人間というものが、他とちがうということを
考えて参ります時に、何が一番ちがっているか
と申しますと、それは、心を持っているという
ことでありましょう。
よろこび、かなしみ、いかり、なげき、寂しむ。
心というものは、その折々に、私どもの
相(すがた)をうつして、正直なあらわれを
示すのであります。
ところで、この心というものが、どれほど深く
また広いものであるかということについては、
全くといってよいほど、知られておりません。
それは、たとえば、よろこびですとか、かなしみ
という、海で申しますなら、海の波が静かであるか、
あるいはさわだっているかというそういう
ところだけをみて、ああ、今日はおだやかだ
とかですね、一寸あれているなとか、判断をして
しまいがちなので、なかなか心というものの
深さが、私どもには伝わらないのであります。
ここにいうよろこびとか、かなしみとか、
普段私どもが、心だとみているものは、実は
気持ちの働きでありまして、海でいえば波に
あたるのであります。それで、心というものを
たずねて参りますと、実は、ずっとずっと深い
よろこびとか、かなしみとか、迷いとか、
とにかく一切そういう波に惑わされない、
明るい大円光にたどり着くのです。
自分という人間の奥に、こんな明るい世界が
あったのかとおどろく程、そこは明るい。
なぜなら、そこは、神のこころの世界だから
であります。
人間というものは、いつも私が申します
ように、神の分生命(わけいのち)、神の
分霊(わけみたま)。神のこころが人をつくり、
人に分かれ、この地上で、極みない神の愛の
すがたをあらわすべく存在している
ものなのであります。
ところが、想念というおもいの世界が、この
あらい肉の世界をおおっておりまして、
そのために、先程申しました海でいえば波に
あたる部分を、まさしく自分自身だと
勘ちがいして、永い間生きてきたのであります。
私は、さっき、気持ちの働きと申しました
けれども、これだって「気」を持つ-つまり、
ゆったりとした明るい、何物にもとらわれない
神の「気」が、私どものなかに流れ込んで
心をつくっているということでありまして、
本当のところ、気の流れを受け、気の流れの
ままに生きる、活かされているというのが
人間の真実の姿なのであります。
言葉をかえていいますと、お任せする
ということですね。
何に任せるのか?人に任せるんじゃ
ありませんよ。こういう心を送って下さっている
神に任せるんです。もっといいますと、こういう
心に支えられている自分の奥に存在する神様と
直結した自由の天地をたたえるのであります。
そして、この天地と直通の道路を、気持ちが
走るために与えられているのが祈り、世界平和の
祈りなのであります。
どうぞ、私どものおもいの一つ一つを大事に
して、よろこぶ時にはよろこび、かなしむ時には
かなしみながら、しかも、与えられている気の
働きを深めるために、こうした心を深く
するために、世界平和の祈りを日々瞬々祈って
いただきたいと思うのであります。
昭和62年2月1日
考えて参ります時に、何が一番ちがっているか
と申しますと、それは、心を持っているという
ことでありましょう。
よろこび、かなしみ、いかり、なげき、寂しむ。
心というものは、その折々に、私どもの
相(すがた)をうつして、正直なあらわれを
示すのであります。
ところで、この心というものが、どれほど深く
また広いものであるかということについては、
全くといってよいほど、知られておりません。
それは、たとえば、よろこびですとか、かなしみ
という、海で申しますなら、海の波が静かであるか、
あるいはさわだっているかというそういう
ところだけをみて、ああ、今日はおだやかだ
とかですね、一寸あれているなとか、判断をして
しまいがちなので、なかなか心というものの
深さが、私どもには伝わらないのであります。
ここにいうよろこびとか、かなしみとか、
普段私どもが、心だとみているものは、実は
気持ちの働きでありまして、海でいえば波に
あたるのであります。それで、心というものを
たずねて参りますと、実は、ずっとずっと深い
よろこびとか、かなしみとか、迷いとか、
とにかく一切そういう波に惑わされない、
明るい大円光にたどり着くのです。
自分という人間の奥に、こんな明るい世界が
あったのかとおどろく程、そこは明るい。
なぜなら、そこは、神のこころの世界だから
であります。
人間というものは、いつも私が申します
ように、神の分生命(わけいのち)、神の
分霊(わけみたま)。神のこころが人をつくり、
人に分かれ、この地上で、極みない神の愛の
すがたをあらわすべく存在している
ものなのであります。
ところが、想念というおもいの世界が、この
あらい肉の世界をおおっておりまして、
そのために、先程申しました海でいえば波に
あたる部分を、まさしく自分自身だと
勘ちがいして、永い間生きてきたのであります。
私は、さっき、気持ちの働きと申しました
けれども、これだって「気」を持つ-つまり、
ゆったりとした明るい、何物にもとらわれない
神の「気」が、私どものなかに流れ込んで
心をつくっているということでありまして、
本当のところ、気の流れを受け、気の流れの
ままに生きる、活かされているというのが
人間の真実の姿なのであります。
言葉をかえていいますと、お任せする
ということですね。
何に任せるのか?人に任せるんじゃ
ありませんよ。こういう心を送って下さっている
神に任せるんです。もっといいますと、こういう
心に支えられている自分の奥に存在する神様と
直結した自由の天地をたたえるのであります。
そして、この天地と直通の道路を、気持ちが
走るために与えられているのが祈り、世界平和の
祈りなのであります。
どうぞ、私どものおもいの一つ一つを大事に
して、よろこぶ時にはよろこび、かなしむ時には
かなしみながら、しかも、与えられている気の
働きを深めるために、こうした心を深く
するために、世界平和の祈りを日々瞬々祈って
いただきたいと思うのであります。
昭和62年2月1日