『日本書紀』応神天皇十四年の条には、
「弓月君が百済から百二十県の人を率いて帰化し
秦氏の基となった」との記述が見られる。
列島への秦氏の渡来は、思うに、応神の王権纂奪
に伴う対外政策転換(神功の外征が誘因となった、
もしくは応神自身もその受益者の一人であった)
の一環として果敢に推進され大規模化されたので
あろうが、実はその先慫となったのが神功皇后の
母方の祖たる天日矛の渡来であった、というのが
現時点での私の捉え方である。
神功皇后の伝承地を日本地図上にプロットすると
天日矛伝承の分布地とオーバーラップと同時に、
秦氏の拠点群とも重なってくる。個人的推理だが、
秦氏の先遣隊(=第一次、二次の天日矛集団)
の末裔が倭国の支配者層を徐々に蚕食し、それが
後の政変の伏線としても作用したのではないか。
つまり応神王統成立への潮流は、それを遡ること
半世紀近く前から日矛一族たる神功皇后を通じて
崇神王統の内部に生起していたと想像され、
大陸・半島の勢力分布の変化とも連動しながら、
海洋軍事国家を志向する新王権を待望する気運が
高まり、傑出した人物の出現により実現に至った
のではないか。その経過が武力闘争だったにせよ、
禅譲(当時の慣習で入婿となる)だったにせよ。
なお、古代の諸氏族の系譜をもとに記紀の記述の
矛盾点を修正しながら応神の血脈を遡ってゆくと、
天孫族系の宇佐国造から分岐した支族の流れに
辿り着くが、じつは神武や崇神の王統と同様に
遠祖は伽耶出身で、天孫族の初祖たる五十猛神の
後裔に変わりはないとのことである(宝賀寿男氏
の研究に拠る)。
応神天皇の頃、日本列島の推定人口は500万人。
秦氏が率いてきた渡来民の数は推計で4.5万人。
従って両者の人口比はおよそ100:1となる。
しかも彼らの同族を含む渡来系氏族群は、既に
西日本を中心とした各地に根付いていた。
ちなみに中国の清王朝の祖は、現在の北朝鮮付近
に居住していた半農半牧の民だったが、それにも
関わらず、人口比で100倍を超える漢民族を
300年に亘り支配していた。ということは、
4.5万人という渡来民の数は、当時の列島内に
もうひとつの王朝を成すに足る規模といえよう。
古代的な荒っぽさを伴ったが、応神の意向通り、
秦氏は現代風にいえば国策として招致されたのだ。
それより明治の文明開化や敗戦後の復興の歩みが
示すように、時として外国勢力に屈服するかに
見えながらも、むしろ日本人特有の受容性により
受け入れ態勢を整え、効果的な人的配置も行い、
外来民の携える先進文化を、歳月を掛けて着実に
同化していった過程にこそ私は感興を覚える。
秦氏及びその係累が、日本の殆どすべての神社の
創建に関与するとともに神道の祭祀儀式の一切を
古代より取り仕切ってきたというのは、表立って
指摘されはしないが隠れようもない事実である。
また、秦氏の渡来以降、倭国の言葉にヘブライ語
(厳密にはアラム語)が数千語に亘って混入した
と見られるのをはじめ、いわゆる「日ユ同祖論」
に関連して留意すべき事柄は少なくない。
今回の記事は、神功皇后の実像を探る延長線上に
秦氏という日本の巨大な地下茎を垣間みたことを
機縁として、思いのままに現時点での私見の一部
を記してみたものだが、茫漠たる更にその先には
ユーラシア全域に広がる地下茎が仄見えるようで、
悚然たる感懐を抱かせられる。
「弓月君が百済から百二十県の人を率いて帰化し
秦氏の基となった」との記述が見られる。
列島への秦氏の渡来は、思うに、応神の王権纂奪
に伴う対外政策転換(神功の外征が誘因となった、
もしくは応神自身もその受益者の一人であった)
の一環として果敢に推進され大規模化されたので
あろうが、実はその先慫となったのが神功皇后の
母方の祖たる天日矛の渡来であった、というのが
現時点での私の捉え方である。
神功皇后の伝承地を日本地図上にプロットすると
天日矛伝承の分布地とオーバーラップと同時に、
秦氏の拠点群とも重なってくる。個人的推理だが、
秦氏の先遣隊(=第一次、二次の天日矛集団)
の末裔が倭国の支配者層を徐々に蚕食し、それが
後の政変の伏線としても作用したのではないか。
つまり応神王統成立への潮流は、それを遡ること
半世紀近く前から日矛一族たる神功皇后を通じて
崇神王統の内部に生起していたと想像され、
大陸・半島の勢力分布の変化とも連動しながら、
海洋軍事国家を志向する新王権を待望する気運が
高まり、傑出した人物の出現により実現に至った
のではないか。その経過が武力闘争だったにせよ、
禅譲(当時の慣習で入婿となる)だったにせよ。
なお、古代の諸氏族の系譜をもとに記紀の記述の
矛盾点を修正しながら応神の血脈を遡ってゆくと、
天孫族系の宇佐国造から分岐した支族の流れに
辿り着くが、じつは神武や崇神の王統と同様に
遠祖は伽耶出身で、天孫族の初祖たる五十猛神の
後裔に変わりはないとのことである(宝賀寿男氏
の研究に拠る)。
応神天皇の頃、日本列島の推定人口は500万人。
秦氏が率いてきた渡来民の数は推計で4.5万人。
従って両者の人口比はおよそ100:1となる。
しかも彼らの同族を含む渡来系氏族群は、既に
西日本を中心とした各地に根付いていた。
ちなみに中国の清王朝の祖は、現在の北朝鮮付近
に居住していた半農半牧の民だったが、それにも
関わらず、人口比で100倍を超える漢民族を
300年に亘り支配していた。ということは、
4.5万人という渡来民の数は、当時の列島内に
もうひとつの王朝を成すに足る規模といえよう。
古代的な荒っぽさを伴ったが、応神の意向通り、
秦氏は現代風にいえば国策として招致されたのだ。
それより明治の文明開化や敗戦後の復興の歩みが
示すように、時として外国勢力に屈服するかに
見えながらも、むしろ日本人特有の受容性により
受け入れ態勢を整え、効果的な人的配置も行い、
外来民の携える先進文化を、歳月を掛けて着実に
同化していった過程にこそ私は感興を覚える。
秦氏及びその係累が、日本の殆どすべての神社の
創建に関与するとともに神道の祭祀儀式の一切を
古代より取り仕切ってきたというのは、表立って
指摘されはしないが隠れようもない事実である。
また、秦氏の渡来以降、倭国の言葉にヘブライ語
(厳密にはアラム語)が数千語に亘って混入した
と見られるのをはじめ、いわゆる「日ユ同祖論」
に関連して留意すべき事柄は少なくない。
今回の記事は、神功皇后の実像を探る延長線上に
秦氏という日本の巨大な地下茎を垣間みたことを
機縁として、思いのままに現時点での私見の一部
を記してみたものだが、茫漠たる更にその先には
ユーラシア全域に広がる地下茎が仄見えるようで、
悚然たる感懐を抱かせられる。