単純に言いますとね、みんな私の
子どもだなーと。
「私の」というのは、五井先生というのは
個人じゃないのね。
五井先生というのは、もう天に帰っていて、
天の私と地上の私が合体してしまったから、
一個人の五井昌久というものは、もう
無くなってしまっているんです。
そして何回も書きましたけど、空独尊、
もう空になっている。
阿弥陀さんの生命が、お釈迦さんが、
あるいはキリストの生命が、私という個性も
残ってる肉体の場所へ流れ込んで来ていただけ
の話でね、迷ったり悩んだりという五井昌久
個人のそういうものは消えてしまった。
それは植芝先生もそうですね。
植芝先生も或る日庭を散歩している時に、
天地鳴動して、武道とは神様の愛(合)の気が
流れているんだ、合気道とはそういうものだ
と悟られた。
(つづく)
子どもだなーと。
「私の」というのは、五井先生というのは
個人じゃないのね。
五井先生というのは、もう天に帰っていて、
天の私と地上の私が合体してしまったから、
一個人の五井昌久というものは、もう
無くなってしまっているんです。
そして何回も書きましたけど、空独尊、
もう空になっている。
阿弥陀さんの生命が、お釈迦さんが、
あるいはキリストの生命が、私という個性も
残ってる肉体の場所へ流れ込んで来ていただけ
の話でね、迷ったり悩んだりという五井昌久
個人のそういうものは消えてしまった。
それは植芝先生もそうですね。
植芝先生も或る日庭を散歩している時に、
天地鳴動して、武道とは神様の愛(合)の気が
流れているんだ、合気道とはそういうものだ
と悟られた。
(つづく)