それを覗き見したい衝動に私は駆られる。
それ無しには腰を入れて前進する気運が内側から生じない。
一生涯に繰り返される再生に欠かせぬ作業とも言えようか。
私にとって、そのよすがとなるのは人生の各タームごとの
愛読書なり愛玩物であることが少なくない(ラジオの旧い
曲が沈降した記憶を蘇らせるよすがとなる方も多かろう)。
ノスタルジーに耽る地点から更に奥へ踏み込んでみれば、
意想外の省察や気づきが得られるかもしれない。
規模は比較に成らぬが、東京の神保町界隈に相当しようか。
そう云えば東京では昨日「春一番」が吹いたらしい。
私が暮らしていた頃も、毎年計ったように
2月25日頃に吹いたのを思い出す。
当日に限って気温が急上昇するものの、翌日以降は
三寒四温の言葉通り天候が推移するのも例年通りであった。
今日は昼前に天神橋筋商店街に立ち寄った。
ここは南北方向に全長2.6キロメートル、
約600店舗を擁する日本一長い商店街だ。
古書の類いを商う店の数は概算で30前後。
それら一軒一軒を丹念に見て廻れば相応に時間を費やすが、
愛書家や古書蒐集家にはこの上ない悦楽であり贅沢だろう。
纏まった金銭は有るのに纏まった時間が取れぬ、若しくは
その逆の状態は過去に幾度となく経験しているけれども、
古書たちは歴年の時を吸って其所此所に残り続ける。
日焼けした背表紙を書棚から抜き出す刹那にも、
経年で黄ばんだ函から本体を引っ張り出す間にも、
また、微かに黴の臭い立つ頁を繰る際にも、
視えない“時の砂”が沙羅沙羅と音を立てて流れ出す。
とある古書肆の天井まで届く書架の一隅に見出したのが
『現代日本文学アルバム16/三島由紀夫』。
三島由紀夫から連想されるもののひとつ「二・二六事件」
は奇しくも75年前の今日の出来事であった。
実は十代半ば頃に舐めるように繰り返し繙いたもので、
疑いもなく国文学への関心の起点となった一冊である。
これ以外に本日は『連環画・中国の故事名言』を発掘した。
故事名言の由来を中国人画家の挿絵とともに語っており、
細緻な筆遣い、動感ある画面構成は賛嘆に値する。
こちらも面白さの余り綴じ糸が解れる程に読み込んだ記憶
があるが、後に東洋史や東洋思想を探求する端緒となった。
二冊で可成りの重量となり、商品を容れて貰った紙袋の底
が今にも破れそうで心許なかったが、無事に帰り着いた。
思うに、心の世界にもバランスシートのようなものが在り、
現世で当人がそれまで何を獲得して何を棄損してきたのか、
その一切があちら側の世界の尺度・単位で記録されている。
それは象徴の世界、非計量の世界の存在で客体化すること
能わざるものであるから、仔細に閲覧することなど固より
叶うまいが、時折それを覗き見したい衝動に私は駆られる。
それ無しには腰を入れて前進する気運が内側から生じない。
一生涯に繰り返される再生に欠かせぬ作業とも言えようか。
私にとって、そのよすがとなるのは人生の各タームごとの
愛読書なり愛玩物であることが少なくない(ラジオの旧い
曲が沈降した記憶を蘇らせるよすがとなる方も多かろう)。
ノスタルジーに耽る地点から更に奥へ踏み込んでみれば、
意想外の省察や気づきが得られるかもしれない。