エゾ中村のブログ

「藤圭子」から「現代医学の功罪」まで、思いの丈を綴ります。 ・・・ From 北海道 ・・・

♪ お~い 中村君 ♪

2020-08-27 08:10:12 | 日記

私が、小学校2年生(昭和33年)だったと思います。 「中村」を名指しする“歌謡曲”が 流行りました。 歌手「若原 一郎」が歌う「 お~い 中村君 」です。  お~い 中村君ちょいと待ちたまえいかに新婚ほやほやだとて伝書鳩ではあるまいものを・・・たまに付き合えいいじゃないか中村君 ♪ 私にとって、とても嫌な“流行歌”でした。  

◎「若原 一郎」


今思うに 昭和 33年は、1万円札が初めて流通した年です。 それまでの最高額紙幣は、5000円でした。 戦後とは言え、“朝鮮戦争特需”で急激に景気が良くなり、 世の中が多少浮かれた時代だったのでしょうか? 流行歌「 お~い 中村君 」は、歌詞も楽曲もお粗末でしたが、不思議なほど 流行りました!

◎「聖徳太子」の 1万円札(当時 カラー印刷でなかった)


私にとって、大変迷惑な歌謡曲でした。 特に「新婚ほやほや」のフレーズは嫌でした。 「どうして“中村”だったのか」 当時 日本に多い苗字は、11位が「中村」でした。 「佐藤」とか「鈴木」の方が、良かったのではないか? 日本中の(小中学生)「中村」は、皆が迷惑していたと思います!

子供達に“冷やかされる”のなら我慢できますが、大人に“からかわれる”のは辛かった。 その大人が、小学校の“教頭”だから なおさら辛い。 校舎で擦れ違う度に「お~い中村君~ちょいと待ちたまえ」と、大声で呼び止められるのです。 いつの間にか、教頭恐怖症になりました。 今風に言えば、セクシャルハラスメントです。(笑)

あの頃は、知りませんでした。 強面の“教頭”が、どうして歌謡曲「お~い 中村君」を、私の前で歌ったのか? 事実を知ったのは、10年以上後の事です。 “教頭”は、母方の 叔父 の親友だったのです! 戦後 共に復員し、職業として“教師”を目指す間柄でした。 念願かなって、二人は同じ小学校(我が町)の教師になりました。 数年後 “叔父”は“結核”を罹患し、面会謝絶のサナトリューム(結核病棟)に隔離され、同僚の“教頭”は心配していたのです。 “セクハラ”だと思った“教頭”の「お~い 中村君」は、ある意味で励ましだったのかも知れません? 「叔父さん(友人)を よろしく頼む」と! 残念ながら“叔父”は、4年後に亡くなりました。(享年 34歳)   

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今月(16日) 父方の“大叔父”が、95歳で亡くなりました。 死因は“誤嚥性肺炎”で 呆気ない最期でしたが、死ぬ寸前までボケる事なく元気した。 正に“大往生”と言えます。 その“大叔父”は、結核で亡くなった“叔父”の遠縁であり友人でした。 同じ時代・同じ町に生まれ、戦争も経験しています。 運命は、皮肉なものです。 母方の“叔父”と 父方の“大叔父”の人生は、3倍近く(約 60年)の隔たりがあるのです。 長生きが「良いのか 悪いのか」分かりません。 「太く短い人生」「細く長い人生」 いかに社会貢献し 有名人であっても、死んでしまえば“お仕舞い”です。 “葬儀”で大勢に見送られても、火葬され“骨”になった時、享年〇〇年の“戒名”(位牌)しか残りません。 は、唯一関係者の心に宿るものだと思います! 「千の風になって」 


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2 コメント

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おはようございます (宮ちゃん)
2020-08-27 08:40:27
若原一郎ーーーーーー
「欽どこ」
に、出演していらっしゃった方ですねーー
確か、娘さんもタレントだったような・・・
「欽どこ」では、
「あれからどうした中村君」
という、曲を歌っていた記憶があります。
今日も、かなり暑くなりそうです
どうぞ、ご自愛ください。
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Unknown (馬鹿も一心です。)
2020-08-31 05:58:23

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