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この島で生まれた息子はなんと中学生。ほぼ育児日記です。

「つばさよつばさ」「アイム・ファイン!」

2018-09-18 | 本とか
今日は、「気分は浅田次郎」なので
文体もそれっぽく書いてみようと思う。

違和感をビシバシ感じるかもしれないが、
それはとりもなおさず
私の力量と教養が不足している所以であるので、
忖度してそっと目をつむっておいてほしい。


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さて、6年生の息子は、今現在
受験まであと3ヶ月だが
やるべきことは手つかずで山積み、
という窮地に陥っている。

当然である。

受験勉強期間6ヶ月、
うち3ヶ月は無駄な塾通いで潰れたため、
実質3ヶ月というナメた受験態勢なのだから。

茂木健一郎は、
普段は好きなことにたっぷりと時間を費やし、
なるべく触りたくない苦手な科目は
受験前数週間で一気に片をつける
という勉強方法を推奨していたが、
それは茂木氏が、もともと頭の出来が良く
かつ並外れた集中力を持っていたからこそ
出来た荒技なのであろう。
凡人がそれに倣うと自分の首を絞めるだけだ。

息子は今まさにその状態である。
親に首を絞められている、が正しい表現だろう。
小学生の場合、大人が気を配り
スケジュールをたててやるべきところを、
そもそも受験に興味がない親だから
子どもが割を食っているという次第だ。
・・・ということ全てを理解しながらも
気にしちゃあいないのだから始末が悪い。


じゃあ受験はやめとくかというと、
そうもならない。
そのことについてはこの辺りに書いているので
興味のある方はそちらを読んで頂きたい。


ともかく、親の私は
目下、受験という名目を利用して。
反抗期に入る前に親の監督下で
算数・理科(物理)という苦手分野に取り組ませよう
と目論んでいるのだ。
親の勝手な思惑である。
今のところ、それは上手くいっている。


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というわけで、
一応、受験勉強強化期間に突入した我が家では
長編小説禁止令が言い渡された。


息子は、本が好きだ。
特に、ファンタジーやミステリーなど
読み出したら止まらない長編ものに
手を出したがる。

危険だ。
勉強どころか寝食を削って没頭するのが
目に見えている。
トイレにこもる時間も増えるだろう。
トイレを文字通り「rest room」と捉える息子は
トイレとなればいそいそと本を持ち込み、
油断すれば30分も出てこない。
そんなトイレタイムを1日に何度も作る。
こんな態度で勉強などできるはずはない。


彼も一応その危険性は理解しているようで、
図書館に連れて行け!
と駄々をこねるような真似はしなくなった。
これは、彼にとっては画期的なことである。
「人生は楽しむためにある」がモットーで
「我慢?なにそれ?」を突き通してきた彼にしては
随分成長したと褒めてやるべきであろう。



とはいえ、今までアホほど読んでいた活字好きが
それで収まるわけがない。

彼が見つけ出した抜け道。
それは、短編エッセーを隙間時間にかき込む
読書スタイルである。
禁煙区域で仕事に追われるヘビースモーカーが
隙を捻出してトイレや換気扇の下に駆け込み
必死さを丸出しにして高速でタバコを吸う姿に似ている。
「飢え」「禁断症状」という言葉が実にしっくりくる。

トイレに行く前にサッと本を服の下に隠し、
お尻やお腹を押さえた不自然な格好で
小走りに移動する息子。
もう笑うしかない。


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そんな彼が、今、手にするのはこちら。

おなじみ、JAL機内誌連載エッセー、
浅田次郎の「つばさよつばさ」単行本である。
面白いに決まっている。

もとより私が自分のために買ったものである。
私は、この離れ小島に住み、
飛行機で帰省する生活を始めて以来、
「つばさよつばさ」のファンなのだ。
しかし、私が息子に勧めた訳ではない。
いくら私でも、この時期にそんなことはしない。
息子が勝手に本棚から見つけ出したのだ。



息子は幼い頃から、JALに乗るたびに
機内誌を取り出すと真っ先にこのエッセーの項を開き
薄ら笑いを浮かべながら読みふける親の姿を見てきた。

「ねえ、面白いの?そんなに面白いの?」と
本をのぞき込むことはあったが、
その当時の息子にとっては
自ら読むには難しい内容であったため、
「僕には難しいけど、なんか面白いらしい」
という印象だけがインプットされた模様。


そして時は流れ、先日のこと。
なんとも良いタイミングで
本棚に並ぶこのタイトルがたまたま目につき、
機内の記憶がよみがえったらしい。


これ、JALのアレじゃない?


そして読み始めた。

読める!
面白い!!
なんだ、大人はこんな面白いものを読んでたのか!!


新境地を開いた彼は、
今、夢中になって読みふけっている。
トイレで、寝室で、ハミガキしながら、
食事の時も、気がつけばこっそり本を開いている。
短編なので、本気で叱られる前に
区切りよく本を閉じることができ、
親子激突のもとにもなりにくい。


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彼は、面白いところがあると
私に聞かせるために声に出して読むので、
読む速度はそれほど速くはない。
そしてこのエッセー、
「面白いところ」の出現頻度は極めて高いのである。
そのたびに音読が始まるのだから
どちらかといえば遅読の部類に入るかもしれない。
しかしそのぶん、堪能している。
音読するときの喜びに満ちた顔を見ればわかる。


子どもの音読は学校でも勧められているが、
私は、教科書の音読などというつまらぬことは
やらなくていいと思っている。
どうせ授業でこねくり回す文章なのだから
家に帰ってきてまで読む必要はない。

