(前日からの続き)
この世での生命があるいは短く、あるいは悲惨に
終わったとしても、霊界、神界では悲しむ必要は
全くありません。
なぜなら、本来の命に帰り働くために
仮にこの世での死が用意されたにすぎない
のであります。
このように救い、救われというものは、神様の
側から平等に配分されたものなのでありますが、
現実世界の人間にはそれがみえない。
もっと申しますと、一時みえなくさせられて
いるわけです。
それは、人が味わうべき愛別離苦、あるいは
歓喜といったものを十分に味わって、そこで
自らの中に起きる感情の波を経験し生きて
いくことが是非とも必要なことだからです。
この波の中に、真の救い、救われというものも
実は入っているわけですが、一気に生命の歓喜
というふうに真っ直ぐいかないのは、初めから
そこへ行ってしまいますと、それぞれの魂に必要な
修行というか、そういうものを全部素通りさせる
ことになるわけです。
これでは一人一人が持っている本来の光を十分に
輝かすことはできません、一旦、肉体を通して
浄めていくというのは、一見しますと真理という
ものに遠いと感じられがちでありますが、事実は
全く逆なのでありまして、生まれてすぐに亡くなる
とか、人としての意識を持つ以前にあの世に逝く
といった人々は、まことに限られた浄めの光
というものを持って生まれてきた、特別任務を
帯びた人々であるということができます。
何を浄めるかといえば、自分に連なる親族、
両親、家族はもとより、この世の波動の粗さを
光に近づけるという、世の中全体の浄めを行い、
同時にこの世を幽・霊・神界に生きて働いている
人々の生命に、深く結びつけるための浄め
なのであります。
(つづく)
この世での生命があるいは短く、あるいは悲惨に
終わったとしても、霊界、神界では悲しむ必要は
全くありません。
なぜなら、本来の命に帰り働くために
仮にこの世での死が用意されたにすぎない
のであります。
このように救い、救われというものは、神様の
側から平等に配分されたものなのでありますが、
現実世界の人間にはそれがみえない。
もっと申しますと、一時みえなくさせられて
いるわけです。
それは、人が味わうべき愛別離苦、あるいは
歓喜といったものを十分に味わって、そこで
自らの中に起きる感情の波を経験し生きて
いくことが是非とも必要なことだからです。
この波の中に、真の救い、救われというものも
実は入っているわけですが、一気に生命の歓喜
というふうに真っ直ぐいかないのは、初めから
そこへ行ってしまいますと、それぞれの魂に必要な
修行というか、そういうものを全部素通りさせる
ことになるわけです。
これでは一人一人が持っている本来の光を十分に
輝かすことはできません、一旦、肉体を通して
浄めていくというのは、一見しますと真理という
ものに遠いと感じられがちでありますが、事実は
全く逆なのでありまして、生まれてすぐに亡くなる
とか、人としての意識を持つ以前にあの世に逝く
といった人々は、まことに限られた浄めの光
というものを持って生まれてきた、特別任務を
帯びた人々であるということができます。
何を浄めるかといえば、自分に連なる親族、
両親、家族はもとより、この世の波動の粗さを
光に近づけるという、世の中全体の浄めを行い、
同時にこの世を幽・霊・神界に生きて働いている
人々の生命に、深く結びつけるための浄め
なのであります。
(つづく)