エゾ中村のブログ

「藤圭子」から「現代医学の功罪」まで、思いの丈を綴ります。 ・・・ From 北海道 ・・・

“五十集屋”(いさばや)

2020-12-05 08:10:48 | 日記

江戸時代、義理と人情に厚い魚屋の「一心太助」が活躍していたそうです。 魚屋と言っても、街に出て魚を売り歩く“行商” だった様です。 武家屋敷や料亭に卸す鯛や平目などの高級魚ではなく、五十集(いさば)と言われる庶民が買える 安い魚(アジ・イワシ・サンマ・サバなど)だったと思います。  当時は 冷蔵庫も氷もなく、漁師から仕入れた魚は 鮮度が落ちる前に売り捌くのが、行商人の “腕” だと思います。 勿論、“口八丁” も必要です!

私の記憶では、昭和後期まで 行商で魚を売る “五十集屋”(いさばや)が、活躍していたと思います。 その大半が、老婦人でした。 亭主 や 息子 が獲ったであろう魚を、大きなジュラルミンのケースに入れて背負い、人口の多い街へ 列車に乗って売りに行くのです。 小さな漁船しか持てない漁師にとって、行商は 収入の大半だったと思います。 その時代 規模の小さい漁師は、生活に困窮していました。 なぜなら 何処の家でも、食べ盛りの子供が沢山いたからです!

◎ 大衆魚を売り捌く“五十集屋”

昭和の「一心太助」ではありませんが、高校時代に通学列車で 毎日の様に “五十集屋” を目撃しました。 年の頃は70歳近く、痩せて小さい老婦人でしたが、その迫力は同じ “五十集屋” の中でも、別格(ボス)でした。 列車に魚を入れたケースを乗せると、ふさがっている座席に割り込むのです。 「僕たち 婆さんを座らせろ」と、二人掛けのシートの真ん中に、尻を差し込むのです。 たまらず席を譲ろうとすると「気を使うな 座っていろ」まるで命令です。 孫の様な高校生と、体を接するのが好きだったのかも知れません。 おもむろに “キセル” を取り出し、きざみ煙草に火を点け一服するのが日課でした。 決して、世間話はしません。 寧ろ 列車で、暫し疲労を取っていると感じました。(老人に行商は重労働です) 正確な年齢も名前も分かりませんが、小柄な婆さんは 学生達が一目置く存在でした。

◎ 老婦人が集まる “行商列車”

おそらく 老婆が引退した後も、“五十集屋” と言う職業は 引き継がれたと思います。 “五十集屋” は、東北地方の方言の様ですが、北海道でも知られた言葉です。 店舗を持たない “魚屋”、大衆魚を扱う “行商” として、昔は “お得意様” 相手に活躍していました。 懐かしい 昭和の風景でした。

あれから 50年、私も行商の “婆さん” の年に近付きました。 北海道の動脈 JR 室蘭本線に SL(蒸気機関車)は無くなりましたが、通勤・通学列車は 昔と同様に走っています。 変わったのは、昔は「満員」・今は「ガラガラ」“五十集屋” に需要があれば、列車を独占できる 便利な時代になったと思います。 ただし、世の中が 大きく変わってしまった。 あの頃の “婆さん” の仕事 は、必要なくなったのです!(寂しくも悲しい)


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