そうではなく、家では
こういう「勝手に読む好きな本」の音読をしてほしい。

声に出すからこそ読み間違いを正すこともできるし、
意味の分からない言葉もその都度確認しやすい。
これは、黙読の穴をカバーする、かなり重要なことだと思う。

本で得た知識は、漢字を読み間違えたまま
記憶してしまうことがある。
ふりがなをふらざるを得ない難読漢字なら
むしろ助かるのだが、
世間的にはふりがなをふるまでもないのだろうが
自分は読み方を知らない手合いが一番厄介だ。

私は長らく「月極」を「げっきょく」と脳内で読んでいた。
「つきぎめ」という正答を知った時の衝撃は
記憶力に乏しい私でも忘れられない。
夫は学生の頃、
「兎に角」を「うさぎにつの」と読み続け、
ひとり首をかしげていたらしい。

「共依存」を「ともいぞん」と読んだ友人は、
私が恐る恐るその間違いを指摘すると、
ずっと独学だったから全然気づかなかった!
と顔を赤らめていたっけ。
しかし、実際、そんなことは誰にでも起こりうるのだ。


それが理由というだけではないが、
文章を声に出して読む、
読んだ内容について人と語り合うというのは、
案外大切なことかもしれないと
この年になってつくづく思う。


息子は昨日、「鬼籍」「脱稿」の意味を知り、
「甚だしい」の読み方も知った。
ついでに浅田次郎と白洲次郎の違いを知り、
モナコにカジノがあることを知った。

受験には出ないだろうが、教養という点では
なかなか実のある学習である。

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数ヶ月前のことだったか、
宮古島の小学校で
学力向上のために「速読」が取り入れられている
というニュースを目にし、
なんとも嫌な気分になったことがある。


その時に思い出したのが「睡眠学習」。


小学生の頃、弟が買っていた
「コロコロコミック」の裏表紙に
いつも胡散臭さ全開の通販グッズが載っていた。
そこにあった「睡眠学習」用テープレコーダー。
小学生の目にも、そんなもので学習できる訳はない
と分かるような代物だが、バカバカしくて面白かった。
あれは売れていたのだろうか?


いや、れっきとしたお役立ち能力らしき速読を
バカバカしさが売りの睡眠学習と同じにしては失礼なのだろうが、
同じ臭いを感じたのだから仕方がない。


要するに、「見当違い」なのである。


教育とはなんぞや、学力とはなんぞや、
子どもが本を読むことの意味は何か
という根本的なところで本質を見失い、
見当違いな方向で
哀れな独り相撲をとっているように思えるのだ。



速読は、情報収集のためには良いかもしれない。

しかし、小学生には何よりもまず
文章を楽しむこと、良い文章を堪能することを
学んで欲しい。
そのためには、むしろ遅読、精読こそふさわしい。

情報収集のための速読なんてことは、
そういう土台が出来た後で、
仕事や試験で必要になってから
やりたければやればいいって程度のものだ。
順序が逆では、育つものも育たない。

幼児は気に入った同じ本を、
大人が読み過ぎて飽きてもなお
「これ読んで」と持ってくる。
それが幼児の読書の本質を表している。
小学生になるともちろん随分と変貌するのだが、
好きな本はやはり何度も繰り返し読む。
それは決して悪いことではない。
先を急ぐばかりが能では無いのだ。
嬉々として「面白いところ」を音読する息子を見るにつけ
つくづくそう思う。



・・・とここまで書いてふと不安になったので
念のため補足しておくが、
ならば「読む速度」を早めて「読む回数」を増やせば良かろう
などという話ではない。
子どもに速読を推奨するような思考の持ち主だと
誤ってそちらの方向にシフトするのではあるまいか
という疑念がよぎったので、
蛇足と思いながらも書き足しておく。

言うなれば、子どもは、
家族と一緒にゆったりと味わう
美味しく楽しい食事を望んでいるのだ。
食事で取る栄養素をサプリメントで飲んだ方が
効率が良いよ、と言われたところで、
まともな人なら幼児をサプリ漬けにすることはないだろう。
それと同じである。
子どもの速読は、時短を狙って
サプリで栄養をとらせようと目論むようなものだ。
栄養がとれているのかどうかも分からない。
心の栄養という意味では、ゼロに近い。



話をもとに戻す。



たしか浅田次郎氏もどこかで書いていた。
氏も、予想通りというか何というか
乱読多読の子どもで、
ついでに言えば遅読で、
気に入った文章があれば声に出して読み、
更に気に入ると書き写していた。
「効率」を考えぬ「喜び」としての文章
楽しむ子だったはずだ。
氏の場合、親に読み聞かせるわけでもなく
一人きりでこれをやっていたのだから
マニア度は息子の比ではない。
相当な変わり者である。
しかしそれが良かったはずだ、と私は思う。

私ごときが大先生のことをこんな風に評するなど
笑止千万、臍で茶ぁ沸かすわってなものなのだが、
少なくとも、
「浅田次郎は子どもの頃に速読をマスターして
 万書を読み飛ばしてきた」
などと言われるよりも、ずっと納得できるのは確かだ。
秀逸な文章を舌の上で転がすように味わう喜びを知らぬ人が、
味わいのある文章など書けるはずもない。


子どもの読書に「効率」を求める人は
この辺りのことをどう考えているのか
聞いてみたいものだ。



今日も朝から息子は快調に
「つばさよつばさ」を楽しんでいた。

このエッセーが提供してくれる笑いのおかげで、
算数物理ストレスが軽減し、
親子のぶつかり合いも減っているように思う。

氏に感謝しつつ、
私は続編の2冊をアマゾンでポチった。

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