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古代日本の文明開化と秦氏(後編)

2009-01-25 | 歴史、考古学
『日本書紀』応神天皇十四年の条には、
「弓月君が百済から百二十県の人を率いて帰化し
秦氏の基となった」との記述が見られる。
列島への秦氏の渡来は、思うに、応神の王権纂奪
に伴う対外政策転換(神功の外征が誘因となった、
もしくは応神自身もその受益者の一人であった)
の一環として果敢に推進され大規模化されたので
あろうが、実はその先慫となったのが神功皇后の
母方の祖たる天日矛の渡来であった、というのが
現時点での私の捉え方である。
神功皇后の伝承地を日本地図上にプロットすると
天日矛伝承の分布地とオーバーラップと同時に、
秦氏の拠点群とも重なってくる。個人的推理だが、
秦氏の先遣隊(=第一次、二次の天日矛集団)
の末裔が倭国の支配者層を徐々に蚕食し、それが
後の政変の伏線としても作用したのではないか。
つまり応神王統成立への潮流は、それを遡ること
半世紀近く前から日矛一族たる神功皇后を通じて
崇神王統の内部に生起していたと想像され、
大陸・半島の勢力分布の変化とも連動しながら、
海洋軍事国家を志向する新王権を待望する気運が
高まり、傑出した人物の出現により実現に至った
のではないか。その経過が武力闘争だったにせよ、
禅譲(当時の慣習で入婿となる)だったにせよ。

なお、古代の諸氏族の系譜をもとに記紀の記述の
矛盾点を修正しながら応神の血脈を遡ってゆくと、
天孫族系の宇佐国造から分岐した支族の流れに
辿り着くが、じつは神武や崇神の王統と同様に
遠祖は伽耶出身で、天孫族の初祖たる五十猛神の
後裔に変わりはないとのことである(宝賀寿男氏
の研究に拠る)。

応神天皇の頃、日本列島の推定人口は500万人。
秦氏が率いてきた渡来民の数は推計で4.5万人。
従って両者の人口比はおよそ100:1となる。
しかも彼らの同族を含む渡来系氏族群は、既に
西日本を中心とした各地に根付いていた。
ちなみに中国の清王朝の祖は、現在の北朝鮮付近
に居住していた半農半牧の民だったが、それにも
関わらず、人口比で100倍を超える漢民族を
300年に亘り支配していた。ということは、
4.5万人という渡来民の数は、当時の列島内に
もうひとつの王朝を成すに足る規模といえよう。
古代的な荒っぽさを伴ったが、応神の意向通り、
秦氏は現代風にいえば国策として招致されたのだ。
それより明治の文明開化や敗戦後の復興の歩みが
示すように、時として外国勢力に屈服するかに
見えながらも、むしろ日本人特有の受容性により
受け入れ態勢を整え、効果的な人的配置も行い、
外来民の携える先進文化を、歳月を掛けて着実に
同化していった過程にこそ私は感興を覚える。

秦氏及びその係累が、日本の殆どすべての神社の
創建に関与するとともに神道の祭祀儀式の一切を
古代より取り仕切ってきたというのは、表立って
指摘されはしないが隠れようもない事実である。
また、秦氏の渡来以降、倭国の言葉にヘブライ語
(厳密にはアラム語)が数千語に亘って混入した
と見られるのをはじめ、いわゆる「日ユ同祖論」
に関連して留意すべき事柄は少なくない。

今回の記事は、神功皇后の実像を探る延長線上に
秦氏という日本の巨大な地下茎を垣間みたことを
機縁として、思いのままに現時点での私見の一部
を記してみたものだが、茫漠たる更にその先には
ユーラシア全域に広がる地下茎が仄見えるようで、
悚然たる感懐を抱かせられる。


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