神の心、神様の心というのはどんなものか。
この世の中には、不幸なことが絶えないと
みんなおもっている。事実、病気になる、
貧乏になる、こんなに一生懸命やっているのに、
ちっともよくない。そこで神様なんて
いるのかしらというおもいにとらわれちゃう。
神様がいるとしたら、神様はこういう現実を
みて、みながら、どう思ってるんだろう
と考える。果ては、神様に心なんてあるのか
と思ってしまう。
しかし、ここで、わたくしははっきり
申し上げますが、神様の心というものは、ただ
もう人間を愛する愛一元、光一元の心
なのであります。
この世的にみれば、病気になった、あるいは
貧乏になったということはあります。そういう
ことは出てきます。
しかし、それは、一つのあらわれであって、
いつもわたくしが申しておりますように、
過去世の業が、今、消えてゆくためのあらわれ、
消えてゆく姿なのである。
神様というものには、全く、愛以外のものは
ないのであります。宇宙は、神の深い深い愛
によって成り立っており、この地球も、又、
私達、地球人類の一人一人も、愛によって、
この世に押し出され、役目をおびて生まれて
きた存在なのであります。
その役目は、一人一人が神の光を、この世に
ふりまいてゆく、光と光をつなぎ、光を結ぶ
という役割でありますが、波動の粗い肉体を
まとって生きるうちに、人間は、本来
持っておりました自由自在心を失い、その粗い
波動の中から生まれてくるおそれや、
かなしみや、やり切れなさ、あるいは慾
といった業想念を自分自身だと思いまちがえて、
今日に至っているのであります。
どの世界に行ってもそうでありますが、
一体、天災や、不幸といわれるものが、
どこから生まれてくるかというと、それは、
我々人間一人一人の想い、こうなるにちがい
ない、こうなったらどうしようという
とらわれの心に満ちた想念から生み出されて
きたものであります。
実際、想念というものが、すべてのものの
源になっているのである。
速い汽車があればいいというおもいが、今、
新幹線を走らせている。これも、人間の
おもいを受けた科学が、結実した結果で
あります。これを、神様の方に移しますと、
神様は、もう愛のおもいで宇宙をつくり、
地球という星をつくり、人間、私達を
つくられたのである。
だから、私達の中には、神の愛と光が
流れ込んでいるのであります。どんなことが
起ころうと、その愛と光は、誰もとりのぞく
ことが出来ないのであります。
いつも申しますように、私達の生命
というものは、ずっとつづいて参ります。
神のみこころ、みふところ深く、天命を
完うするまで、この生命は、かがやいて神
と共にあるのであります。
いわゆる不幸とみえることは、その人の
過去世の業、-本来光であることに
気づかずに、犯した過ち-が消えてゆく瞬間
であると同時に、その人の魂の成長のために、
その人が、そのことを経験することによって、
一層神様とつながって、光をかがやかす
ために、神様が、守護霊、守護神に命じて
なさることでもあるのです。
その神様のみこころは、どこをどう
のぞいてみても愛なのです。暗い所や、
闇のところなんぞ、これっぽっちもありゃ
しないんです。
ですから、色々なことにぶつかっても、
ああこれで消えるんだな、と思って、どうぞ
世界平和の祈り一念、愛の祈り一念の生活を
つづけていって下さい。
それでは今日はこれでおわります。
どうもありがとうございました。
五井 昌久
昭和61年7月22日夜
この世の中には、不幸なことが絶えないと
みんなおもっている。事実、病気になる、
貧乏になる、こんなに一生懸命やっているのに、
ちっともよくない。そこで神様なんて
いるのかしらというおもいにとらわれちゃう。
神様がいるとしたら、神様はこういう現実を
みて、みながら、どう思ってるんだろう
と考える。果ては、神様に心なんてあるのか
と思ってしまう。
しかし、ここで、わたくしははっきり
申し上げますが、神様の心というものは、ただ
もう人間を愛する愛一元、光一元の心
なのであります。
この世的にみれば、病気になった、あるいは
貧乏になったということはあります。そういう
ことは出てきます。
しかし、それは、一つのあらわれであって、
いつもわたくしが申しておりますように、
過去世の業が、今、消えてゆくためのあらわれ、
消えてゆく姿なのである。
神様というものには、全く、愛以外のものは
ないのであります。宇宙は、神の深い深い愛
によって成り立っており、この地球も、又、
私達、地球人類の一人一人も、愛によって、
この世に押し出され、役目をおびて生まれて
きた存在なのであります。
その役目は、一人一人が神の光を、この世に
ふりまいてゆく、光と光をつなぎ、光を結ぶ
という役割でありますが、波動の粗い肉体を
まとって生きるうちに、人間は、本来
持っておりました自由自在心を失い、その粗い
波動の中から生まれてくるおそれや、
かなしみや、やり切れなさ、あるいは慾
といった業想念を自分自身だと思いまちがえて、
今日に至っているのであります。
どの世界に行ってもそうでありますが、
一体、天災や、不幸といわれるものが、
どこから生まれてくるかというと、それは、
我々人間一人一人の想い、こうなるにちがい
ない、こうなったらどうしようという
とらわれの心に満ちた想念から生み出されて
きたものであります。
実際、想念というものが、すべてのものの
源になっているのである。
速い汽車があればいいというおもいが、今、
新幹線を走らせている。これも、人間の
おもいを受けた科学が、結実した結果で
あります。これを、神様の方に移しますと、
神様は、もう愛のおもいで宇宙をつくり、
地球という星をつくり、人間、私達を
つくられたのである。
だから、私達の中には、神の愛と光が
流れ込んでいるのであります。どんなことが
起ころうと、その愛と光は、誰もとりのぞく
ことが出来ないのであります。
いつも申しますように、私達の生命
というものは、ずっとつづいて参ります。
神のみこころ、みふところ深く、天命を
完うするまで、この生命は、かがやいて神
と共にあるのであります。
いわゆる不幸とみえることは、その人の
過去世の業、-本来光であることに
気づかずに、犯した過ち-が消えてゆく瞬間
であると同時に、その人の魂の成長のために、
その人が、そのことを経験することによって、
一層神様とつながって、光をかがやかす
ために、神様が、守護霊、守護神に命じて
なさることでもあるのです。
その神様のみこころは、どこをどう
のぞいてみても愛なのです。暗い所や、
闇のところなんぞ、これっぽっちもありゃ
しないんです。
ですから、色々なことにぶつかっても、
ああこれで消えるんだな、と思って、どうぞ
世界平和の祈り一念、愛の祈り一念の生活を
つづけていって下さい。
それでは今日はこれでおわります。
どうもありがとうございました。
五井 昌久
昭和61年7月22日夜